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惰眠から覚めたばかりの寝ぼけ眼で僕を睨み、苛立ちを剥き出しにする男の顔には、何処か見覚えが……
いや、こりゃ他人の空似なんてレベルじゃない。
月並みなサラリーマンと、引きこもりの拉致犯。身なりとキャラは全然違うのに、よく見るとそいつは、
「君……何で僕と同じ顔をしてる!?」
「うるせぇ!」
容赦なく僕をゲーム機の角で二度ぶん殴り、拉致犯は、少女の方へ向き直った。
「オイ、可愛い顔して良くやンなぁ。こんなリーマン、引っ張り込みやがって」
首を横に振る少女の声は、掠れて殆ど聞こえなかった。
「俺さぁ、長い間、通学するお前を見てた。始めは部屋の窓から、次は駅まで後をつけ、電車の中でもはす向かいの席から、ずっと……拉致って家へ連れてきたのは、この汚れた世界から、お前を守ってやりたいから、だ」
僕は何とか頭を起こす。でも、まだ体が痺れて動けない。
「死んだ父さんや母さんの代わり、お前は俺と結婚して家族になる。そしたら俺、ちゃんと就職して、平凡な会社員になる。で、この家で二人きり、お前は俺の帰りを待ち、平凡な幸せって奴を噛み締める……」
ソイツは調理台の方、僕の妻が朝ご飯を作った、あの包丁へ手を伸ばした。
「予定は全部出来上がってたのに」
サラダトーストの野菜を刻む刃が、大きく振り上げられ、
「何で逃げようとすンだ、お前!? 俺の夢、台無しにしやがって!」
「やめろっ」と大声を上げても『僕』の叫びは『俺』へ届かない。
垂直に落ちた刃は少女の胸を貫いた。夕陽の赤よりもっと鮮やかな紅の奔流が視界を染め上げる。
手遅れと知りながら、『僕』はもう一度、体の力を振り絞り……
止めようと伸ばした手が届く瞬間、憎むべき拉致犯=『俺』の体は消え去った。
代わりに、何時の間にか平凡なサラリーマン=『僕』が、上乗りで彼女を押さえつけている。
一体、何がどうなった!?
周りを見回しても『俺』の姿は無い。魔法の様に、何時の間にか『僕』の体と入れ替わっている。
震える右手が包丁を取り落とし、指先を赤い雫が伝った。
彼女の胸から溢れる血潮が床を濡らす。キッチンからリビングまで広がり、深みを増した泥濘が周囲を呑み込んでいく。
そして、瀕死の苦悶に歪む少女の瞳が、真下から『僕』を見つめた。
「違う、そんな目で見るな! お前を拉致したのは僕じゃない」
あの黒い穴のような目……列車の中にいた女の、僕を見る眼差しが何を意味していたのか、やっとわかったよ。
あれは死人の目だ。
今、間近で死にゆく女子高生のように、ゆっくり瞳孔が開き、焦点を失っていく瞳の行き着く先。
そこに感情なんて、窺える筈も無い。
ホントは一体、どんな女性だったのか? この先、どんな未来、生き方を夢見ていたのか?
何も知らない。見えてない。
ホントの彼女を知る気もない。だって、愛する「妻」の設定に、そんなの全部要らないから……
我が家が血に染まり、事件当時の惨状を取り戻すに連れ、僕の姿も又、変わり続けている。
「普通」の象徴だったビジネススーツは汚れたトレーナーに替わり、顔は無精髭に覆われて、忘れようとした「拉致犯」の記憶が否応なく蘇り始める。
家族を作る妄想を、一人きりの部屋で暖めた日々。
その筋書き通り、憧れの少女を下校時に襲い、車へ連れ込んだ時の昂ぶり。
傷つけるつもりは無いと言ったのに、反抗され、罵倒され、手を下した時の絶望。
そして二年の逃走に疲れ果て、駅のベンチで惰眠へ落ちていく憔悴。
俯き、頭を抱える僕の下から声がする。
「見て……私を……」
血溜りの中で息絶えた筈の女が呟く。
「目を逸らすのは、許さない……」
その暗い、空洞のような眼がまん丸く見開かれ、
「あなたが、私を、殺したの」
言い放つ女の顔は、もう腫れておらず、少女のままでも無かった。美しい栗色の髪を血に浸し、夢の中の『愛妻』が真っ黒い死人の瞳で僕を凝視する。
ヒィイイッ!
だらしない悲鳴を上げ、僕はダイニングキッチンから逃げ出した。
廊下へ出ると……
あぁ、皆さん、お揃いだ。列車にいた小学生や老婆、主婦、OL等が壁を背に立ち、黒い眼差しで僕を見る。
ほぼ年齢順に並んでいた為、それぞれの差異を比較できた。お陰で、彼女達の全てが「同一人物」のバリエーションらしい事も推察できる。
あれはきっと、十代で拉致され、殺された少女の可能性そのもの。ここで命を失う事無く、穏やかに時を重ねていけば、なり得た姿の数々だ。
小学生の姿は彼女の過去。中年のオバちゃんは二十年後の彼女で、老婆はずっと先の未来。
無限のバリエーションがあり得る、その成長の可能性を僕が根こそぎ断ち切った。長い逃亡の果て、現実から目を逸らし、忘却と妄想へ逃げ込もうとした。
僕にとって都合がいい可能性の未来。成人した彼女が、平凡な妻となる夢のユートピアへ、と。
だとすれば、多分、車両内の吊り広告を変化させ、「行くな」と警告したのは僕自身だろう。
あの悪夢の中にある唯一のリアル=幻の列車から惨劇の現場へ導く呪詛を恐れる余り、潜在意識が「思い出す」のを拒否し、イメージへ働きかけたのだと思う。
確かに進むべきじゃなかった。今は無限のループより、『妻』の死体が横たわる我が家の方が恐ろしい。
「乗せてくれ……僕を……」
指先の血糊で玄関のドアノブが滑り、うまく握れない。
ひたっ、ひたっ。
焦りに焦る内、後ろから複数の気配が近づいてくる。背中に突き刺さる眼差し。柔らかい女の足音、首筋を撫でる息遣い。
「頼む、あの列車へもう一度!」
喚きながら扉へ力を込め、開いた隙間から奥の闇へ踏み込むと……
血塗られた玄関を抜けた先、そこはJRと私鉄のラインが交わる真夜中のターミナル駅だ。
どうやら、プラットホームのベンチで眠り込んでいたらしい。
膝を抱えたまま、僕は惰眠から目を覚ます。辺りを見回した途端、ホームへ近づく電車の光が見えた。
でも、生憎乗れそうに無い。誰か通報したのだろう。鉄道警察官らしい奴を連れ、走って来る駅員が見える。
良いさ、もう終わりにしよう。
どうせ『それ』は追って来る。どうせ『それ』は許さない。何時までも、何処までも、終わらないループの中で。
迫る駅員の手前、人影がボウッと浮かんだ。一人や二人じゃない。僕が通過した、あの車両と同じ数の女達が立ち並び、プラットホームを埋め尽くす。
オバちゃん、老婆、少女、そして血塗れでも美しい僕の妻……一人の女性がなり得た可能性、その全てが黒い瞳で僕を見ている。呪ってる。
ひたっ、ひたっ。
左右から挟まれ、逃げ道はもう一つだけ。電車がホームの車線へ滑り込む寸前、僕はベンチから立ち上がり、小走りして、勢い良く前へ跳ぶ。
グシャッ!
車輪で脳髄が轢き潰される一秒にも満たない刹那、全身へ突き刺さる夥しい数の視線を感じ、そして、
体を揺らす単調な振動、微かな機関音、程よい周囲の人いきれ……心地良いうたた寝から目を覚ますと、僕はいつもの電車の中にいた。
読んで頂き、ありがとうございます。
予定より少し遅れがちになりましたが、何とか書き終える事ができました。
次は以前に書いたプロレスネタの続きを投稿する予定です。
ホラー系も続けていきますので、良かったら、又、ご覧下さい。




