机の主
ボタンさんと別れたクリンとルルは、電気コードの温かな聖域を離れ、再びひんやりとしたフローリングの荒野へと足を踏み出した。
ボタンさんから譲り受けた一筋の白い糸は、クリンの銀色の角にしっかりと巻き付けられている。
それはただの糸屑ではなく、この過酷な机の下で生き抜いてきた先達からの、形のない「勇気」のバトンだった。
二人は今、机の最も深い場所――「主」の足元が位置する領域へと近づいていた。
この場所は、これまで歩いてきた場所とは明らかに空気が違っていた。
埃はより細かく、空気は主の体温を帯びてわずかに湿っている。
そして何より、上から降ってくる音の「質量」が違った。
「ねえ、ルル……見て。あんなに大きな柱が動いている」
クリンが声を震わせながら指差した先には、机を支える木の脚とは比較にならないほど巨大で、柔らかな布に包まれた「二本の山」が聳え立っていた。
それは主の足だった。
紺色の靴下に包まれたその巨大な存在は、時折床をトントンと刻むように叩き、あるいは無意識に左右に揺れている。
その動き一つひとつが、クリンたちの住む世界では局所的な地震となって伝わり、フローリングを激しく震わせる。
「しっ、静かに、クリン。ここからは『主の呼吸』を聴く場所よ」
ルルはそう言って、クリンを机の脚の付け根にある、最も深い影へと導いた。
そこからは、机の天板という名の「空」を隔てて、あの上にいる主の気配が、驚くほど生々しく伝わってきた。
これまでのクリンにとって、主とは自分を使い、自分を落とした「巨大な運命」そのものだった。
しかし、この場所で耳を澄ませてみると、聞こえてくるのは神様のような万能な存在の音ではなかった。
「……はぁ」
重苦しい吐息が、天板の隙間を抜けて降りてきた。
続いて、紙がぐしゃぐしゃと丸められる音。ペンが乱暴に放り出され、机を転がる音。
「どんな人なんだろう。あんなに悲しそうな音を出すなんて」
クリンは、自分が書類を束ねていた時には決して気づかなかった、主の「揺らぎ」を肌で感じていた。
主は、完璧な存在ではなかった。
時折、何かに苛立つように貧乏ゆすりをし、床を激しく叩く。
かと思えば、長い沈黙のあと、鼻歌を口ずさむこともある。
その鼻歌は少し音程が外れていて、けれど聴いているクリンたちの心を不思議と落ち着かせる、不器用な優しさに満ちていた。
「ルル、見て。上が光ったよ」
クリンが見上げると、天板の僅かな継ぎ目から、青白い光が幾筋も漏れ出してきた。
パソコンのモニターが放つ光だ。
その光に照らされて、主の影が床に長く伸びる。
その影は、机の上で見るよりもずっと小さく、どこか丸まって見えた。
「主も、戦っているのね」
ルルが寄り添うように言った。
「あの上で、正解のない何かと向き合って、迷ったり、間違えたりしながら。私たちは、主が完璧でいるための道具だと思っていたけれど、本当は、主の不完全さを支えるためにあそこにいたのかもしれないわね」
クリンは、自分の体に巻き付いた糸をそっと撫でた。
自分がいたあの机の上は、戦場だったのだ。主という一人の人間が、真っ白な紙という敵を相手に、言葉を、図形を、夢を刻み込もうとするための戦場。
自分はその一助としてそこにいた。そして今、役割を終えてこの下に落ちたけれど、こうして主の「本当の姿」――誰にも見せない溜息や、無意識の癖、孤独な背中の気配――を知ることができた。
その時、主が椅子を大きく後ろに引いた。
「ガラガラッ!」という車輪の回転音が頭上で爆発し、クリンとルルは反射的に身を寄せ合った。
主が立ち上がり、部屋の向こうへと去っていく足音が遠ざかる。
残されたのは、モニターの青白い残光と、主がいなくなったあとの、少しだけ寂しげな余熱だけだった。
「主も、疲れるんだね。ぼくたちと同じように」
クリンはそう呟きながら、主が先ほどまで座っていた場所を見つめた。
ただの文房具だった頃には、主は「絶対的な利用者」でしかなかった。けれど今は、同じ空間で、同じように時間を過ごし、同じように明日を待つ「同居人」のように感じられた。
「ルル。ぼく、この場所がもっと好きになったよ。主が頑張っているところを、一番近くで応援できるんだから」
クリンの言葉に、ルルは優しく跳ねて応えた。
主という存在の大きさと、その内側にある繊細な響き。
それを知った二人の冒険は、単なる「迷子の旅」から、この場所を愛するための「観察の日々」へと、その色を変えようとしていた。




