78話 黒い溝の呼び声
俺たちは、目の前に立ちふさがる山に向かって歩き出した。
海岸を離れ、内陸へと足を踏み入れる。
砂浜のざらざらした感触から、すぐに土の柔らかい地面に変わった。
だが、そこにある光景は俺が知っている島の自然とは、かけ離れていた。
まず、植物の形がおかしい。
生えている木々はどれも幹がねじ曲がり、まるで苦痛に身をよじっているように見える。
樹皮には血管のような赤い筋が浮き出ていて、脈打つたびにゆっくりと膨張・収縮を繰り返している。
風もないのに、枝の先がピクリと痙攣するように動いていた。
視界の端で、絶え間なくその動きがちらつく。
落ち着かない。
目を逸らしても、すぐに別の枝がピクピクと震え、俺の視線を引っ張る。
葉の色は不自然に濃い緑で、ところどころ黒ずんだ斑点が広がり、腐敗の予感を漂わせている。
触れれば、ぬるぬるとした粘液が指に絡みつきそうで、思わず手を引いてしまう。
地面の草も普通じゃない。
一本一本が細長く、針のように尖っていて、足を踏み入れるたびにチクチクと刺さるような痛みがある。
草の根元から、薄い紫の霧のようなものが立ち上り、足元を這うように広がっていく。
霧は冷たく、足首を撫でる感触が、まるで無数の細い指が這い上がってくるようだ。
息を吸うたびに、甘ったるい腐敗臭が鼻腔を犯す。
昨夜の悪夢の残り香と、同じ匂いだ。
生理的に嫌悪感ってこういうものだと初めて実感した。
俺の心臓が、ドクン……ドクン……と速くなる。
山脈の脈動と、重なり合っている気がする。
エレナの足音が、俺のすぐ後ろで小さく響く。
彼女の呼吸が、わずかに乱れているのがわかる。
俺の背中にも、エレナ以外の誰かの視線が刺さる。
彼女以外誰もいないのに、確実に、見られている。
「シビさん、あそこ……」
エレナが杖で指し示したのは、岩陰に放置された一式の装備品だった。
船員の誰かが持っていたであろう槍と、中身の入ったままの革袋。
槍の柄は土に浅く刺さり、先端がわずかに傾いている。
革袋の紐が緩く解け、中から干し肉や水筒が少し零れ落ちているのに、争った形跡はない。
血痕も、引きずられた跡も、ない。
まるで持ち主だけが煙のように消えてしまったかのように、不自然にそこへ置かれていた。
袋の布地が、霧に濡れて黒ずみ、かすかに甘ったるい腐敗臭を放っている。
昨夜の夢の残り香と同じ匂いだ。
俺の鼻腔が、ぞわりと引きつる。
「……武器を捨てて逃げたのか? それとも、持っているのが怖くなったのか?マッシュたちのキャンプ地はここだったかもな。」
俺は剣の柄を握り直した。
いつもなら安心する鉄の重みが、今はひどく不快に感じられる。
柄の冷たさが、手のひらに染み込んで、指先まで冷たくなる。
剣の重ささえ、この島の空気に負けて、ずっしりと沈み込むように感じる。
握る力が、わずかに震える。
「シビさん、あちら……。草が踏み荒らされていますわ。足跡も続いています」
エレナが杖で指し示したのは、山へ続く本道から少し外れた、ねじ曲がった樹木が密集する茂みの奥だった。
草が乱暴に踏みつけられ、茎が折れ、土が抉れている。
足跡は不規則で、つま先が深く沈み、踵が引きずられたような跡が残っている。
まるで、慌てて逃げた人間のものだ。
でも、足跡の周りの草が、奇妙に萎れている。
緑が黒ずみ、葉が枯れたように垂れ下がっている。
足跡を追うと、茂みの奥へ吸い込まれるように続いている。
木々の枝が、ピクリと痙攣するように動くのが、視界の端でちらつく。
風がないのになぜ動いてるんだ?
この島に入ってから、常識が崩れていっている気がする。
「山へ向かったんじゃなく、こっちへ逃げたのかもしれませんわ……? まだ近くにいるかもしれませんから、行ってみませんか?」
エレナの声が、少しだけ上ずっている。
彼女の杖を持つ手が、微かに震え、杖の先が地面を軽く叩く音が響く。
「あ……あぁ。向かってみよう」
ずっと俺の背中に、冷たい視線が刺さる。
誰もいないのに、確実に、何かが俺たちを見ている。
戦士や盗賊などの気配察知にも察知できなくて。
魔法での探知呪文も無駄になっていた。
それなのに、茂みの奥から低い息遣いが聞こえるような気がした。
俺の心臓が、ドクン……ドクン……と、脈動が速くなる。
息を吸うたびに、肺に霧が絡みつき、甘い腐敗の残り香が喉を焼く。
俺たちは警戒を強めながら、その踏み荒らされた跡を追って茂みの中へと分け入った。
一歩進むごとに、周囲の静寂が耳に痛いほど刺さる。
風のない空気が、肌にべっとりと張りつき、息をするたびに肺の奥まで重く沈み込んでくる。
足音が、枯れ葉を踏むたびにカサカサと乾いた音を立てるが、音が途切れる瞬間、耳の奥でぱちんと何かが切れるような静寂が訪れる。
その静けさが、逆に神経を逆なでする。
枝がピクリと痙攣するたび、視界の端で影が揺れ、俺の背筋に冷たいものが這い上がる。
冷たい指が、ゆっくりと背骨をなぞるような感覚。
神経が削られていく。
一本一本、細かく、じわじわと。
こんなの普通の人間が踏み入れたら頭がおかしくなるような気がする。
理性が、霧のように薄れていき、代わりに「逃げろ」「戻れ」「消えろ」って本能が叫び続ける。
でも、俺はまだ、踏みとどまれる。
精神防御が、薄い膜のように俺を守っている。
でも、その膜が、いつ破れるかわからない。
エレナの方を見ると、額から汗が出ている。
汗の粒が、額を伝って頰に落ち、日の光を反射してキラリと光る。
俺が彼女の顔を見ていたのを知ると、いつもの穏やかな小春日和みたいな雰囲気で微笑んでくれた。
その笑顔が、逆に胸を締め付ける。
彼女の瞳の奥に、微かな恐怖が揺れているのがわかる。
でも、彼女はそれを隠して、俺に微笑む。
その優しさはうれしいが無理をしていないか心配してしまう。
俺は彼女の肩をポンと置き、微笑み返してみた。
しばらく進むと、大きな岩の重なりによってできた、小さな洞窟のような場所に行き当たった。
足跡は、その暗い穴の中へと消えている。
入り口の岩肌が、湿って黒ずみ、苔のようなものがべっとりと張りついている。
穴の奥から、かすかに湿った空気が漏れ出てくる。
甘ったるい腐敗臭が、鼻腔を犯し、昨夜の悪夢の残り香と重なる。
俺の喉が、反射的に締まる。
「おい、誰かいるのか。……船長に頼まれて捜索に来た冒険者だ。聞こえるなら返事をしてくれ」
俺の呼びかけに、返ってきたのは言葉ではなかった。
穴の奥から聞こえてきたのは、粘り気のある「ピチャ……ピチャ……」という音と、何かが硬いものを削るような不快な音だった。
ピチャ……ピチャ……?
肉を掻き回すような、湿った音。
骨を削るような、キリキリとした甲高い響き。
俺の背中が、ぞくりと粟立つ。
エレナの息が、わずかに止まるのがわかる。
俺は腰の剣を引き抜き、エレナに目配せをした。
彼女が黄金の錫杖を掲げると、先端の魔石が淡い光を放ち、洞の内側を照らし出す。
光がゆっくりと広がり、湿った岩肌をなぞる。
岩の隙間から、水滴がぽたりと落ちる音が響く。
魔術師の光と違って僧侶の光の呪文は浄化もあるから、こういう得体の知らない場所では本当に助かる。
光の先に、俺はそれを見つけた。
「……いたぞ」
俺は鼻を突く腐敗臭に顔をしかめながら、慎重に足を踏み入れた。
近づくにつれ、臭いが濃くなる。
甘く腐った肉の匂いと、血の鉄臭が混じり、喉の奥まで絡みつく。
息を吸うたびに、肺が焼けるように痛む。
岩陰でうずくまっている男。
制服は無残に引き裂かれ、布が血と粘液で黒く染まり、破れた部分から白い肌が覗いている。
裸足の指先は爪が剥がれるほど地面を掻きむしった跡があり、土に赤黒い血痕が残り、指の関節が白く浮き出ている。
指が、微かに痙攣しているように見える。
男の背中が、ゆっくりと上下に動いている。
息をしているのか、それとも……何か別のものが動いているのか。
腐敗臭が、さらに強く鼻腔を犯す。
俺の背中が、ぞくりと粟立つ。
視線が、男の体から俺に向かって、じっとりと刺さる気がした。
「しっかりしろ! 船に帰るぞ!」
俺が男の肩を掴んで揺さぶると、彼はゆっくりと、錆び付いた機械のような動きでこちらを振り向いた。
虚ろな目で俺を見上げたその瞳には焦点がなく、瞳孔が異常に広がり、黒目がほとんどを占めている。
口からは意味をなさない言葉が漏れている。
「……き、きた。ピィ……リィ……。綺麗だ……山が、呼んでる……」
男の瞳の奥に、俺が昨夜見たあの悪夢と同じ色が宿っているのが見えた。
黒い溝のような闇が、瞳の底でゆっくりと渦を巻いている。
その渦が、俺の視線を吸い込もうとする。
助けようと腕を引いた瞬間、男は俺の手を異常な力で振り払い、這いずるような動作で山の方へ駆け出そうとした。
腕が、骨が軋むような力で振りほどかれ、俺の指が痛む。
「ダメです、シビさん! 彼の精神はもう、あの山の一部に取り込まれていますわ!」
エレナが悲鳴に近い声を上げた。
彼女の声が、洞窟の中で反響し、耳に痛い。
直後、男の肌の下で、まるで無数の虫が這い回っているかのように何かが不気味に蠢いた。
皮膚が波打ち、黒い影が内側から押し上げて、血管のように浮き出る。
彼は短く引き攣った声を上げると、そのまま糸の切れた人形のように、くたりと地面に横たわった。
体がピクピクと痙攣した後、ピタリと止まる。
男の唇が、最後に微かに動いた。
「……山が……呼んでる……」
言葉が、空気に溶けるように消えた。
その直後、背中がゆっくりと開き、黒い粘液が滴り落ち始めた。
肉が溶けるように、骨が浮き出るように、形を失っていく。
粘液が、地面に染み込み、岩肌を黒く変色させる。
俺は剣を下ろし、息を吐いた。
エレナが俺の腕を強く掴む。
彼女の指が、震えている。
俺も、震えていた。
どこからか、低い笛の音が聞こえてきた。
『ピィ……リィ……』
俺はエレナの手を握り返し、洞窟の入り口へ後退した。
外の空気が、わずかに新鮮に感じる。
ここからでも山がよく見えていた。
山は、黙って俺たちを見下ろしている。
俺は剣を握りしめ、エレナに言った。
「行こう。まだ戦える余裕があるうちに登ろう」
本拠地だと思われる山に行くのは今の時点ではとても危険だと思う。
雲を突き破っているところを見ると、低く見積もっても富士山クラス。
ここに来てから2日目だが、一回も雲が晴れることがなかったので山頂がどれほど高いのがわからなかった。
エレナは小さく頷き、俺の腕を掴んだまま歩き出した。
俺はもう一度だけエレナの顔を見て歩き出した。
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