77話 朝と道しるべ
何か、柔らかい。
目を覚ました瞬間、俺はふかふかとした“何か”に顔を埋めていた。
一瞬山かと思った。
でもそれは間違いだとすぐに気づかされた。
柔らかくて、弾力がある。
温かい体温が頰にじんわりと伝わり、甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
花のような、ミルクのような、優しい甘さ。
心臓の鼓動が、どくん、どくんと俺の顔に直接響いてくる。
状況が理解できず。
うずめていた顔を顔を慌てて、引き抜いた。
視界が開け、一瞬にして目が覚めた。
そこにいたのは、エレナだった。
俺は、状況を見る限り。
エレナの胸にうずまっていたみたいだ。
「どどど……どういうことだ!?」
俺の声が裏返る。
顔が一気に熱くなり、耳まで火照る。
喉がカラカラに乾いて、言葉が詰まる。
エレナは至って平然としていた。
「起きたみたいですわね」とだけ答えてくれた。
その声は穏やかで、いつもの優しい響き。
だが距離が近い。近すぎるだろ。
俺の腕は、彼女の背中に回り、がっちりと抱きしめていた。
彼女の体温が、布越しにじわじわと伝わってくる。
胸の柔らかさが、俺の胸に押しつけられたまま離れない。
甘い匂いが、髪から、肌から、強く漂う。
彼女の心臓の鼓動が、俺の鼓動と重なって響く。
どくん、どくん、と速い。
「エ……エレナ?」
事情を聞いて、俺は絶句した。
昨夜、俺がうなされていたらしい。
苦しそうな寝言を繰り返し、体を震わせていたところを、エレナが心配して見に来た。
すると、俺がいきなり彼女に抱きついて、離さなかったという。
そのまま添い寝。
しかも、いつの間にか寝袋から出ていて、毛布までかけられている。
どうやって寝袋から出たのかも覚えていなかった。
体がすごく熱い。
昨夜の悪夢の残り香が、下腹部にじんわりと疼きを呼び起こす。
胸に埋まっていた感触が、皮膚の下に染みついたまま。
恥ずかしくて、情けないのに、どこかで、安心してしまっている自分がいる。
エレナの温もりが、本物だとわかって、少しだけ息が楽になる。
でも、それが余計に俺を混乱させる。
エレナの瞳が、俺をまっすぐに見つめている。
穏やかで、優しくて、少しだけ心配しているのがわかる。
その視線が、俺の胸を締め付ける。
「本当に……ご……ごめん」
俺は慌てて腕を緩め、体を離した。
顔が熱い。
耳まで火照って、喉がカラカラに乾く。
エレナは穏やかに微笑みながら、
「甘えて抱き着いてくるシビさん、可愛かったですわよ?」
その声は優しくて、いつもの彼女らしい。
だが、俺は顔を上げてエレナを見る。
微笑んでいる。確かに笑っている。
頬が柔らかく緩み、瞳が優しく細められている。
でも……わずかに、身体が震えている。
肩が微かに上下し、指先が毛布の端をぎゅっと握りしめ、布地に小さな皺を作っている。
息遣いが浅く、胸の動きがわずかに速い。
唇の端が、笑みの形を保ちながらも、微かに引きつっている。
やはり、この場所の異様な空気。
本能が警鐘を鳴らしているのだろう。
俺にも分かる。
無意識に拒否しているのがわかる。
頭の奥で、かすかな圧迫感がある。
いつもなら完全に遮断される恐怖が、今は薄い膜越しにじわじわと染み込んでくる。
肌が粟立ち、背筋に冷たいものが這い上がる。
人は眠っているとき、もっとも無防備だ。
潜在意識は現状維持と生存を最優先する。
昔読んだ本の一節が頭をよぎる。
つまり、本能が「ここは危険だ」と判断している。
ザハクより強いかどうかは分からない。
だがこれは、質の違う恐怖だ。
肉体的な脅威じゃない。
心を、魂を、じわじわと削り取るような、静かな絶望。
冷静でいなければ。
焦れば、取り返しのつかないことになる。
「エレナ」
食事の準備中に、俺は静かに名前を呼んだ。
声が少し掠れて、喉の奥に残る違和感が疼く。
エレナはゆっくりと顔を上げ、
「どうかいたしましたか?」と穏やかに返した。
その瞳が、焚き火の炎を映して揺れている。
いつもより少しだけ、焦点が合っていないように見えた。
彼女のまつげが、微かに震えている。
「念には念を押して、アウリス神の奇跡の呪文で食事を作ってもらっていいか?」
「まだ保存食はありますわよ?」
「……頼めないか?」
エレナは一瞬だけ視線を伏せる。
長いまつげが影を作り、頰に落ちる。
彼女の指先が、膝の上で小さく握りしめられるのが見えた。
息を吸う音が、わずかに乱れている。
「やはり、そこまで気を使う場所なのですね」
その言葉に、俺は小さく頷いた。
昨夜の悪夢が、まだ体に染みついている。
今までの常識が通じない場所だと思う。
実際ここでとった魚は致死量だったり、呪いみたいな効果もあった。
飲み水もやばいと思う。
何かが潜んでいる。
時間がたったら変質したらどうなる。
ならこんなことで僧侶の呪文を使うのもなんだけど、安全を取った方がいいと思った。
きっとアウリス神の加護で浄化された食事なら、少しは違うはずだ。
神を信じない俺が、神にすがるなんて思いもしなかった。
「エレナも察してるだろ」
「昨日のこともありますし……本能が、ここを離れたいと訴えていますわ。場慣れしている者ほど、違和感が強いのでしょう」
静かな声だった。
エレナの言葉は穏やかだが、息遣いがわずかに浅く、声の端に緊張がにじんでいる。
彼女の瞳が、焚き火の炎を映して揺れるたび、瞳孔が微かに広がっているのが見えた。
「本来なら、食事があるのに奇跡を使うのは、良くないと思います。でも……残りは問題が解決してから食べることにしましょう」
「そうだな」
「シビさん。この後、どう動きます?」
「山を調べるか、周辺を探るか……だな」
エレナは小さく頷く。
その動きが遅く、喉がごくりと動くのが見えた。
彼女の首筋に、細い汗の筋が一本、ゆっくりと滑り落ちていく。
「それぞれのリスクは、どうですの?」
「おそらく問題の中心はあの山だと思う。行けば早く核心に触れられる可能性はある。でも、いきなり本丸に踏み込むことになる。何が起きるか分からないのが怖いよな」
いまだに俺たちが置かれている状況が全くわからない。
本当に俺は自分の意志で動いているのか?
よくわからないものに、動かされているのではないのかという恐れが冷たい汗と一緒に背筋を走る。
「周囲を調べれる方に行けば、なにか情報は得られるかもしれませんわね」
「その代わり、時間がかかる。このプレッシャーの中で長引けば、精神が削られてじり貧になる可能性もある」
日数が増えれば、悪夢を見る回数は?見知らぬ化け物の出現は?
実際あの魚は見たこともないし、マッシュが言っていた見えない敵もあっていない。
わかってるのは火の近くか、明るい場所にはたぶん現れないのだろうと思う。
空気が重い。
山は、黙ってそこにある。
まるで山全体が、俺たちを包み込むように、じっとりとした視線を注いでいる気にもなってくる。
首筋に、冷たい指が這うような感覚。
肌が粟立ち、毛穴が一つ一つ閉じる。
耳の奥で、低い鼓動が響く。
ドクン……ドクン……
俺の心臓の鼓動が速くなる。
息をするたびに、肺に重い霧が溜まる。
夢で見た。甘ったるい腐敗の残り香が喉を焼く。
エレナの息遣いも、わずかに乱れているのがわかる。
それでも一歩進まないと自分が保てない恐怖が俺達を襲っているように見えた。
「もう決めた。山に向かおう。向かう途中で気になったことがあれば、そこを調べるってどうだ?」
「よろしいと思いますわ。どのみち初めて尽くしなので、思いついた感じで動きましょう」
「なら行こう」
俺たちの前を立ちふさがる山に向かって歩きだした。
この作品ををお楽しみいただけましたか?
もし「他の作品」や「応援したい」と感じていただけましたら、ぜひブックマーク登録と、ページ下部にある【評価する】ボタンから評価ポイントをいただけると、とても励みになります!
このような話を書いてほしいなどリクエストがあれば書きたいと思います。
皆さんの応援が、次の話の執筆を進める力になりますので、どうぞよろしくお願いします!
お知らせ
このお話を楽しんでいただけたら、現在連載中の長編もぜひ読んでみてください!
【2部連載中】転生したら美少女冒険者に! ~おっさんの心が旅立つ異世界冒険記~




