13話 地下迷宮1
地下四階の階段を降り切った瞬間、空気が一気に重くなった。
最下段でブーツが湿った床に沈み込む音がして、松明の炎が、風なんてないはずなのに不規則に揺れる。
静寂を切り裂くみたいに、エレナの祈りの鈴がチリンと鳴った。
三階までの迷宮は、埃っぽい通路と崩れた壁画が続くだけの廃墟だった。だが、ここから先は違う。
封印が解けたばかりの空気が、湿った土と古い呪文の残り香を運んでくる。さっきまでとは“匂い”が変わっていた。
生前の俺なら、こんな場所に足を踏み入れることはなかった。
当たり前だけど、現代の日本にこんな場所はない。少なくとも、俺が知っている限りでは。
「シビさん、気をつけてくださいませ。気配が……いやな感じですわ」
エレナの声はいつもより低い。聖印を握る指先が、わずかに震えていた。
「封印されてた場所だもんな。空気がピリピリしてる」
俺は剣の柄に手をかけ、赤い瞳で通路をなめるように見回す。
湿気で銀髪が額に張りついた。こういう時、魔法の髪留めを買っておいて本当に正解だったと思う。
地下迷宮の通路は、そこから先で一気に狭くなっていた。
壁は湿気で苔むし、足元にはところどころ水たまりができている。
松明の光が届かない影の隙間で、何かが蠢いている気配がした。
ホラー映画なら、こういうところでだいたい何か出てくるやつだ。
十歩ほど進んだところで、違和感が走った。
壁の隙間から、かすかな風の音がした気がしたのだ。
俺は手で合図してエレナを止めようとしたが、一歩遅かった。
エレナが俺より一歩前に出た瞬間、足元の石板が沈む。
床の隙間から緑色の煙が噴き出し、甘い匂いが鼻を刺した。
これは、毒かもしれない。
俺は咄嗟に服の袖で口元を覆ったが、すぐにこれは毒じゃないとわかった。
煙が、靴先から膝へとゆっくり立ちのぼっていく。
触れた床の苔が、泡立つみたいにじゅくじゅく溶けていった。
「くそ、腐食ガスか!」
俺はエレナの腕を掴み、後ろへと引き戻す。
煙はどんどん広がり、通路の低い場所に溜まっていった。
ローブの裾がわずかに煙に掠め、エレナの顔色が一瞬で青ざめる。
「これは……腐食の霧ですわね。アウリス様、守りたまえ! 浄化の息吹!」
エレナの祈りが輪のように弾け、淡い光が霧を飲み込んだ。
緑の膜がふっと薄れ、空気が一転して澄んでいく。
俺は息を吐き、彼女の肩を軽く叩いた。
「助かった。お前の祈りがなければ、買ったばかりの革の鎧がおじゃんになるところだった」
「わたくしも、シビさんが腕を引っ張ってくださらなければ、装備ごと腐食されてましたわ。ありがとうございます」
罠に気づいたとはいえ、反応は完全に遅かった。
あの一瞬で察しろって方が無茶なのはわかってるが、盗賊技能まで会得しておいてこれじゃ意味がない。
もう少し頭を切り替えて、ちゃんと集中しないとな。
再び通路を進む。今の罠なんて、きっとまだ序の口だ。
封印されてた場所なんだから、もっとタチの悪い罠や、洒落にならないモンスターがまだまだいてもおかしくない。
どれだけの期間ここが閉じ込められていたのかはわからない。
けど、そのあいだ迷宮の中でモンスター同士が食い合ったり、変な進化をしていたとしても不思議じゃない。
俺たちの知らない“別種”みたいなのが生まれてても、全然あり得る話だ。
いっそう気を引き締めないと、本当に一瞬で終わる。
思っていた以上に、この迷宮はやばい場所だ。
上の階は迷宮みたいに入り組んでいたのに、ここは一直線の道が続いていた。
ゆるい下り坂を、けっこうな距離歩かされている気がする。
「一直線の道をこれだけ歩かせられるって、変だよな」
俺がぼやくと、隣のエレナが頷いた。
「そうですよね。上はかなり入り組んでましたのに……。でも、ここは封印されていましたし、そもそも侵入者を想定していないのでは?」
「そんなわけないだろ。その証拠に、腐食ガスが仕込まれてたしな」
「……そうですよね」
話しながらも足は止めない。
下り道を進んでいくと、かなり奥の方に、ぼんやりと光が見えてきた。
やっとゴールかと思った、その瞬間だった。
背後で、ゴトッ、と鈍い音がした。
反射的に振り向くと、通路いっぱいの岩の球が、こちらに向かって転がってきていた。
岩の球は、思っていた以上の速さでこちらに向かってきた。さっきまでゆっくりに見えたのに、今は通路そのものを押しつぶす勢いで迫ってくる。
「エレナ、走れ!」
俺は踵を返して全速力で駆け出す。
だが、すぐに違和感を覚えた。横を走るはずのエレナの足音が、俺のテンポについてきていない。振り向かなくてもわかるくらい、彼女の足は遅かった。
岩球はどんどん加速してきている。この狭い通路じゃ、横に避ける場所なんてない。
どう考えても、このままじゃ逃げきれねえ。
岩球はどんどん加速してくる。このままじゃ巻き込まれる。
「エレナ、先に行け!」
俺はそう叫んで、あえて足を止めた。
エレナは走りながら「シビさんっ!」と振り返り、名を呼ぶ声だけを残して前へ進んでいく。
俺は突進してくる石球に向かって片手を突き出し、力ある言葉を叩きつけた。
「形ある器よ、塵に還れ。粉塵崩壊!」
見えない振動の奔流が一直線に石球へと走る。
次の瞬間、俺の目の前で岩の球体が細かなひびを広げ、その場で砕け散った。
重さも形も失い、砂より細かい塵になって、通路いっぱいにさらさらと崩れ落ちていく。
俺は塵になった破片を軽く払い落とし、エレナの方を振り向いた。
エレナは心配そうな顔でこちらを見つめている。
「粉塵崩壊って……あれは高位の魔術師様しか使えないはずの魔法では?」
そう言われて、ああ、そうだったなと思い出す。
確かにこの呪文は高度な魔法の一部で、普通はそう簡単に使えるものじゃない。
「戦士の奥義に盗賊技術、そして上級の魔術まで……シビさん、いったい何者なんですか?」
エレナが不思議そうに首をかしげる。
俺はちょっと肩をすくめ、軽く苦笑した。
「説明するのはすごく大変なんだけど……まあ、一応そこらへんは全部使えるってことで。細かいことは今は勘弁な」
神官のエレナに“神の恩恵で”とか“転生で”とか、いちいち説明するのは正直めんどくさい。
今はそれより先に進む方が大事だ。
後ろから転がってきた、通路いっぱいの岩球。
映画で見たことあるタイプのやつだ。俺の中ではレイダーズトラップ認定。
封印されてた場所とはいえ、ここまで容赦なく罠を仕込む理由がわからない。
しかもレイダーズの方なんて、どこで作動条件を満たしたのか、さっぱりだ。
踏み板も見えなかったし、壁の細工も気づかなかった。
思った以上に厄介なダンジョンだな。
俺たちは少し休憩して気持ちを落ち着けてから、先へ進んだ。
進んだ先は、天井の高い巨大な広間だった。
中央に石段があり、その上に石碑のようなものが立っているのが見える。
「シビさん、あそこに何か書かれているんでしょうか?」
「さすがにここからじゃ読めないな」
「そうですよね……」
「俺が思ってる以上に危険なダンジョンかもしれない。いいか、俺より前に出るなよ」
「はい、わかりました」
俺は床に罠が仕掛けられていないか注意しながら、ゆっくり石碑の方へ近づいていった。
そのときだった。視界の端に、小さな赤い点みたいな光がちらりと走った。
前の世界で見た、防犯用の赤外線センサーを思い出す。けれど、考えている余裕なんてない。
あれは、何だ。
そう思った瞬間、足裏にじわっと熱が広がった。
床の温度が、さっきまでと明らかに違う。靴底越しの熱がどんどん強くなっていく。
このまま熱くなれば、本気でまずい。
俺は反射的にエレナの方へ振り向き、その体をお姫様抱っこの形で抱き上げた。
片腕でしっかりと支えながら、自分の太ももに指先で触れる。
「跳躍!」
力ある言葉と同時に、脚に魔力が流れ込む。
足裏に刺さっていた熱が一気に遠ざかり、視界がふっと持ち上がった。
俺たちは灼熱に変わりつつある床をまとめて飛び越え、石碑の方へ一気に跳び移った。
跳び移った瞬間、エレナのポケットから白いハンカチがふわっと零れ落ちる。
それは、さっきまで俺たちが立っていた床に触れた途端、ぼうっと赤く燃え上がり、一瞬で黒い消し炭になって崩れた。
その光景を見た瞬間、背中に冷たい汗が流れた。
本当に紙一重だったんだと実感して、ようやくひとつ息を吐いた。
「あぶなかったなぁ」
「あ、あの、シビさん……」
エレナに呼ばれて顔を向けると、彼女は耳まで真っ赤になっていた。
「お、おろしていただけますか……?」
そういえば、まだお姫様抱っこのままだったんだっけ。
俺は一拍おいてから、慌ててエレナをそっと下ろした。
「わ、わるい。許可もらう前に勝手にやっちまって」
「シビさんが動いてくださいませんでしたら、わたくしもあのようになってましたから……」
エレナはうつむき加減のまま、小さく答えた。
「あ……ああ」
ちょっとだけぎこちない空気が流れる。
俺はごまかすみたいに視線を動かし、さっき見えた赤い光の方に目を凝らした。
あれは……赤外線センサーみたいなやつじゃないのか?
さすがにこの距離から言い切るのは難しいが、少なくとも「ただの魔法罠」って感じじゃない。
そもそも、剣と魔法のファンタジー世界で、ああいうタイプの科学技術があっていいのか。
胸の奥に、じわっとした違和感が残った。
「シビさん?」
名前を呼ばれて顔を上げると、エレナが不思議そうに首をかしげて俺を見ていた。
「何でもない」
まだはっきりしない違和感だったから、そう答えるしかなかった。
俺は気持ちを切り替えて、足元と石碑の周りを慎重に調べた。
表面を指でなぞっていくと、側面の一部に、わずかに沈む感触がある。
「……これか?」
軽く押してみると、カチリと小さな音がした。
どうやら罠を解除するためのスイッチらしい。それ以外には、文字も模様もない、本当にそれだけの石碑だった。
俺は、さっき見えた赤い点をもう一度確かめてみようと思ったが、今はどこにも点滅が見えなかった。
「何か見つけたんですか?」
「さっき、赤い点みたいなのが見えたんだよ。何かと思ったんだけど、今は消えてるみたいだな」
そう答えてから、もう一度周囲を警戒して部屋を出た。
そのまま進んでいくと、下へ続く階段が見つかった。
敵は一体も出てこなかったが、腐食ガスに岩球に灼熱の床。罠部屋だらけって時点で、このダンジョンにはやっぱり何かあるんだろうな、と思う。
もう一度気持ちを引き締めて、俺はエレナと一緒に階段を降りていった。
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