156話 別れと目的の山へ (5部完)
ハンスがきっと気を利かせてくれたのだろう。
何かと相部屋が多かったけど、ゆっくり休めるように個室にしてくれたみたいだった。
いつもは同じ部屋になって、最悪ベッドが一つの場合もあった。
女性同士だから、一緒の部屋で、同じベッドで寝てもいいはずだという理屈はわかる。
もちろん、好きな女性と一緒に寝られるなんて、すごく良いことだと思う。
添い寝だけだから無性にきついのだ。
エレナは睡眠中暖かい方に抱き着いてくる。
寝息を立てながら、こちらの胸に頬をすり寄せ、細い腕を絡めてくる。
寝返りのたびに、柔らかな太ももがこちらの脚にまとわりつき、熱い吐息が耳の裏にかかる。
無邪気な指先が、偶然のように胸の谷間をなぞったり、腰のくぼみに触れたりする。
本人に自覚がないからこそ、こちらも同じように触れ返すことは絶対に許されない。
結果、私は毎晩、生殺し状態になる。
心臓が早鐘のように鳴り響き、身体は熱を帯び、下腹の奥が疼いても、ただじっと耐えるしかない。
理性の鎖が軋む音が、頭の中でずっと響いているようだった。
だからこそ、ハンスには心の底から感謝しかなかった。
今度の相手は、魔族か……。
ミスリルソードを手に持ったとしても、今の俺では多分勝てないな。
蒼魂死焔ならどうだ?
あの呪文を見せたときの、あの余裕たっぷりの態度を思い出すと、効果があるのかどうか、正直まったくわからない。
深淵の知識のままなら、倒せないまでも確実に何らかの効果はあるのが肌でわかる。
しかし俺のは、あくまでその深淵の知識をこの世界で「普通に」運用できるように変換しただけの呪文だ。
深淵の知識のまま使用したら俺自身に何が起きるかわからない。
かと言ってこちらの世界バージョンでは効果があるのか実感が得られなかった。
そしてこの呪文の弱点もあった。
あまりにも禍々しく濃密な魔力が溢れ出すため、位置が一瞬で敵にばれてしまうこと。
多分深淵より効果が弱くなっていることだろう。
本人は、自分よりは弱いと言っていたけど、龍角よりは間違いなく強いのだろう。
奴は「魔族になり損ねた」と吐き捨てるように言っていた。
なら、ザハクより上のはずだ。
あのときの戦闘は、運などといった様々な要素が絡み合ってようやく勝てただけ。純粋な力だけでぶつかれば、俺は負けていた。
……エレナには本当に申し訳ないが、俺一人で行くか?
彼女が強いのはよくわかっている。
でも……彼女が死ぬかもしれない。
俺一人なら大丈夫だ。
でも……でも。
そうして思考の迷路にどんどん深く沈み込んでいった、そのときだった。
部屋の外から、控えめでしかしはっきりとしたノックの音が響いた。
「誰?」
「わたくしですわ。もうお休みになっておりますの?」
「用事か? 鍵はかけてないから入ってくれ」
「ならお邪魔いたしますわ」
中に入ってきたエレナは、いつもの厳かな法衣ではなく、膝丈くらいの大きめなシャツを着ていた。
白い布地が彼女の細い肩から滑るように落ち、袖をまくった腕が露わになっている。
裾はふとももの中ほどで揺れ、素足が床に触れるたびにかすかな音を立てた。
「すみません。少しはしたないですが、お風呂に入った後でして……法衣も洗濯に出して干してしまっておりまして」
恥ずかしいのなら来るなよ、と心の中で突っ込みたい。
でも、そこまでして俺の部屋に来る必要があるってことか?
湯上がりの彼女からは、ほのかに石鹸と甘い花の香りが漂ってきて、さっきまでの暗い思考が一瞬で揺らいだ。
俺はベッドの端に腰掛けるよう手で案内し、自分は対面の椅子に腰を下ろした。
「どうした?」
「ふと……すごく悩んでいらっしゃるのではないかと思いまして」
「な、な、な、悩んでいる? 俺が?」
「どもっておりますわ」
「急に言われたからだ!」
俺の心情をぴたりと当てられて、思わずどもってしまった。
エレナは小さく微笑むと、急に立ち上がり、俺の顔を両手で包み込むように掴んだ。
そのまま柔らかく、しかし強い力で自分の胸元へと引き寄せてくる。
シャツ越しに伝わる彼女の体温。
まだ少し湿った髪が俺の頬に触れ、甘い湯上がりの匂いが鼻腔を満たした。
心臓が一瞬で跳ね上がり、先ほどまでの重苦しい思考が、熱い波に飲み込まれていく。
「アヤさんは、私を置いていこうと思っておりますのよね。勝ち目がない戦いに連れて行っていいものかと」
今、俺のことを「シビさん」ではなく「アヤさん」と言ったのか?
「今までの戦いの中でも、きっと一番大変な旅になると思いますわ。そして勝ち目が限りなく零に近いことも」
「エレナ?」
「わかりますわ。もう半年以上も一緒に旅をしていますのよ。貴女がどのような顔をして、どのように動くのか……全部、わかりますの」
「俺……そんなにわかりやすいか?」
「人には優しい癖に、自分の命をないがしろにする方ですわ。変なことを言いますけど、貴女達は私達と違う場所から来たことがわかるぐらいですわ。それが何を意味するのかは分かりませんが」
一瞬、ぎゅっと強く抱きしめられた。
柔らかな胸に顔が押しつけられ、シャツ越しに伝わる体温と、まだ湿った髪の甘い香りが俺を包み込む。
心臓が激しく鳴り、さっきまでの暗い迷いが一瞬で溶けそうになる。
やがてエレナはそっと腕を緩め、俺の顔を離してくれた。
押しつけられた頬が熱く、耳まで真っ赤になっているのが自分でもはっきりわかる。情けない顔をしているのだろう。
「だけど」
きっと今、俺はすごく情けない顔をしている。
「もしアヤさんが敗れたとしたら、魔法増幅と魔導エネルギー循環力増強を兼ね備えたその剣が奪われて、遅かれ早かれ世界は滅びる可能性がありますのよ」
「そうは、ならんだろう。多少、人族の勢力図が変わるだけだよ。もしかしたら人と魔物の大戦が始まるかもしれないけどな」
「そうかもしれませんわね。私は人ですので、未来のことまではわかりませんわ。ですので……付いて行きますわ」
「だけど」
「わたくしは足手まといですの?」
「俺はエレナがいなければ、何回死んでたと思う?」
うまく笑えて、ちゃんと答えられているのだろうか?
「なら、足手まといじゃないのなら付いて行ってもよろしいですわね」
「だけど」
「アヤさん、先ほど言いましたわ」
「言った?」
俺が何を言ったというのだ?
「私が居なければ、何回死んだんだろうって……貴女が死ねば、魔族たちが望んでいるその剣も奪われますわ。一応平和が長続きしているこの世界が戦乱に巻き込まれるのです。なら、貴女が死ぬ可能性が低くなる方法を取りますわ」
……「俺はお前に死んでほしくないんだよ」って、本当は言いたい。
でも、それを口にしたらきっと「わたくしだってあなたに死んでほしくありませんわ」と優しく返されて、言い負かされるのがオチだった。
「お願いがある!」
「一応聞きますが?」
エレナは少し首をかしげ、湿った髪を指で払いながらこちらを見ていた。大きな瞳が、期待と不安を同時に映している。
「アヤさんはやめて」
「どうしてですの?」
「エレナに言われるとなんか……恥ずかしいから」
俺は無性に顔が熱くなって、思わず視線を下に落としてしまった。
耳の先まで赤くなっているのが、自分でもはっきりわかる。
何が面白いのか、エレナは小さくくすりと笑った。
「わかりましたわ、シビさん」
……しまった。
「シビさん。なら付いて行ってもいいですわね」
お願いであって条件じゃないと言ったつもりだったのに、もうどうしようもない。
エレナの声は柔らかく、でも意志は固かった。
「自分の命を優先してくれ」
もう俺には、これだけしか言えなかった。
声が少し震えてしまったのが、自分でも情けなく感じた。
翌朝、俺とエレナは馬車の中に集まっていた。
イザベラとハンス、そしてリーニャもすでに揃っている。
「シビさんにエレナさん。最後の商売ですわ!」
「最後の商売?」
イザベラはそう言うと、いつも荷物を仕分けしている場所とは違う、奥の棚へ移動した。
ハンスに目配せすると、彼は静かに頷き、一人で重そうな箱を一つ取り出してきた。
そういえば、この一ヶ月以上、あの箱には一切手を付けていなかったことに今気づいた。
「それは何ですの?」
「商売だと言ったでしょ?」
イザベラの眼鏡が、馬車の小さな窓から差し込む朝の光を反射して、鋭く光った気がした。
箱を開けると、中には食料や飲み物はもちろんのこと、数々の魔法のアイテムが丁寧に並べられていた。
光を帯びた指輪、護符、輝く結晶、見ただけで魔力が感じられる短剣まで……。
「おいおい、こんな量の魔法アイテムの金額なんて、俺の持ち合わせじゃ到底足りないぞ」
「そりゃそうですよ。全部持っていかれたら私も困りますもの」
イザベラは軽く肩をすくめて笑った。
「料金の一部は大公様から既に頂いております。あとはあなた方がこの件を無事に片付けたら、公国に戻ってから改めて請求するだけですわ」
俺は自分のバッグからダイヤを三つほど取り出して差し出したが、イザベラは手を振って受け取らなかった。
「ここまでの護衛料と、その宝石も立派な戦力ですもの。戦力を失うのは愚の骨頂ですわ」
「だが……」
「ならばこういたしましょう。あなた方がこの一件を無事に解決なさったら、もう一度私たちのキャラバンに顔を出して、存分に買い物をしていってくださいな」
「おいおい、キャラバンって俺もかよ」
「ハンス、嫌ですか?」
「いやとは言ってないけどな」
ハンスは照れくさそうに鼻を掻きながらも、どこか嬉しそうな顔をしていた。
「また二人にお会いできるのを楽しみにしてます。それまでに私もイザベラさんにいろいろ教えてもらって、ちゃんとした商人になりますね」
リーニャは、まだ少し悲しみの色が残る瞳で、しかし精一杯の笑顔を浮かべてそう言ってくれた。
その笑顔が、妙に胸に刺さる。
みんなで相談しながら、旅に必要な魔法のアイテムや必需品をいくつか選び終えると、全員で馬車の幌をくぐって外に出た。
朝の風が頰を撫で、馬車の外では既に旅立ちの準備が整っていた。
「世話になったな」
「お世話になりましたわ。またお会いしましょう」
俺とエレナがそう挨拶をすると、ハンスとイザベラは優しく首を振って応え、固く握手を交わした。
ハンスの手は逞しく、イザベラの手は意外に細く温かかった。
短い旅の間、ずっと支えてくれた二人の掌の感触が、妙に胸に残る。
するとリーニャが、突然俺とエレナに飛びつくように抱きついてきた。
細い体が震え、嗚咽を堪えきれずに泣き出した。
「無事に帰ってきてください……。そうじゃないと、アレックスを殺した事を許しませんから」
なんとも物騒で、けれど精一杯の脅しのような言葉だった。
その声が涙で掠れていて、胸が締めつけられる。
俺はリーニャの背中を軽く抱き返し、柔らかい髪をそっと撫でてやった。
「……約束するよ。必ずリーニャの商人の姿を見に来るから」
三人に少し離れてもらい、俺は魔族から受け取ったペンダントを強く握りしめた。
冷たい金属の感触が、掌に食い込む。
「まぁ、行ってくるわ」
「それではまた」
俺達はそう言い、同時にペンダントを強く握り締めた。
瞬間——ペンダントが凄まじい光を放った。
視界が真っ白に染まり、身体が浮遊するような感覚に包まれる。
次の瞬間には、もう村の風景はどこにもなかった。
目の前に広がっていたのは、巨大な山だった。
ただ大きいだけじゃない。幾重にも連なる山脈が、まるで黒い牙のように空を抉っている。
岩肌は不気味な紫がかった灰色を帯び、所々から薄い霧が立ち上り、まるで生き物のように蠢いているように見えた。
風が吹くたび、遠くから獣の唸りにも似た低い音が響いてくる。
ここが……指定された山の入り口か。
ただの山じゃない。
この山脈全体が、まるで俺達を拒絶するかのように重苦しい気配を放っていた。
――5部 完
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