134話 安心と小休止
……何か、漆黒の影が蠢くような手の形をしたものが、俺の顔面目がけてゆっくりと迫ってくる。
その瞬間、目が覚めた。
ハッ、と息を詰めて跳ね起きた拍子に、額から大量の冷たい汗が一気に滴り落ちた。
首筋を伝い、鎖骨の窪みに溜まっては震えるように零れていく。
寝間着の薄い生地が背中にびったりと張りつき、冷えた汗が肌と布の間を不快に滑る。
長い髪の毛先が何本も濡れて頬や首に貼り付き、まるで生き物のように肌に絡みついていた。
心臓が、喉元までせり上がるほど激しく鳴り響いている。
息が荒く、肺が熱い。指先が微かに痺れ、シーツを掴む手が震えていた。
どんな夢だったのか、一切思い出せない。
ただ、胸の奥底に残る重くねばつくような感触だけが、確かにそれが悪夢だったと教えてくれていた。
まるで、黒い手が心臓を鷲掴みにしたまま離さなかったような……。
……思い出せないなら、それでいい。
二度と思い出したくない。
俺は、乱れた息を整えながらベッドから這い上がり、バスルームへ向かった。
シャワーの蛇口を捻ると、容赦ない冷水が頭頂から一気に降り注いだ。凍えるような冷たさが頭皮を刺し、背筋を駆け下り、汗と悪夢の残滓を容赦なく洗い流していく。
水音だけが浴室に響き、銀髪が濡れて重く肩に落ちる。滴がまぶたを伝い、視界を歪ませた。
鏡の前に立った自分の顔は、ひどく疲れ果てていた。
着替えを済ませ、濡れた髪を軽くタオルで拭きながら一階へ降りると——
リリアがカウンターの向こうで、腕を組んで立っていた。
彼女の視線が、俺を捉える。
「いつまで寝てるのさ」
リリアの声が、カウンター越しに少し尖って響いた。
「リリア、朝でしょ?」
「何言ってるの、もう昼よ。向こうでエレナたちが待ってるんじゃないの?」
「あ……! そうだった」
「あんた、大丈夫なの?」
リリアの長い青のポニーテールが、生き物のようにふわっと揺れた。
朝の柔らかな光がその髪を透かし、彼女の表情はいつもの呆れ半分に、心配の色が濃く混じっていた。
細く整った眉がわずかに寄せられ、青みがかった瞳が俺の顔をまっすぐ見据えている。
「なにが?」
「顔色が悪いわよ。どうしたの?」
「別に……何もないし」
俺は周囲を見回して、ふと違和感を覚えた。
いつもなら朝から賑わっている炉端亭の店内が、今日はほとんどお客の姿がない。
木製のカウンター席も、奥のテーブル席もがらんとしていて、足音が妙に大きく響くほど寂しい。
暖炉の火は小さくくすぶり、時折パチパチと音を立てるだけで、人の気配がほとんど感じられない。
空気は少し冷たく、埃っぽい静けさが漂っていた。
「みんな仕事が重なっちゃってね。みんな出払ってるのさ。あとは無事に帰ってきてくれればいいさ。あんたみたいにね」
「まぁ、俺は死ぬわけにはいかないしな」
俺は軽く笑って、首元のチョーカーに指を這わせた。
黒革のチョーカーは肌にぴったりと吸い付き、冷たい感触が残る。
そこに嵌め込まれた、小さな剣の形をしたブローチが、窓から差し込む朝の光を鈍く反射した。
ミスリル銀の刃部分が、まるで本物の剣のように冷たい輝きを放ち、指先で触れると微かな魔力の振動が伝わってくる。
「そこに擬態させるなんて、よく考えたわね」
「まあな。さてと、久しぶりにここも堪能したしな」
俺がカウンター席に腰を下ろすと、木の椅子が軽く軋んだ。
すぐに、リリアが手際よく熱々の料理を目の前に置いてくれた。
焼きたてのパンの香ばしい匂いが、湯気とともにふわりと広がる。
黄金色に焼き上がった表面はカリッと音を立てそうで、柔らかい内側からは甘い小麦の香りと、バターの濃厚でまろやかな甘さが鼻腔をくすぐった。
添えられたスクランブルエッグからは、牛乳とバターのコクが立ち上り、添えられたベーコンの塩気と煙の香りが食欲を刺激する。
「まだ頼んでないけど……」
リリアは腕を組んだまま、照れくさそうに視線を逸らした。
青いポニーテールの先が、彼女の肩の動きに合わせて小さく跳ねる。
頬がうっすらと桜色に染まり、耳の付け根まで熱を帯びているのがはっきりわかった。
「まぁ、何があったのかは詳しく聞かないけどさ。これでも食って、元気出してきなさい」
彼女は少し強引にフォークを俺の手に押しつけながら言った。指先が一瞬触れ合い、彼女の体温がほんのりと伝わってくる。
「フッ……ありがとう。あと、部屋を取っておいてくれてありがとう」
「あそこはあんたの部屋だからね。あんたがどこかで家とか所帯を持たない限りはさ」
リリアは少し頬を赤らめながら、ぶっきらぼうに言った。
声の端に照れが混じり、いつもより少し早口になっている。視線はカウンターの木目に落ち、長い睫毛が小さく震えていた。
「優しいね」
「はぁ! バカじゃないの! そうじゃないし!」
彼女はカウンターを軽く叩き、耳の先まで真っ赤にしながら声を荒げた。
パンッ、という乾いた音が店内に響き、彼女の細い肩がびくっと跳ねる。
青い瞳が潤んで、怒っているのか恥ずかしがっているのかわからない複雑な表情を浮かべていた。
首筋まで赤く染まり、呼吸が少し乱れている。
「あんだけ金を貰っておいて、期日までとか言われたって、私が強欲になったみたいでしょ。勘違いしないでよね!」
「そういう事にしておくよ」
「全く……!」
リリアは深いため息を吐きながらも、口元に小さく柔らかな笑みを浮かべた。
その笑みは照れ隠しのように儚く、でも確かに温かかった。肩の力が抜け、組んでいた腕がゆっくりと解かれる。
「そんなこと言ってる暇あるなら、早く食って今いるべき場所に行ってきなさい。昨日の件はこちらで処理しておくから」
「うん、よろしく。あと……」
「なんだい?」
「馬鹿どもに、またなって伝えておいて。あとこれ」
俺はテーブルの上に、金貨を一枚、そっと置いた。
重厚な金貨が木のカウンターに触れた瞬間、カラン……と澄んだ小さな音を立てた。
朝の光を受けて、表面が鈍く輝き、刻まれた紋様が浮かび上がる。指で押した跡がわずかに残り、冷たい金属の感触がまだ指先に残っていた。
「本当に……」
「みんなには、また一緒に飲もうって言っておいてくれ」
癒しの炉端亭の重厚な木製の扉を押し開け、外へ出ようとしたその時だった。
「アヤさ~ん!」
明るく弾むような声が背中にかけられ、俺は足を止めて振り返った。
みつあみツインテールにした可愛らしい少女が、小走りでこちらに向かって手を大きく振っている。
柔らかな栗色の髪が朝の陽光に照らされ、跳ねるたびに金色の光の粒を散らした。
白いエプロンドレスが風を孕んでふわりと膨らみ、細い脚が軽やかに地面を蹴る。
頰は走ったせいでほんのり桜色に染まり、大きな瞳がキラキラと輝いていた。
鍛冶屋ヴァンの一人娘、リビアだ。
「お久しぶりです! 戻ってきたんですか?」
「リビア、おひさ。少し用があって一旦戻ってきただけだよ。またすぐトンボ返りさ」
リビアは目を輝かせて、満面の笑みを浮かべた。
その笑顔はまるで太陽のように明るく、周囲の空気まで温かくするようだった。
細い肩が小さく上下し、息を弾ませながらも嬉しさが溢れ出している。
「あれからお父さんも、アヤさんに手伝ってもらったプレゼントを毎日使って、元気に仕事してますよ。今度アヤさんに会ったら、改めてお礼を言いたいって」
「あの時さんざんもらったのに、不要だよ。また飲もうって伝えておいてくれ」
「はい! アヤさんも、どうか無事に、この街に帰ってきてくださいね」
「ありがとう」
以前、この子の依頼を受けて父ヴァンのためのプレゼント作りを手伝った時のことを、今でも深く恩に感じてくれているらしい。
本当に、この街は慈愛の女神アウリスの膝元だけあって、穏やかで心の温かい人ばかりだ。
リビアの純粋な感謝の眼差しを見ていると、胸の奥がじんわりと熱くなる。
彼女は、まだ何か話したそうに、唇を少し尖らせて俺を見つめていたが、俺は申し訳なく微笑んだ。
「ごめん、エレナを待たせてるし、まだ仕事中なんだ。また今度ゆっくり話そう」
リビアは少し残念そうに眉を下げたが、すぐに元気よく両手を振ってくれた。
ツインテールが勢いよく跳ね、朝風に舞う姿が愛らしい。
町はずれまで歩きながら、ふと自分に呆れた。
自分の部屋から瞬間移動すればよかったのに、わざわざ歩いて出てきてしまった。
小さく苦笑しながら短い詠唱を唱えると、淡い光の粒子が体を優しく包み込んだ。
肌をくすぐるような温かな魔力の感触が全身を撫で、視界が一瞬白く溶ける。
次の瞬間、俺はドラン伯爵の館の近く、静かな裏路地に降り立っていた。
館の高い石塀の向こうから、昼の柔らかな陽光が差し込んでいる。
蔦の絡まる古びた石塀は、長い年月で深く苔むし、濃い緑が昼の陽光をたっぷり吸い込んで艶やかに輝いていた。
路地には乾いた落ち葉が薄く積もり、靴底が柔らかく沈み込む感触が、静かな足音を優しく吸い取っていく。
昼下がりの空気はすでに十分に温まり、柔らかな日差しが肌にじんわりとまとわりつくような心地よさだった。
最後の後片付けを済ませて、北の山脈の方に早く行こう。
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