第五十三夜:揺れる未来
紙をめくる指が止まった。
古びた蔵書のページが、かすかな風に揺れる。
「……ファルムス帝国に行くには、ここから……」
声に出して読んだ瞬間、自分の中で何かがざらりと軋むのを感じた。
その感覚が何なのか、自分でもわからなかった。
あれから八日。
クラウゼンブルクに死の大行進が襲来し、多くの命が奪われてから、もう八日か……
私たちは生き残った。
それだけで、何かが赦されたわけでも、報われたわけでもない。
ただ、次の使命に進まなければならないという現実だけが、無慈悲に目の前に置かれている。
「昨日は……感染された方を看取っていたな」
ぽつりと呟いた自分の声が、図書室の静けさに溶けていく。
ナグリスに噛まれたりひっかかれ感染してしまった方たち。
七日病で昨日八十七名が息を引き取るのを一日中看取っていた。
“時間を使ってしまった”などと言えば、コーネリア殿に叱られてしまうだろう。
それは誰かを悼んだ時間。誰かの終わりに、静かに寄り添う時間だった。
だから、後悔はしていない。してはいけない。
けれど、それでも思ってしまう。
“もっと早く気づいていれば”
“もっと上手く立ち回れていれば”
“もっと……強ければ”
ページに滲んだ影が、自分の揺れる心の形に見えて、思わず息を吐いた。
――私は一人で戦っていた。あの時、あの群れの奥で。
けれど、ジークはもっと残酷な場所にいた。
ネクロスどもに喰われる兵士の姿を、目の前で何度も見ながら、それでも拳を握り続けた。
昨日も泣いていた。
人前でも気にせず泣いていた彼を、誰が馬鹿に出来るだろうか。
ただ、あの場を離れてしまうと、彼が壊れてしまいそうで、私もリージュもフォスターも、最後の一人が逝くまで彼から離れられなかった。
ああいう人間を“優しい”というのだろう。
強いとは違う。優しさは、時に人を壊す。
リージュもまた、別の形で傷を負った。
彼女が向き合ったのは、死だけではなく――狂気だった。
リディア。同胞だったはずの猫獣人の女性。
人が喰われるのを見て、心底楽しそうに笑ったという女。
報告を見た時には、流石に背筋が凍った。
そんなことができるなど……あれは、人間だったのか?
この世界が死に染まった証。
狂気が、人間の顔をして歩いているのだと、リージュはまざまざと見せつけられた。
「本当に……これで良いのか?」
誰に問いかけるでもなく、唇から言葉が漏れる。
ファルムス帝国。
大天使サリエルからの次の指示はまだない。
けれど、元々の命令は“ファルムスへ向かえ”だった。
ならば従うべきなのだろう。
天使として。
でも……。
「この地域には、もうカミラ殿はいない。
天使は、私を含めて数えるほどしかいない……」
この地に残るべきではないのか――その思いが、胸を締めつける。
コーネリア殿なら、何と答えるだろう。
大天使サリエルなら、どんな選択を許すだろう。
私は、天使だ。
でも、その前に一人の戦士であり、この世界に生きる者だ。
「エルドリヴァイン領を経由し、南方から……ファルムスへ……」
指先が地図の上を滑る。
その先に、どれほどの死が待っているのかは、まだ誰も知らない。
それでも私は――
「行くべきなのだろうな」
呟いたその言葉に、背筋が少しだけ伸びた気がした。
この命は、私だけのものではない。
誰かを守れなかった罪を、誰かを救う力に変えるために。
私はまだ、この剣を手放せない。
私は本を閉じ、立ち上がった。
「皆の意見も……聞いておかないとな」
独り言のように、けれど確かな意志を込めて呟いた。
私は手にしていた地図を慎重に巻き、卓上の資料をひとまとめに整える。
ファルムス帝国へ向かう決意は、今しがた自身の中で形になったばかり。
けれど、共に生き残った仲間たちの声を聞かずに進めるつもりはなかった。
「リージュは……朝、声を掛けたが姿が見えなかったな」
思い返す。
まだ記憶が戻っていないと言うのに、軽い身のこなしでよく姿を消す彼女のことだ。
図書室に入り込んで別の書物を漁っているのか、それともまた一人でぶらついているのか。
気まぐれなようで、実は一番仲間の変化に敏い子だから。
「ジークは、ルシェル殿について治療に回っていると言っていたな……」
昨日の夜、すれ違いざまに少しだけ交わした言葉を思い出す。
疲れた顔だったが、どこか張り詰めたものは和らいでいた気がした。
「今、居るのはフォスターか……」
言葉にして初めて、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。
静かな、だが確かな芯を持った男だ。
この数日、表には出していなかったが、彼もまた深く傷ついていた。
療養中とはいえ、何もせずにじっとしているような人間ではない。
アイツならきっと、すでに何かを考え始めているはずだ。
「リージュもいるかもしれんし、資料の整理も……どこまでできているか、聞きに行くか」
ミルベーナはゆっくりと蔵書室を出た。
古びた木の扉が、軋む音を立てて閉じられる。
廊下に差し込む光が、前に進めと言っているように感じた。
あの日から、八日。
ようやく、次へ進む時が近づいていた。
コンコン、ミルベーナはフォスターの部屋に来ていた。
「あいーよ」
……返事が……いや、返事なのか?
妙に軽くて間の抜けた声が返ってきた。どうにも判断に困る。
とはいえ拒否ではない。私はそっとドアノブに手をかける。
「入るぞ」
扉を開けると、まず目に飛び込んできたのは――紙。
それも床一面に転がる、丸められた紙の山。
何だこの部屋は、戦場か? いや違う、戦場よりひどいかもしれん……。
フォスターはベッドの上に胡座をかきながら、膝の上に資料を広げていた。
手元には二つの冊子、指にはインクが染みている。
だが、そんな彼の口から漏れていたのは――
「うー、あーいや、こう、ちがうー!そういや!んー、だー!そうじゃねー!」
奇声だった。
いや、奇声というより……混濁した意識が垂れ流す叫び。
何かと交信しているのか?
少なくとも、私にはまったく理解できない言語だった。
それよりも気になるのは――どうやら、私の存在に気づいていないらしい。
……まあ、これだけ混沌とした空間だ、無理もないのかもしれん。
ん? 丸められていない紙がある。
他の紙とは違って、ベッドの端に丁寧に置かれている。
なんだ?と拾い上げて見てみると、そこには――
「っ……!」
推察、推察、推察。無数の推察。
走り書きのような勢いながら、文字は端正で、整っている。丁寧さすら感じさせる。
ゾンビの発生頻度、介入者の行動パターン、過去の記録の年代別比較、魔術の干渉の可能性――。
正直、見入ってしまった。
これが……あの奇声男の、頭の中?
「ん、あれ? あの紙どこいった?」
フォスターが辺りを探し始めた。目的の紙を見失ったらしい。
仕方ない、私は手に持っていた紙を差し出す。
「これのことか?」
「お、サンキュー。……ってかお前、いつからいたんだ?」
ようやく気づいたか。遅い。
「ちゃんとノックはしたし、貴様も返事をしていたぞ」
「お? そっか、悪りぃ悪りぃ」
ケロッとした顔で謝罪にならない謝罪。
……本当にこいつ、読めん男だ。
だが、さっきの紙。
あれだけの考察を組み立てられる頭脳と、それを文字に落とし込む緻密さ。
あの整った字。正体が見えないというか、謎だらけだ。
「んで、なんか用か?」
フォスターがまた資料に目を落としながら問いかけてきた。
「……ああ。リージュは来ていないか?」
「姫か? 今日は来てねぇぜ〜。ちなみにノックは朝メシの時以外はさっきのだけ〜」
ん?つまり――ノックには気づいていたのか?
……やはり、読めない。いや、読まない方がいいのかもしれん。
どこまでが本気で、どこからが惰性か、全部混ざり合ってるような男だ。
けれど、間違いなく――ただ者ではない。
「なんか用なら、来た時伝えとくぜ〜」
フォスターは、また資料の束に視線を落としながら言ってきた。
全く、集中するのは良いが、人と話す時は顔を向けろ。
「……いち足すいちは?」
「りょ〜かい〜、伝えとく〜」
……やっぱりこの男、ちゃんと聞いていないな……
「おい、フォスター、人と話す時はちゃんとそっちを向け!」
私は堪えきれず、フォスターの頭をグリンッとこちらに向かせる。
『ぽよんっ』
「んっ?」
彼の姿が視界から消えた。……どこだ?
一瞬、重みのある何かが胸の辺りに触れた。
「……」
「柔らか……」
――バチーンッ!!
思いっきり、渾身で引っ叩いてやった。
「お、おま、何すんだよ!こっちはまだ腹完治してねぇんだぞ!」
「やかましい!
だいたいキサマがはじめから面と向かって話していればよかっただけだろうが!」
額に血管を浮かべて怒鳴り返した時だった。
私たちがくだらない言い合いをしている最中、部屋のドアがそっと開く音。
怒鳴り合いをしていた我々の視線が、同時にそちらに向く。
「フォスター? ミナもいるの?」
リージュの顔が、ひょこっと覗いた。
「あ……ほんとにいたんだ」
どこか他人事のような、ふんわりとした口調。
けれど、その目だけは、私たちの様子をきちんと見ていた。
「ミナ、さっき声かけてくれたんだよね。
ちょっと朝の散歩に出ててさー、気づかなくてごめん」
いつもの調子で『ペロッ』とイタズラげに舌をだすリージュ。
「いや、構わない。こちらこそ探しに来たのだ」
「ふふー。探してくれたの? じゃあ来た甲斐あったね」
まるで小動物のような笑みを浮かべて部屋に入ってくる。
その気配に、フォスターが少しだけ態度を緩めたように見えた。
「で、何の話?」
リージュがベッド脇の椅子に座り、私たちを見る。
私は、一つ息を整えた。
そして、今このタイミングだからこそ、伝えられることがあると思った。
「ファルムス帝国への移動の件だ。……私は、向かうつもりだ」
言い切った。
自分の中ではもう決めていたことだが、仲間たちの前で口に出すのはこれが初めてだった。
「……うん」
リージュは、少しだけ目を細めた。
「まだ、天使の数は足りないよね。ここに残ってって言う人もいるかも」
「それでも、あの国に向かわなければならない。
私たちの任務は、まだ終わっていないからな」
少し間を置いて、リージュが静かに頷いた。
「わかった。なら、一緒に行く」
「……えっ?」
あまりにあっさりと返されて、私は思わず声が漏れた。
「だって、ミナが行くって決めたなら。行くしかないでしょ?」
フォスターが鼻で笑ったような音を立てた。
「……ほんと、姫はこういうとこだけ一直線だな」
「うるさいなー、フォスターも来るくせに」
「そりゃまあな。誰が行くって言ったって、オレらのチームはこれで固定だろ」
そう言って肩をすくめる。
私は――ほんの少し、胸が温かくなるのを感じていた。
大義でも、使命でもなく、
ただ隣にいてくれる人間がいるという事実。
それだけで、また一歩、前に進める気がした。
だが、まだ勇気が持てない……私が『魔族』であると、言うことが……
「それにしても、さっき何騒いでたの?」
リージュが首をかしげながら尋ねた。
不思議そうというより、むしろ楽しんでいるような、そんな目だった。
「……それはこいつが――」
「違う、そもそもお前が――!」
すかさずフォスターと私の声が被った。
同時に指を差し合う。
まるで子ども同士の口論のような応酬に、リージュが小さく笑った。
「ねぇねぇ、なんでそんなに仲良くなってるの?」
苦笑しながら言うリージュに、思わず言葉を失う。
フォスターも肩をすくめて、なぜか視線をそらした。
……仲良くなどない。
少なくとも、私はそう思っていた。が。
「……そんな風に見えるか?」
ぼそりと漏らすと、リージュは頷いてみせた。
「うん、ちょっと前まではたまに話すくらいだったのに、
今日はぽよんっ、だったんだよね?」
「お前な……!」
私の顔が一気に熱くなるのがわかった。
怒りではない。羞恥だ。
それを見透かしたかのように、リージュがさらに無邪気に笑う。
「あはは……ねえ、ミナ」
呼びかける声が少しだけ真剣味を帯びていた。
「出発の日までさ、ちょっとだけ……鍛えてもらえないかな。
あたし一人じゃきっと、まだ怖いから」
言葉は軽く聞こえるけれど、その奥にある決意は見えた。
だから私は、頷いた。
「……いいぞ。私でよければ、いつでも付き合おう」
「やった!」
「実は訓練場はアイシスさんから使っていいって、許可もらってたんだ〜」
まるで子供のように手を叩くリージュに、
ふと、かつての自分を重ねるような感覚があった。
フォスターの部屋を出る時、
アイツは「無茶すんなよ」とだけ言って自分の資料整理に戻っていった。
そういえば、彼は大事な時はちゃんと声を掛けてくれる。私は少し笑った。
言葉にされた優しさを、ようやく受け止めれるようになったのかもしれない。
――そして。
訓練を終え、火照った身体を冷ましながら空を見上げた時だった。
カァン……
ほんの一瞬。
耳の奥で、小さな鐘の音が鳴ったような気がした。
風の音でも、誰かの声でもない。
もっと、深いところに響いた“音”。
「……今、何か……聞こえたか?」
私は問いかける。
リージュも眉をひそめ、首をかしげた。
「うん……なんだろ?何か変な感じ。ちょっとだけ、胸がざわっとした」
「……そうか」
鐘の音は、それきりだった。
まるで、世界のどこかで、何かが目覚める準備を始めたような。
その意味が何なのか、今はまだ誰も知らない。
だが確かに、何かが、変わり始めていた。
今後はしばらく火、木曜日の11時更新となります。
元のペースに戻せそうになり次第、お知らせいたします。
【2025年3月31日、第一夜〜第三夜 改稿】リライト企画進行中(牛歩)
現在第一夜〜第三夜の文章と構成を全面的にリライトしました。
以前のバージョンを読んでくださった方も、改めて楽しんでいただけたら嬉しいです。
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