第五十一夜:歪でいて、予期せぬ出来事
世界の中心。
世界樹――ユグドラシルの根幹。
神々の理を束ねる美しき緑の園は、まるで天上の庭のように静謐だった。
だが今、その静けさを破るように、どこか場違いな――痛々しい音と、断続的な悲鳴が響いていた。
木々に覆われ、仄かに緑光が揺らめく薄暗い一室。
そこに居たのは、二人の少女だった。
ミコトとアルチル。
衣服は与えられていない。
腕と足を拘束されたまま、冷たい蔓床に投げ出された二人の身体には、
無数の傷と、乾ききらない血の跡が浮かんでいた。
静かに震えるミコトは、脂汗に濡れた顔を歪めながら、唇を噛んでいた。
傷の痛みより、隣で聞こえる嬌声のような声が、何より胸を締めつける。
「……あ、ぁ……っ」
呻きにも似た、熱に浮かされたような吐息。
アルチルだった。
彼女の目はどこか濁っていて、痛みを――いや、痛みすらも高揚として昇華するかのように、歪な恍惚を湛えていた。
その光景を、愉悦の笑みで見下ろす者がいる。
フェレス。
少女たちの母を名乗る女。
手には、赤黒く染まったイバラの鞭。
「アルチル、よくやったわね」
フェレスがゆっくりと膝を折り、娘の頬に手を添えた。
「天使は殺し損ねたけど……お腹に穴を空けたのよね。ふふふっ、素晴らしいわ……」
舌を這わせるように、アルチルの頬を舐め上げる。
彼女は目を細め、まるで褒められた子どものように微笑んだ。
だがその瞬間、フェレスの目が変わる。
「でもね……」
今にも崩れそうなアルチルの左腕――フォスターに斬られたその箇所の治りかけている筋肉を、容赦なく握り締める。
「弱者に負けるような、情けない子に育てた覚えはないんだよ!!!!」
「――ぎぃゃああああああああああああああああ!!!!」
アルチルの絶叫が、木々を揺らす。
身体が仰け反り、拘束の鎖が軋む。
フェレスの恐ろしく早口な罵倒が始まる。
「ねぇアルチル……どういうことなの?誰の娘だと思ってるの?私がどれだけあなたに期待して、手をかけて、愛してきたと思ってるの……?それをこんなザマで……恥ずかしいったらないわよ。あの天使のお腹を空けられて、それで満足?ああそう、気持ちよかった?でもね、それじゃダメなの。私の愛はそんなに軽くない。あなたには勝ってほしかったの、殺して、証明してほしかったのよ、私が正しかったって!私はあなたのためを思ってここまでしてるのに、それすら理解できないの?悔しいなら泣きなさい、痛いなら叫びなさい、それがあなたの弱さを削り取る唯一の方法なんだから……分かるでしょ?分かってよ、私のかわいい、かわいいアルチル……!」
「いたいっ、いたいっ、いたいっ、いたいっ、いたいぃぃぃぃ!!!」
「お母様っ!!」
隣でミコトも叫ぶ。
もがき、歪み、涙を流しながら、懇願の声を上げる。
その声が届いたのか。
フェレスの動きが止まる。
ゆっくりと、手を離し。
目に浮かぶ色が――狂気から慈愛へと、あまりにも滑らかに切り替わる。
「ああ……ごめんなさい、アルチル。痛かったわよね。かわいそうに……」
その口調には、本当に愛おしむような優しさがあった。
「でもね、この痛みは……貴女の心を強くしてくれるの。貴女の母の愛よ」
そう言った次の瞬間。
その目に、またぞっとするような歪みが走る。
「今度……その天使に会った時は、必ず殺しなさい」
ぐにゃりと顔が歪む。
悪意と憎悪、欲望と快楽が渦巻く、母ではない“何か”のような顔。
「は……はい、おかぁ……さま……」
かすれた返事をするアルチルは、今にも途切れそうな声の中で、
それでもどこか嬉しそうに笑った。
その表情が、何よりも恐ろしい。
それは愛などではない。
けれども、確かに愛されていると信じてしまった者の笑みだった。
コツ、コツ――。
乾いた足音が、無情にも静寂を裂いてミコトへと近づく。
その音が一歩、また一歩と重なるたび、ミコトの心臓は叩きつけるように脈を打ち、呼吸も苦しげに荒んでいった。
フェレスは、ゆっくりとミコトの前に立ち、鞭の柄を顎にあてがう。
顎が無理やり上げられ、視線が交わる。
その瞳の奥には、笑顔という名の獣が潜んでいた。
「ミコト、あなた……天使を一人、殺したんですってねぇ?」
言葉とは裏腹に、声は甘く、まるで誉めているような響きだった。
だがそれがミコトをより一層苦しめる。
――カミラのことだ。
実際、あれを殺したのはアルチルだった。
「……はい……」
搾り出すようにそう答えると、
フェレスは落ちているミコトのカタナを、すっと抜き取った。
鍔鳴りひとつ響かせ、そのまま刃を、無遠慮にミコトの首筋へと添える。
「どうだった? 初めて人を殺したその感覚は……」
フェレスの声は、まるで恋の話でもしているような陶酔感を帯びていた。
「気持ちよかった?」
刃の感触が、肌に薄く触れる。
ヒヤリとした鉄の冷たさが、ミコトの全身を凍らせる。
黙り込むミコト。
呼吸の音すら押し殺すように、小刻みに肩が震えていた。
「どうしたの、ミコト?」
フェレスが小首をかしげ、笑みを崩さぬままさらに問いかける。
「……ません……」
掠れた声が、唇の隙間から漏れる。
その瞬間、フェレスはゆるやかにカタナの刃を下ろし、ミコトの肩口から胸元、腹部にかけて、まるで恋人の肌を撫でるかのように滑らせた。
それでも、ミコトは必死に目を閉じ、息を堪えたまま耐えていた。
「んー? 今、なんて言ったのかしら?」
なおも聞こえなかったふりをして、フェレスはもう一度同じ問いを繰り返す。
声が、今度は明らかに棘を含んでいた。
「……殺して、ません……」
怯え切った顔で、ようやくそう言った瞬間。
――カタナが、宙を舞った。
金属音と共に、部屋の奥へと投げ捨てられる。
そして次の瞬間。
「この……嘘吐きが……ッ!」
吐き捨てるような声と共に、イバラの鞭が振り下ろされた。
バチン、と乾いた音が、ミコトの裸の背に鋭く叩きつけられる。
「あぁあッ――!!」
叫ぶ間もなく、二撃目、三撃目が容赦なく襲いかかる。
鋭い棘が肌を裂き、血が飛沫のように跳ねた。
「他人の手柄を盗ってまで、愛されようとするなんて……惨めったらしいのよ!
そんなの、私の娘として恥よ! 恥、恥、恥!!」
フェレスの罵声と共に、鞭の音が重なる。
まるでそれは、愛の言葉のように繰り返された。
ミコトの意識が、真っ白に塗り潰されていく――。
――また鞭が振り下ろされる、その瞬間だった。
ヒュッと音を立てて軌道を変えたイバラの先端が、ミコトの頬に触れようとした刹那。
床から這い上がるように伸びた“樹の根”が、ピタリと鞭を絡め取り、寸前でその動きを封じた。
「――顔は、おやめなさい。フェレス」
空気が変わる。
それだけで、この場の支配者が誰かがわかるほどの存在感だった。
現れたのは、薄緑の衣を纏い、悠然と立つ女神。
この地を治める唯一神のひとり、ユミル。
その美貌には冷たい慈愛が宿り、声には揺るがぬ理の響きがあった。
「教育に口出しをするつもりはありませんが……」
ユミルは、鞭を握るフェレスを静かに見据えながら続ける。
「同じ“女性”として、大事な部分は、守りなさい」
声音は穏やかだった。だが、場の空気が一段と冷え込んだようにも感じた。
それは命令でも警告でもない、“当たり前”という絶対の理のように。
「……うるさいのよ、このアバズレ女神が」
フェレスが舌打ち混じりに吐き捨てた。
にたりと笑みすら浮かべているその顔は、どこか楽しげですらある。
すると――ゴォ、と大樹が低く鳴った。
部屋を包むように伸びる巨木の枝葉が、わずかにざわめき揺れる。
それは、ユミルの静かな怒りに自然そのものが反応した証だった。
「アバズレ、ね……。言葉が過ぎますよ、フェレス」
微笑んだまま、ユミルは左手をゆるく振った。
次の瞬間。
イバラの鞭がフェレスの手から引き剥がされ、床を滑り、遠くへと弾き飛ばされた。
「お尻の軽い淫売には敵わないですね」
ユミルは肩をすくめ、皮肉も忘れない。
二人の間に流れるのは、神々とは思えぬほど俗っぽく、
それでいてどこか底知れない――明確な“確執”。
「本来の仕事に戻りなさい」
ユミルは視線を逸らさず、冷たく言い放つ。
「教育は……その程度で、十分でしょう?」
その声には、押しつぶすような威圧が込められていた。
ただそこに立っているだけで、空気が凍りつくような気配。
「言われなくてもそうするわ」
フェレスは踵を返し、ゆっくりと歩き出す。
「お前と同じ空気を吸うなんて、反吐が出る」
最後にそう吐き捨てた瞬間――。
彼女の身体は、もわりと黒い霧に包まれ、闇に溶けるように姿を消した。
まるでコウモリが霧に還るように、禍々しい瘴気を残して。
そして、再び静寂が戻る。
カチャリ、と金属の軋む音を最後に、鎖が外れた。
身体の力が抜け、ミコトとアルチルはほぼ同時に、その場に崩れ落ちる。
仰向けに倒れたミコトは、荒い息を繰り返しながら、焦点の合わない瞳で天井を見つめていた。
その顔に、ひときわ強い光が差し込む。
ユミルがそっと膝をつき、手をかざしていた。
彼女の掌から溢れ出るのは、緑がかった温かな輝き。
それは高等魔導すらも凌駕する、神の力。
光が触れた瞬間、ミコトの身体に走る痛みが、まるで夢だったかのように和らいでいく。
開かれた傷口が、瞬く間に塞がり、血も痕も消え去った。
「……ありがとうございます。ユミル様……」
声は震えていたが、そこに確かな感謝の色があった。
ミコトは、近くに置かれていた羽織を手に取り、肩に掛ける。
肌を覆う布の温もりに、ようやく人心地がついたようだった。
「気にしなくて良いのです」
ユミルは静かに微笑む。
「私にできるのは、これくらいですから……」
優しげなその目には、どこか“諦め”のような陰りがあった。
ふと隣に目をやると、アルチルも倒れたまま、仰向けに微笑んでいた。
「アルチル……は、大丈夫そうですね」
ユミルが、少し戸惑いながら口にする。
彼女の反応はあまりに異質だった。
傷のひとつひとつを慈しむように、痛みを味わうように――ゆっくりと、ゆっくりと快楽に身を預けるように回復していく。
「ええ、お母様の愛を感じていたいから、大丈夫です♪」
口元にはうっとりとした笑み。
その笑顔に、常識的な安堵はなかった。あるのは、歪んだ満足と恍惚。
だが、その左腕だけは違った。
フォスターの剣に裂かれた箇所――そこだけは、回復の兆しが極端に遅い。
肉の裂けた跡がまだ生々しく残り、再生中の筋肉繊維が見えていた。
「アルチルもしばらくはまともに戦えないでしょう」
ユミルが表情を変えぬまま、淡々と告げる。
「貴女も……無理はしないように」
その声には優しさと同時に、“距離”があった。
言葉以上の意味が、そのわずかな温度差ににじむ。
明確な断絶ではない。
だが確かに、一線が引かれている。
ユミルの姿勢も、ミコトの受け答えも、どこか“最低限”に留まっていた。
互いに踏み込まぬよう、互いを見誤らぬよう、触れるのはほんの輪郭だけ。
そこにあるのは――慈悲ではなく、“摂理”だった。
「……想定外ですね……」
ぽつりと、ユミルの唇からこぼれた呟き。
それはあまりに小さく、空間に沈み込むような音だった。
「えっ……?」
ミコトが顔を上げる。
だがユミルは、もういつもの女神の表情に戻っていた。
「いえ、なんでもありません」
静かな声で返すと、ふと目を伏せ、肩の埃でも払うように言った。
「フェレスには……オルヴァルグから言い聞かせておきます」
その時だった。
空気が……変わった。
今後はしばらく火、木曜日の11時更新となります。
元のペースに戻せそうになり次第、お知らせいたします。
【2025年3月31日、第一夜〜第三夜 改稿】リライト企画進行中(牛歩)
現在第一夜〜第三夜の文章と構成を全面的にリライトしました。
以前のバージョンを読んでくださった方も、改めて楽しんでいただけたら嬉しいです。
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