第三十五話『心臓を返せ』
速水碧の心臓には空白が空いていた。
黒衣の人物の手には何かがくるまれた布がある。赤羽はそれが心臓であると確信し、その人物目掛けて飛び込んだ。
「なるほど。君はそちらを選ぶのか」
水中で、はっきりと聞こえた声。おそらく黒衣の人物が放った声だ。
赤羽は非現実的な現象に不思議な恐怖を覚える。
「いいよ。心臓は返すよ。でも速水碧を生き返らせたいならば特待Aクラスの誰かの力を借りなければいけない」
その人物は手に乗せた心臓を包んだ布を眠る速水の手に乗せ、上から握らせるように手で押す。意識はないはずだが、大事なものを持つように自然と心臓を握る。
「でもね、大事なのはそこからだよ。速水碧はなぜ精神を崩壊させた。なぜ心臓を押さえて倒れた。その解決をしない限り、速水碧は死んだままだよ」
黒衣の人物は答えを言わない。全てを語ることをその人物は選ばない。
「赤羽、お前の選択がどうであれ、その先に待ち構える試練を突破できなければ死ぬだけだよ」
振り返りながら、言葉をかける。その目は息子を見るようなまごころがあるように思えた。
「じゃあね。再び選択をした時、私は君に会いに行く」
その言葉を皮切りに、水流そのものに変化したかのようにその人物は消えた。黒衣だけが水中に漂い、その中身はどこにもいない。
その人物がいったい誰なのか、喋り方や仕草からでは何も分からない。意図的に喋り方を変えているように思えた。
二人称がコロコロ変わったり、声のトーンを無意味に上げ下げしていた。その人物が暗殺学園の誰かである、と疑わざるを得なかった。
その人物に関しては考えても明確な答えは見つからない気がした。
赤羽は速水と有栖川の肉体を掴み、水流に逆らって扉を戻る。一階のプールからはロープが垂れ下がっている。引っ張ってもどこかに固定されているのか、上れそうだ。
ロープを伝い、一階のプールへ上がる。プールサイドに二人の肉体を置いたところで、漆原が現れる。
「手を貸そうか?」
プールに浸かり、プールサイドに腕をかけている赤羽に漆原は手を伸ばす。
「必要ない」
漆原が伸ばした手は使わず、自力でプールを上がる。
漆原は表情を悲しみに歪ませるも、信頼を失った原因は自分にあるため、当然の結果だと受け入れるしかない。
漆原の視線は自然と速水と有栖川の肉体へ向けられる。どちらも心臓には穴が空いている。
「速水碧の心臓もないみたいだけど、手に握られている布に入っているってことですか?」
「ああ。そうらしいが……」
空虚な返事を返した赤羽。
彼は他に気になっていることがあり、速水の隣に見える有栖川に意識を向けていた。
「一つ疑問に思ったんだが、なぜ有栖川の肉体もあった? お前の説明だと速水の肉体で有栖川の心臓を呼び起こすって話だった。有栖川はいらないんじゃないか」
有栖川の肉体があることは違和感でしかなかった。もし必要なのであれば、漆原の言っていたことは間違っていることになる。
詳細を聞きたい赤羽は漆原へ鋭い視線を向けた。
「あくまでも仮説です」
「お前が仮説と言ったのは先輩の心臓が誰かの心臓となって今も動いているということ。心臓を呼び起こすことについては可能であると分かっていた節はあった」
漆原の目は泳ぐ。
赤羽は漆原の動揺を見逃さない。
「何か隠しているだろ」
漆原は隠しきれないことを感じ取り、ゆっくりと口を開く。
「有栖川は暗殺学園を潰すために何人もの協力者を獲得していた。そこに俺たちがいるわけですが、その一人一人に違った内容の遺言を残しているんです」
漆原は後悔を思い出しつつ、話を続ける。
「俺が託されたのは、まず暗殺学園が密かに行っている実験についての情報です。それが心臓に眠る記憶を呼び覚ますという実験。それと、心臓のない人間の創造」
「は……ッ!?」
「それらの情報と被験者リストについての情報が保存されたSDカードを託された。生憎被験者リストのデータは破損していて全てを見ることは叶わなかったが、唯一見ることができた名前があった。それが速水碧の名だ」
赤羽の視線が心臓に穴を空けた速水に向く。本来、心臓のない人間は生きてはいない。心臓が身体の機能の重役を担っているから。
だがもし心臓がなくても生きられるとすれば、暗殺者として非常に優れていると言えるかもしれない。
「じゃあ、速水は今も生きていると?」
「おそらく生きている。そして有栖川の心臓を移植されたことで有栖川の人格の一部が共生して生きている可能性はある。だがこの実験の目的は心臓さえあれば生き返ることができる、という死者蘇生だと考えられる。そして速水はその器のための存在。あくまでも有栖川の遺言から導き出した仮説だ」
漆原が話していることは彼が一人でたどり着いた結論。有栖川の裏切ったことから生じた後悔が走らせた結果だ。
正しいかそうでないかはともかく、赤羽はその考察にわずかな感心を見せる。
「では、速水は一体……」
赤羽の中で、ますます速水についての理解が難しくなる。
「速水は改造された人間なのか。それともゼロから作り出された存在か?」
「分かりません。情報は所々破損しており、とても全ての情報を閲覧できませんでしたから」
「心臓がなければ死ぬ可能性もあるか。なら速く心臓を戻さなければいけないな」
本当に有栖川の心臓であれば、赤羽は有栖川のもとへ戻してあげたいと思う。だがそれが真実であるか、まだ明確にはされていない。
そのため、速水のもとへ戻すのが優先だ。
「そういえば特待Aクラスの誰かが心臓を戻せると言っていた。心当たりは──」
「──できるぜ。一応」
漆原へ問いかけたはずの言葉。だが思わぬ声での返答に、その声の主へ視線をぎょっと向ける。
そこにいたのは氷にシロップをかけたような雪色をした髪をだらしなく垂れ流す男子生徒。
「どうも。特待Aクラス第四席、氷夜冴だぜ」
彼の腕の上で抱かれているのは、死んだはずの宮園潮だった。