正義の味方はホームレス その二
ゴミ箱の異臭も今では分からない。慣れたというよりも自分が同じに異臭を放っているからだろう。これでも毎日水浴びはしていたし洗濯だってしている。それくらいで取れる臭いではないのだ。
暗い路地で周辺では珍しく鍵の掛かっていない生ゴミのゴミ箱を漁ると、食べられそうなものを黒山尚武は探していた。廃棄品の中には結構いいものは見つかるものだ。飲料水でも同じだ。ほとんど飲んでいないペットボトルなど幾らでも見つかるものだ。
食べられそうな廃棄弁当を二つほど取ると尚武はなるべくゴミ箱の辺りを綺麗にして離れる。一つは縄張りを守る為の賄賂のようなもので、仲間に渡すのである。生活を守る為にはルールを守らなければならないのはどこでも同じなのだ。
尚武がホームレスになる前には大手の金融会社の社員をしていた。人並み以上に仕事もしたしそれなりに出世もした。それに妻だっているし子供もいた。まさに黄金時代だった。あの時代のネオンは、今でも尚武の心に浮かんでくる。
だが生活は、たった数ヶ月のうちに激変した。バブルの崩壊は容赦なく尚武を初めとした人々を飲み込んで何もかも奪っていった。
真っ先に尚武は首を切られた。僅かな退職金だけが支払われただけだった。それからしばらく尚武は何もする気力が無くなっていた。一人息子が大学に進学してしばらくして妻とは離婚した。今ではどうしているかも分からない。
それからはとんとん拍子でここまで来てしまった。住居も家族も仕事も全部尚武はなくしてしまったのだ。
しかし、今の生活が嫌いなわけではない。確かに自分の路上生活が社会的にどのように映るか知らないわけではないし息子にも見られたくは無い。だがそれでも、何もしなかった数年よりも充実はしていたのだろう。
トコトコと尚武は高速道路の方へと歩いていく。だがしばらくすると道端に捨てられたものを見つけた。
それはベルトだ。子供向けに見えるほど短いものだったが、全体が褐色で、デザインもまったく古く汚れもある。金具で止める一般的なタイプのようだ。
なんとなく拾うと、尚武は自分の腰の辺りを見た。長年のベルトはぼろぼろで、すぐにでも切れてしまいそうである。
だからとて、こんな小さなベルトを自分が巻けるとも思えなかった。でも、まあ試してみて駄目なら使い道というものはあるものだ。ボロボロのベルトが千切れないように外すとそのベルトをなんとなく自分の黒の綿パンにつけてみた。
「ん…………何だ?」
声が出てしまった。そのベルトは尚武の腰を難なく一周した。まるで延長したようにも見える。だがそんなことはありえないだろう。どうやら思ったより大きかったらしい。
一度尚武は軽くジャンプしベルトが落ちないのを確認した。それからまた地面においていた弁当を持って歩き出した。
だが偶然は続く。
日が沈んだ後、偶然裏路地を進んでいると一人の縮こまった少年が三人くらいの制服の男達に蹴られているところに尚武は遭遇したのである。尚武の向かう方向ではないが、T字路の先の行き止まりにいるのだ。全員同じ黒い学生服だった。
「おらぁ!」
囲んでいる金髪で長髪の少年が蹴るのが見えた。その一撃はサッカーボールを蹴っているときのように加減などしていないような強烈なものである。その一撃を転んだ少年は腕でガードし、必死に内臓を守っているようだった。
「おいおいおい、どしたのーどしたのー?」
オールバックの少年が茶化すように言っているのが聴こえた。そうして少年の脚を踏みつけた。
「今のはゴールじゃねえだろ。全然弱いって、俺の方がつええから」
金髪でメンズボウズの少年はそう言うと、腕の同じ場所を蹴り上げた。砂袋を落としたような音がして、蹴られた少年の悲痛なうめきが路地に響いた。
「ほら、どうよ。どうよ」
「いや、俺の方が強かったって」
「俺だよなあ、なあ、何か言ったらどうなんだよ、なあ?」
「てめえ、分かってんだろうな? こいつって言ったらぶっ殺すからな?」
それからゲラゲラと笑い声が響いた。そしてもう一度長髪の少年が倒れた少年を思い切り蹴った。
この光景を見て、尚武はまずいと思った。少年は加減をしていない。虐めの末期に近いような状態だ。刺激を求めれば更なる刺激が必要になる。その行き着く先は、良識が完全に麻痺した非常に危険な状態だ。
だが、どうするというのだ?
誰かを呼んでくるというのか?
それまでに少年達が逃げたらどうするのだ?
いや、蹴られている少年が耐えられずに殺される可能性の方が高くは無いか?
彼らはまったく、全てが済むまで法律の裁きを恐れたりしないだろう。そうなれば、もう全ては手遅れだ……
「あ、あの…………」
何をやっているのだと尚武は思った。アスファルトに弁当を置き、それから不良らしい少年に話しかけていたのだ。
少年達はゴミを見るような視線で尚武を見ていた。不良と話したことが無いわけではなかったが、それでも直接的な視線は恐ろしい。だがそれでも、一度話してしまったら続けるしかない。
「これくらいで、いいんじゃないかな? 何があったのかわからないけど、ほら、この子も痛がっているし……」
「おっさん、うちらはじゃれてるだけなんで。こいつだって喜んで俺たちに蹴られてるんすよ。同意の上って奴ですよ」
メンズ坊主の少年は黒い制服のポケットに手を入れながら言った。
「それでも、これ以上は駄目だよ。ほら、もう彼も酷い状態じゃないか」
「いい加減にしとけよ、おっさん。それともおっさんもサッカーすんのか?」
これほどサッカーという言葉が怖いと思ったことがあるだろうか。脳裏にメンズボウズの男に蹴られる自分の姿が浮かんだ。このまま謝って逃げるのが一番なのかもしれない。大体、少年達のことなど、まったく知ったことではないだ。
「いや、君達……大人の言うことは聴くものでね……」
「うるせえんだよ、だあだあと!」
そう言うとオールバックの少年は威嚇しながら尚武に近づき拳を振り上げた。
殴られると尚武は思い、数歩下がった。不意打ちは避けられただろう。だが、どうするというのだ……
いや、もう駄目だ。
そう思うと喧嘩一つしたことのない尚武は、必死に振り上げた自分の拳を少年へと叩きつけた。
途端に、少年は吹き飛んだ。まるでアニメのように1メートルくらいは飛ぶとそのままアスファルトの上に不器用に転がった。
この光景に、誰もがまったく呆然としていた。少年達はもちろん、吹き飛ばした張本人である尚武でさえ何が起きたのか分からなかった。だが今言えるのは、尚武は人を傷つけるのが怖く、無意識に手加減したはずだったということだった。
「あ……達治!」
メンズボウズの少年は達治と呼ばれた少年の方へと向かった。長髪の少年は未だに何が起きているか分からないようだった。
それがチャンスだと尚武は思った。だがそれでも、何か自分が危険であることをなんとなく分かっていた。
尚武は長髪の少年に近づくと、その頬に軽めの平手打ちを食らわせた。するとその一撃で少年は大きく仰け反り、そのまま崩れるように倒れた。残されたメンズボウズの少年は猛獣の檻に入れられた生贄のような瞳で尚武を見ていた。
「ひ、ひいいいいいいい!!」
凄まじい勢いで少年が失禁しているのが見えた。まさか、こんな光景を現実に見るとはと尚武は苦笑した。
日も沈んだ暗いアスファルトを尚武は、不良少年三人を左手で持ち上げながら引き摺り、蹴られた少年を右手に囲いながら歩いた。それから交番の近くに行くと、少年に言った。
「こいつらは置いておくから、交番で警察を呼びに行きなさい。手足は私の衣服を破ったロープで縛ってある。動けないだろう。それから、彼らにやられたことを言いなさい」
「あの……そうしたら、また酷く……」
「ならないだろう。こいつらは何も出来なくなるだろうさ。大人を信じろ。さあ、行け! 行かないと、お前も気絶させるぞ!」
「……おじさん、ごめんなさい……ありがとうございます」
少年は頭を大きく下げて交番の方へ歩いていった。それから尚武は、少年がお回りを連れて不良少年達に近づくのを見て身を隠すように去っていった。
すっかり暗くなった夜の道を公園へ向かいながら尚武は自分の掌を見て、それから近くの電柱へ手を当てるとゆっくりと押すと、その電柱が動くのを感じた。手を話すと電線がゆれたのが何よりの証拠だろう。そして自分の掌をもう一度見ると、考えた。
これじゃ、まるでアメコミのヒーローみたいじゃないか。




