死後の世界に安息を! その四
たった一日で体力が酷く落ちたのに幸三郎は気がついていた。もう起きられる時間も少ないだろう。訪れるべき黄昏の時間はあと少しに違いない。
これまでの人生に悔いが無いといえば嘘になるだろうし、訪れる者に身内などいないという事実に寂しさを覚えないわけではない。だがこれも運命だろう。近くには古い本があった。ちらりとそれを見ると幸三郎は少しだけ嬉しくなった。
よく晴れた窓の光に満ちた病室にまたノックが響く。そこに現れたのは、やはりあの坊さんだった。
「御免ください」
また幸三郎の横に立つと、坊さんは少し機嫌が悪そうに右手を立てて念仏のポーズを取った。
「今日は疲れました。後のことはお任せしますから……」
もうくたくただったので幸三郎は一言断り眠るつもりだった。
「いえ、今日は一つ提案をしようと思いましてね。病に倒れた者や老衰の者はニヴル・ヘルに送られるものですが、一つ例外があるのです。それをお伝えしに来たのです」
「何でしょうか」
「貴方は、立派な会社員として生を全うされるのです。それは現代社会においては農民のようなものだということです。ならば別にヴァルハラに行く必要はないのです。ビルスキルニルに行くことを望まれてはどうかと思いましてね」
ビルスキルニルを幸三郎が知らないわけではない。スルーズ・ヴァングにあると言われるトールの大宮殿だ。五百四十もの部屋がある、美しい宮殿であるらしい。
「無理でしょうな……農民ではないので……」
「私様も謝りたくはないもので、ビルスキルニルに行けるように念仏を唱えてさしあげましょう。必ずや貴方はトールの身元で魂の安息を得ることになりましょう……これならば、どうでしょうか」
「願ったり、適ったりですな……」
酷い眠気に襲われながら幸三郎は坊主の傘に隠れた瞳を見た。坊さんにしては酷く隈があり、まるでニヴル・ヘルを思わせるような瞳だった。
「では、そのように希望される……で、よろしいですな」
「いえ……もしも私が行くとするならば、フォールクヴァングかヴァルハラに行き……ニヴル・ヘイムへ行くのでしょう……」
「……は? おま、何故そこまでニヴル・ヘルに行きたいのだ? だって、貴様、それだけでアースガルズに留まれるのだぞ? いや、確かに言うほどいい場所ではないとは思うが……おかしいだろ!」
「分からないかもしれませんが……もしも認めてしまったら……何が私に残るのですか……」
「え?」
「教えてください……もしも私から、ヴァルハラへの……アースガルズへの……トールへの憧れを取れば……何が……」
坊さんは一歩脚を下げた。そしてもう一歩下がった。
「わ、私様は……ちょ、待て、ちょっ……重くね?」
「私には……何が……」
「む。無理だ! もういい! き、貴様など、に、ニヴル・ヘルに落ちてしまえばいいのだ! 私様は知らん! マジで、もう知らんからなぁぁぁぁぁぁ!!!!」
まるで怪物を見るかのように坊さんは駆けて部屋から逃げて行くのが幸三郎に見えた。それから酷い眠気に負けるように幸三郎は眠りについた。




