少年よ、甘い夏の思い出に その三
これほどロキを満足させる場所はあったのだろうか。自分は『星元 茜』になりきり、周りは原作通りの風景だ。おまけに食事のカップ麺はおいしい。コンビニは無いが自販機はあるしネットカフェは飲み放題でクーラーまである。セ〇ムも導入されていて安心だ。何より他の神々がいきなりミョルニルを振り回したり銃を乱射することもない。漫画も沢山あるし、アニメだって問題なく見ることができる。ネットゲームもできる。VCはできないが、まったく問題は無い。
パソコンの前で『フォトンガール』の第50話を見ながらロキはコーラをストローで吸う。
「ああ、最高。マジで最高だわ……このままずっとここに居てえ……マジ居てえ……」
そう呟きながらロキはまたコーラを吸う。前では、あの地蔵の前で『星元 茜』が両腕を自分の腰の後ろに回して、少し屈んで石を蹴る真似をしている。今日ロキのやった行動である。
満足してロキは眺める。アニメが終わると、読みかけの漫画を読み始める……
…………
…………
ふとロキの顔から微笑みが消えた。そしてコーラを黙って眺めた。
なんてことだ、とロキは思った。
不思議なことだが、あれほど嫌いなアースガルズの、あの散らかってここよりもゲームも漫画も無い家に帰りたくなったのだ!
別にあの家が好きなわけでもないし別に神々と顔を合わせたいわけでもない。なのに帰りたくて仕方がなくなったのである。
「……もうほとんど回ったし、いいか」
小さくロキはため息を吐いた。明日は、川に泳ぎに行くのである。丁度最終回の一話前の再現だった。
思えは健太にとって不思議な気分だったのだと思う。学校でも水泳や川で泳ぐことはあったし女子の水着などそこまで珍しいものではない。しかし、同年代の女子と二人きりで川に泳ぎに行くのである。川の音がいつもと違うような気もする。自分の体が妙にこわばる。何故こんなにも緊張しているのか。
木陰で着替えた星元の水着は水玉の女子らしいものだった。パタパタとサンダルで歩く星元はやはり珍しそうに写真を撮り、そして川に入って泳いだ。
しかし何故か健太には星元が楽しそうには思えなかった。いつもより写真の撮影枚数が少なく、すぐ川からあがってしまったからなのかもしれない。
川辺に座った星元は向こう岸の森をぼーっと眺めているようだった。健太は平たい石を一個持ち投げると三度だけ跳ね、波紋はすぐ流れに消えていった。
星元のすぐ隣に座ると沈黙に耐え切れず健太は尋ねた。
「どうしたんだ。今日元気ないじゃん」
「ん……まあ、そうだな……いい頃合かと思って」
「頃合?」
何の頃合か健太には分からなかった。ただ嫌な予感のようなものが胸にこみ上げる。明らかに自分が動揺していることに健太は気がついた。
「明日には、もう帰ろうかなと思ってね」
「……帰るって、どこに」
「もちろん家に」
「家って、都会のか」
「まあそこだけだし」
世界の音が止まる瞬間を健太は始めて感じた。なんともいえないような感覚を健太は表現する方法を知らない。ただ健太は普段のような不思議な可愛さを出さない星元の大人びた様子に嘘ではないと直感的に覚えた。
「……ちょっと待てよ。お前んち、親はどうなんだよ」
「ん……ごめん、健太。一人でおばあちゃんの家に来たから。明日、朝一の電車で帰るね」
「急すぎるだろ! 夏休みはもっとあるし……それに、星元と、もっと、もっと遊びたいんだ……」
何故こんなにも瞼が熱くなるのか、健太にはわからなかった。ただ健太も男の子だった。涙が零れるところを見せるわけにはいかない。
何かを発散させるように健太は立ち上がると、ぐっと拳を握った。きっと爪の痕がついて、もしかしたら血も出ていたのかもしれない。
星元はちらりと健太を見上げた。明るすぎる川辺には似つかわしくないような暗い瞳だった。蝉の音が妙にうるさい。それから呟くように、だがはっきりと星元は言った。
「……ごめん、健太」
ついに耐え切れなくなり、健太はそのまま走って星元から離れていってしまった。
健太が再び川辺に戻った時には既に健太の服しか残っていなかった。夕焼けが迫るオレンジ色が空に混ざる。その色を茜色ということを健太は知っていた。
着替えた健太は、星元が座っていた場所を見た。何も残っていないそこは、もう健太がよく知っている石と砂ばかりの場所だった。
その夜は両親が心配するほど健太は食欲が沸かなかった。水さえ口にすることも出来ず、『調子が悪いから』と親に言って自分の部屋の布団に横になった。だけど眠ることができない。
暗闇の中には、あの黒い服と紅いスカートが浮かんだ。それが夏の日差しを浴びて光る姿が浮かんだ。暑さのせいか、星元は陽射しを浴びると隈を濃くして、日陰に入ると元気になった。何もないところで写真を撮っていた。楽しそうだった。その星元は川辺で川の向こう岸を眺めていた。寂しそうに外を眺めていた。
夏の日は早くあがる。
もう外は明るくなり始めている……
健太は立ち上がり、洗面所に行き顔を洗う。何度も何度も洗う。それから鏡を見る。自分の瞳を覗き込む。
それから着替えて、外に出る。朝の空気は湿気を含み、辺りの山々はまだ暗い闇を含んでいる。
そして健太は走り出す。
始発の時間を健太は知らない。
だけど、とにかく走らずにはいられなかった……




