在りし日を歌う
埃が舞い上がる。二重ガラスの天窓から射す光が、けむるような埃の渦を照らしては乱反射させた。書庫の出入り口に突っ立ったまま、ユリアナは袖口で口元を覆い、形のよい眉をしかめて批難のまなざしを向ける。
「……何してるのよ」
濃青の眸が向けられたのは、書庫の中央に座り込んだ男だった。赤銅色の肌に黒い髪をした、荒削りながらも品のある面差しをした男だ。常であるならば腰に納まっているはずの大柄な半月刀も今は壁に立てかけ、自身の周囲をうず高く積まれた本の山で埋めている。
かつて皇帝の精鋭部隊にいた生粋の武人でありながら、実は国内随一とも謳われるアズハル学院を次席で卒業したことはユリアナもよく知るところだ。だから彼が持ち前の探究心を発揮し、実家の書庫を漁るのはそう驚くことでもない。問題なのは――ヨクトシアが広げる本の中身だ。
「本を見ている」
「“見ている”、ね……。なんで私のアルバムを、わざわざご丁寧にも全部引っ張り出して、勝手に見ているのかしら!?」
そう――ヨクトシアが“見ている”のは、ユリアナの写真が収められたアルバムだった。
ユリアナが生まれてから女学院に入学するまでの十数年間の写真を綴じた、何冊にも渡る分厚いアルバム。書庫の奥の奥に仕舞いこんで隠していたはずのそれが、今や目の前にある。ヨクトシアがその全冊をわざわざ引っ張り出したのは火を見るよりも明らかであった。
「駄目だったか?」
「決まっているじゃない。そんな昔の写真、恥ずかしくて見てられないもの! ほら、元に戻しなさい」
戸口でふんぞり返り、ユリアナは唇を尖らせた。いくら相手が幼馴染みであるとは言え、幼少のみぎりを持ち出されるのは辛い。淑女にあるまじき大股で歩み寄って男の膝上に広げられたアルバムを奪おうとするが、悪戯めいた笑みでかわされる。
「ちょっと、ヨクトシア! 返しなさいってば!」
男が立ち上がってしまえば、悲しいかな、小柄な少女には手が届かない。ヨクトシアの頭上に掲げられたアルバムをきっと睨み付けて、ばんばんと目の前の肩を叩き付けるが微動だにもせず。「あなたの雇い主は私でしょう!?」と権力を振りかざしてみるものの、やはり一笑されるだけで。
「いいじゃないか。俺だってかわいかった頃のお前を懐かしみたいときもある」
「…………今がかわいくないみたいじゃない」
じろりと睥睨してみるものの、自覚がない訳でもない――それでも乙女心というものが自分にも存在するのだ。そんなことを口にしようものなら、金髪の方には鼻で笑われてしまうだろうが。「冗談だ」とあっさり言い放って頭を撫でてくれるあたり、ヨクトシアは優しい。
しかし素直じゃないもので、子供扱いするような手を振り払うと、ユリアナは再度男の頭上に手を伸ばした。古びたアルバムの背には、母の字でとある年次が綴られていた。それを目に留めた瞬間、大量にあるアルバムの一冊から何故彼がそれを選び取ったのか、彼女は理解してしまったのだった。
「あ……っ!」
ふいに靴先を滑らせ、全身のバランスを崩してしまう。とっさにヨクトシアが腰を支えるが、足場が悪いせいでふたりもろ共床に倒れ込んでしまった。アルバムの山が崩れ落ち、どさどさと派手な音が上がる。舞い上がった埃に咳き込みながらもユリアナが上体を起こすと、その真下にヨクトシアの顔があった。たがいに驚いたように顔を見合わせ、吸い込まれそうに深い黒の目を凝視し――我に返った少女は慌てて男の上から退こうとするが、それを引き止めるものがあった。ふたりの間に、はらりと何かが落ちたのだった。
一枚の写真だった。
倒れてまでヨクトシアが死守したらしいアルバムから、挟み込まれていた一枚が滑り落ちたらしい。
はっとして、ユリアナは息を止めた。二人折り重なったまま、微動だに出来なくなる。顔をこわばらせた少女を横目に、胸元に落ちた写真を拾い上げると、ヨクトシアはそれを日に透かして目を眇めた。
「…………家族写真だな」
後列に父と母が。その前に、青年と少年。その間に挟まれた幼い少女。
噴水を前に撮られた一枚の写真は、みなほがらかな顔つきをしている。見るからに幸せそうな。
右下に刻まれた十二年前の日付を指先でなぞろうとするのを、ひったくるようにユリアナは奪い取った。胸の奥が鈍く痛んだ。
「…………っ、」
日付はあの忌まわしい事故の数ヶ月前を示していた。あの頃はまだ、日だまりの中を転げ落ちるように遊んでいた。それができなくなったのは、いつからだろう。いつのまにかこの写真のなかにいる人たちは、ユリアナを疎むようになり――――それから。
腕の付け根がかすかに痛むような気がして、ユリアナは目を瞑る。唇を引き結ぶと、黙ってヨクトシアの上体から退いた。
「…………すまない」
身を起こした彼に背を向けたまま、首を左右に振る。けれども気の利いた言葉は返せない。
あの事故で傷ついたのはユリアナだけではない。目の前の青年とて、浅からぬ縁があるのだ。
その友人であり、自分の兄でもある存在を殺したのは二年前。彼は自分の手で義父すらも殺めた。それなのに彼がいまだに一緒にいてくれるのは、たぶん、あの事故がどうしようもなく互いを繋ぎ止めるからだ。忌まわしい――思い出すだけで胸の締め付けられるような、一連の出来事とともに。
「ユリアナ」
ようやく振り返ると、伸ばされた指先が顔の輪郭をなぞった。
硬く張りつめた親指がやわらかい下唇に押し当てられる。やんわりと力が加えられて、爪先が唇の出入り口をくすぐった。
ヨクトシアは、じいっと、こちらを見つめていた。そんなに見つめられたら顔に穴が空きそうだ、と場違いなことを考える。そうしているうちに男の面が近付く。鼻先に息がかかるのにびくりと肩が揺れた。男の薄い唇が視界にちらついたが、それは吸い寄せられるように目元の薄いほくろに触れただけで、すぐに離されてしまった。
肩を竦めると、何事も無かったようにヨクトシアは崩れた山を直した。そのうちの一冊を引っ張り出すと、中を開いて見せる。
「このあたりから、俺も出てくるんだ。覚えてるか?」
動揺を悟られぬように、跳ねあがった心臓をそっと押さえて、ユリアナは彼の手元に目を向けた。
兄がアズハル学院に入学したあたりから、頻繁にヨクトシアが写真に登場するようになる。鷹狩りに連れ出された際の数枚の写真が、そこには収まっていた。小柄ながらも優美なハヤブサをおそるおそる腕に留めたユリアナの横で、ヨクトシアが微笑んでいる。
思えば、あの頃は今よりもずっと内気で――たびたび、ヨクトシアが気にかけてくれた。ふたりで遠乗りや鷹狩りに出掛けたのも、一度や二度の話ではない。
ぱらぱらと頁を捲り、最後にまで行き着くと、そこにも一枚の写真が綴じられていた。見慣れた中庭の噴水を前に、三つの影。ヨクトシアとその影に隠れる自分と、遠巻きに佇むイェルド。しかめ面をする兄の姿を、ユリアナは食い入るように見つめた。
「お前がどう思っているかは分からないが、ユリアナ、俺はお前を恨んではいない。……イェルドの死はさだめだった。義父の死はそれが俺のなすべきことだったからだ。そういう風に言うとお前はまた気に病むのかもしれないが、たぶん、今後、そういうことは沢山起きる」
家族写真を握っていない方のユリアナの手を取って、白い人工皮膚をやんわりと撫でる。
「気にするな、とまでは言わないが。俺はお前を大切に思って傍にいるということだけは、きちんと知っておいてくれ」
「……ヨクトシア」
ぎゅっと握り込まれた手から目線を上げるが、まっすぐに見返すのも気恥ずかしい気がして顔を背ける。くすりと笑い声が聞こえたのに頬を染めて、ありがとう、と小声で呟いた。
「それとアルバムを出していたのは、この前撮ったこれを綴じておこうと思ってたんだ」
ヨクトシアが懐から取り出した写真には見覚えがあった。先日、誕生日の祝いに三人で撮ったものだ。嫌がるクラエスを捕まえ、男ふたりに挟まれて、柄にもなく嬉しそうに笑う自分の顔を見つけて、ユリアナは目を細めた。
息子の死に心をわずらい、ついには故郷に戻った母の字で書かれた背表紙の年次は数年前で止まっている。
その最新の一冊を手に取って、ヨクトシアが丁寧に写真を綴じた。優しい手つきに、ユリアナの心はやわらいだ。
「これも家族写真なの?」
「さあ、どうだろうな。でもまあ、似たようなものだろう」
そうね、と頷き返した。近くでにゃあという猫の鳴き声が聞こえ、ユリアナは出入り口を振り返った。
「クラエス」
「……二人揃って、埃まみれですよ。みっともない」
三毛猫が横を通り過ぎてゆく。いつ現れたのか、戸口に寄りかかった格好でクラエスは肩を竦めた。
「私はお腹が空きました。昼飯の時間もとうに過ぎているのに、何をしているのかと見にきたら……」
「ああ、すみません。つい話し込んでいたんですよ。ユリアナ、お昼ご飯は何がいい?」
すっくと立ち上がったヨクトシアが、てきぱきとアルバムを本棚に入れて行く。あのとき部屋中に埃が充満していたのは、分かりやすい位置にアルバムをしまうためにスペースを整理していたのだと理解して――ユリアナはくすりと笑った。
「何でもないわ。それよりクラエス、午後は遠乗りに行くわよ。せっかくの長期休暇なんだもの、ちょっとくらいは遊びたいわ」
「それは、ふたりで?」
「三人揃ってよ。むかし、ヨクトシアが連れて行ってくれた場所があるの。砂漠を歩いた先にある古代遺跡がね。そこに行きたいわ」
「はいはい。それならラクダを借りておきましょう、お姫様のためにね」
嫌味っぽい口調なのにふしぎと嫌悪感はなく、ユリアナはよろしくね、と微笑んだ。
そして手に持った写真をそっと握りしめると、元のアルバムに挟み込んだ。




