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ピラミッドの底で、神はまだ眠っている  作者: Futahiro Tada
第5章 名前のない夜明け

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5:名前を記す朝

5:名前を記す朝


 最後に、名を記せ。

 保管室の門に浮かび上がったその言葉は、命令というより、静かな願いに近かった。

 黒い太陽は、もう叫んでいなかった。

 誰かを聞き手にしようとも、器を求めようともしていなかった。

 王の座は空になり、声は少しずつ名前へ帰り始めている。

 それでも、すべてが終わったわけではない。

 名を失った人々のすべてが戻ったわけではない。

 水路に沈んだ声のすべてが、ふたたび名前を得たわけではない。

 小さな夜明けの本当の名も、まだわからない。

 けれど、流れは変わった。

 声はもう、一人の聞き手に集まるものではない。

 誰か一人を器にして、永遠に閉じ込めるものではない。

 声は水路を通り、井戸を抜け、名前へ帰る道を持ち始めていた。

 蓮たちは、保管室の机を片づけ、そこに白い紙を広げた。

 ホテルの地下に置かれた、どこにでもある事務用の長机。

 蛍光灯の光。

 ペン。

 ノート。

 記録端末。

 そして、セティの名前の石。

 その白い石は、以前よりも穏やかに光っていた。

 セティ。

 カーエムセト。

 小さな夜明け。

 三つの名が刻まれている。

 その周囲には、まだ読めない細い線が無数に浮かんでいた。まるで、これから記されるべき名前たちのために、石そのものが余白を残しているようだった。

 ナディア・ハッサンは、最初にペンを取った。

 彼女は紙の一番上に、丁寧な字で書いた。

 アケト・ドゥアト。

「地下都市の名です」

 彼女は静かに言った。

「地平の冥界。夜明けと死の境界にある都市。歴史に残らなかった都市。でも、存在しなかったわけではない」

 黒瀬玄が、その横でカメラを構えた。

「撮ります」

 ナディアは頷いた。

 シャッター音が、小さく響く。

 それは、神殿の壁に名前を刻む儀式とは違う。

 声を閉じ込めるための記録ではない。

 忘れないための記録だった。

 次に、蓮がペンを取った。

 紙の中央に、ゆっくりと書く。

 セティ。

 その名前を書いた瞬間、セティが少し肩を震わせた。

 彼は机の向こう側に立っていた。半透明の体はまだ完全な人間のものではない。けれど、朝の光を受けて、以前よりもずっとはっきりしている。

 蓮は顔を上げた。

「君の名前」

 セティは、紙に書かれた文字をじっと見つめた。

「僕の……」

「うん」

 セティは指で、その文字に触れようとした。

 指先は紙をすり抜けなかった。

 薄く触れた。

 セティは目を見開く。

「触れる」

 その声は、子どものようだった。

 蓮は胸が熱くなるのを感じた。

 セティは何千年も声として、器として、封印として扱われてきた。

 だが今、彼の名前は紙に記され、彼自身の指がそれに触れている。

 たったそれだけのことが、どんな王の宝より尊いものに思えた。

 ナディアが静かに言った。

「セティ。あなたは黒い太陽の器ではありません。地下都市の記録の一部でも、王の道具でもありません。あなたは、セティです」

 セティは頷いた。

「うん」

 その一言だけだった。

 けれど、その一言には、長い長い地下の時間を抜けた響きがあった。

 次に、マーカス・リードがペンを取った。

 彼は少し迷ってから、英語で書いた。


 Little Dawn.


 その下に、ナディアがアラビア語で近い意味の言葉を書き添える。蓮は日本語で書いた。

 小さな夜明け。

 黒瀬が、小さな声で言った。

「本当の名前じゃなくても、ちゃんと呼び名ですよね」

 マーカスは頷いた。

「彼の母が呼んだ名です。それだけで、十分に本物です」

 彼の声は震えていた。

 マーカスにとって、小さな夜明けはただの古い記録ではなかった。曾祖父が守れなかった名。リード家に残った黒い空白。子どもの頃から彼の夢に出てきた、名前のない少年。

 その少年は、完全な本名を取り戻したわけではない。

 けれど、母の呼び声へ帰った。

 それは、完璧な救済ではないかもしれない。

 だが、声のまま井戸の底で泣き続けるより、ずっと人間らしい帰り方だった。

 マーカスはさらに書き足した。


 He had a name. He was loved.


 彼には名前があった。

 彼は愛されていた。

 蓮はその文を見て、胸が詰まった。

 名前とは、記号だけではない。

 誰かが呼んだこと。

 誰かが待ったこと。

 誰かが失って泣いたこと。

 それもまた、名前の一部なのだ。


     *


 最後に、カーエムセトの名を書いた。

 ペンを持ったのは、カーエムセト自身だった。

 彼の体は、かなり薄くなっている。王の座を空にしたことで、彼は地上に長く留まれないのだと、全員が感じていた。

 それでも彼は、震える手でペンを握った。

 古代の少年にとって、現代のペンは奇妙な道具だっただろう。彼はしばらくそれを見つめ、ナディアに持ち方を教えられながら、ゆっくり紙に線を引いた。

 文字は拙かった。

 蓮たちの書く文字とは違う、古い記号のような形。

 けれど、蓮には意味がわかった。

 カーエムセト。

 王名ではない。

 ネフェル=カーではない。

 王冠をかぶる前、声の座に縛られる前、母に呼ばれた名。

 それを書き終えた瞬間、カーエムセトは深く息を吐いた。

「軽い」

 彼は呟いた。

 セティが隣で彼を見ている。

 カーエムセトはその視線に気づき、少しだけ気まずそうに目を伏せた。

「セティ」

「うん」

「私は、お前の時間を奪った」

 セティは黙っていた。

 カーエムセトは続けた。

「謝っても、返らない」

「うん」

「許してほしい、と言う資格もない」

「うん」

 セティの声は静かだった。

 カーエムセトは、ゆっくり頭を下げた。

「それでも、言わせてほしい。すまなかった」

 保管室に沈黙が落ちた。

 ナディアも、黒瀬も、マーカスも、何も言わなかった。

 それは、二人の間にある沈黙だった。

 セティは長く黙っていた。

 怒っているのか。

 泣いているのか。

 赦すのか。

 拒むのか。

 蓮にもわからなかった。

 やがて、セティは小さく言った。

「僕は、まだ全部は許せない」

 カーエムセトは頷いた。

「それでいい」

「でも、もう王様とは呼ばない」

 カーエムセトが顔を上げる。

 セティは、紙に書かれた名前を見た。

「カーエムセト」

 その名を呼ばれた瞬間、カーエムセトの体が柔らかく光った。

 彼は目を閉じた。

 まるで、ずっと探していた眠りの入口を見つけたようだった。

「ありがとう」

 カーエムセトは言った。

「それだけで、十分だ」


     *


 保管室の門は、少しずつ変化していた。

 最初は巨大な黒い門だった。

 黒い太陽の印を中央に持ち、六つの石片を求め、地下へ誘う入口だった。

 今は違った。

 門の表面の黒さが薄れ、石の色が見えている。六つのくぼみも、深い穴ではなく、浅い模様のようになっていた。

 黒い太陽の印はまだ残っている。

 だが、その中心には目がない。

 ただ、細い水路のような線が通っている。

 黒い太陽は、通り道になった。

 蓮はその門を見つめた。

 ここからすべてが始まった。

 未知の地下構造。

 黒い石片。

 セティの声。

 マーカスの欲望。

 ナディアの祖母の記憶。

 黒瀬の恐怖。

 ネフェル=カーの王の座。

 小さな夜明けの涙。

 どれも、もう終わった過去ではない。

 記録し、呼び続けるべき名前だった。

 ナディアは、広げた紙を見ながら言った。

「この記録を、どう扱うべきか考えなければなりません」

 黒瀬が頷いた。

「動画データもあります。でも、全部公開したら大変なことになりますよね」

 マーカスは静かに言った。

「少なくとも、利用してはいけない。財団の資産にも、研究者の功績にも、見世物にもしてはいけない」

 かつてのマーカスなら、まず発見の価値を語っただろう。

 人類史を変える発見だと。

 古代文明の真実だと。

 死者の声を記録する技術だと。

 だが今の彼は、そう言わなかった。

 ナディアは彼を見た。

「それを、あなたが言うのですね」

 マーカスは苦く笑った。

「だからこそ、言わなければならないのでしょう。私は一度、声を所有しようとした。だから、所有してはいけないとわかります」

 蓮は頷いた。

「でも、完全に隠してしまうのも違う気がします」

「ええ」

 ナディアは紙の名前を見た。

「閉じ込めるためではなく、忘れないために記録する。その方法を考えます。学術的な扱いも、慎重でなければなりません。証拠として出せないものも多いでしょう。けれど、物語として、記録として、名前を残す方法はあるはずです」

 黒瀬が小さく笑った。

「物語、ですか」

 蓮はその言葉に反応した。

 物語。

 それは、真実を完全に説明するものではない。

 だが、名前を呼び続けるための器にはなるかもしれない。

 黒い太陽の神殿は、声を閉じ込めた。

 ならば地上では、声を閉じ込めるのではなく、名前を思い出すために語る。

 その違いが大切なのだ。

 セティが紙の上の自分の名前を見つめたまま言った。

「僕、物語になるの?」

 蓮は少し考えてから答えた。

「なるかもしれない。でも、ただの怪談にはしない」

「怪談?」

「怖い話」

 セティは少し首を傾げた。

 黒瀬が言った。

「まあ、めちゃくちゃ怖かったですけどね」

 その言葉に、初めて全員が少し笑った。

 長い間、張りつめていた空気が、ほんの少しだけ緩む。

 セティも、意味が完全にはわからないまま、小さく笑った。

 その笑顔を見て、蓮は思った。

 これでよかったのだと。

 すべてが完全に解決したわけではない。

 小さな夜明けの本名も、まだ見つかっていない。

 水路に残る名のすべても、帰ったわけではない。

 地下都市が今後どうなるのかもわからない。

 それでも、セティが笑った。

 それだけで、この長い地下の旅には意味があった。


     *


 カーエムセトの姿が、少しずつ薄れていった。

 それは突然ではなかった。

 朝の光に溶ける霧のように、ゆっくりと、静かに。

 彼は慌てなかった。

 むしろ、自分の体が薄れていくのを、穏やかに受け入れているようだった。

「眠るのですか」

 ナディアが尋ねる。

 カーエムセトは頷いた。

「たぶん」

「怖いですか」

 少し考えて、彼は答えた。

「少し」

 その正直な答えに、セティが彼の手を握った。

 今度はセティの方からだった。

「一人じゃない」

 カーエムセトは驚いたようにセティを見た。

 セティは視線を逸らしながら言った。

「今だけ」

「十分だ」

 カーエムセトは微笑んだ。

 彼は蓮たちを順番に見た。

「蓮」

「はい」

「お前は、役目ではなかった」

 蓮は息を止めた。

「最後まで、名であろうとした。それが、私にはできなかった」

「僕も、一人では無理でした」

 蓮は答えた。

「みんなが呼んでくれたからです」

 カーエムセトは頷いた。

「なら、その名を大事にしろ」

 次に、ナディアを見る。

「ナディア」

「はい」

「お前は記録する者だ。だが、記録に魂を閉じ込めるな」

「はい」

「忘れないことと、縛ることを間違えるな」

 ナディアは深く頷いた。

「忘れません」

 黒瀬を見る。

「玄」

 黒瀬は少し背筋を伸ばした。

「はい」

「お前は怖がった」

「はい、ずっと怖かったです」

「それがよい」

 カーエムセトは少し笑った。

「怖がる者は、神になろうとしない」

 黒瀬は照れたように頭を掻いた。

「それ、褒められてますよね」

「たぶん」

 最後に、マーカスを見る。

「マーカス」

 マーカスは真剣な顔で頷いた。

「はい」

「声を欲した者よ」

「はい」

「欲したことを忘れるな。忘れれば、また欲する」

 マーカスは目を伏せた。

「覚えておきます」

「お前は、声を所有しようとした。だが最後に、名を返す方を選んだ」

 カーエムセトは静かに言った。

「その選択も、忘れるな」

 マーカスは答えた。

「忘れません」

 カーエムセトの体が、さらに薄くなる。

 セティが彼の手を強く握る。

「カーエムセト」

「セティ」

 ふたりは、しばらく見つめ合った。

 長い時間の中で、奪った者と奪われた者。

 王と器。

 声を聞く者と、聞かされた者。

 その関係が、すべて解けたわけではない。

 だが最後に、二人は名前で呼び合った。

 それだけで、王の座は本当に空になったのだと、蓮にはわかった。

 カーエムセトは、最後に小さく言った。

「おやすみ」

 セティが答えた。

「おやすみ」

 その瞬間、カーエムセトの姿は朝の光のようにほどけ、白い石の中へ吸い込まれていった。

 石の表面に、カーエムセトの名が静かに光る。

 眠ったのだ。

 消えたのではなく。

 たぶん、眠ったのだ。


     *


 それから、保管室の門は閉じ始めた。

 大きな音はなかった。

 石が崩れることも、空間が裂けることもなかった。

 ただ、そこにあった古代の門が、ゆっくりと壁へ戻っていく。黒い太陽の印は薄れ、六つのくぼみは消え、最後には普通のコンクリートの壁が残った。

 最初に蓮が見た、何の変哲もないホテル地下の壁。

 けれど、蓮たちは知っている。

 その向こうに、地下都市があった。

 黒い太陽の神殿があった。

 名の井戸があった。

 声が名前へ帰る水路が、今も静かに流れている。

 壁が完全に戻ったあと、床の上に六つの黒い石片が残っていた。

 黒い太陽。

 舟。

 膝をつく者。

 目。

 水路。

 門。

 しかし、それらはもう以前のような冷たさを持っていなかった。黒い表面は少し灰色がかり、光を吸い込む力も弱くなっている。

 そして、その隣に白い石があった。

 セティの名前の石。

 蓮がそれを拾い上げると、セティが隣に立った。

「それ、どうなるの?」

「わからない」

 蓮は正直に答えた。

「でも、君の名前だから、大切に保管する」

「僕は?」

 その問いに、蓮は言葉を失った。

 セティは、完全に地上へ戻ったわけではない。彼の体はまだ半透明で、朝の光の中で揺れている。地下から完全に切り離されたのか、名前の石を通じてこちらに留まっているのか、わからない。

 ナディアが静かに言った。

「しばらくは、名前の石の近くにいるのかもしれません」

「じゃあ、僕は石なの?」

 セティが不安そうに尋ねる。

 蓮は首を横に振った。

「違う。君はセティだ。石は、君の名前を覚えているだけ」

 セティはその言葉を考えるように、白い石を見た。

「名前を覚えているだけ……」

 黒瀬が言った。

「しばらくは、俺たちと一緒にいればいいんじゃないですか。半透明ですけど」

 セティは黒瀬を見る。

「玄は、怖くないの?」

「怖いですよ」

 黒瀬は即答した。

「でも、もう慣れました。いや、慣れてはいないですけど、セティは怖い存在じゃないので」

 セティは少し笑った。

「玄は、変」

「よく言われます」

 蓮は、そのやり取りを見て小さく笑った。

 セティが地上でどう存在していくのかは、まだわからない。

 もしかしたら、いつか白い石の中で静かに眠るのかもしれない。

 もしかしたら、しばらく蓮たちのそばで、名前を持ったまま地上の景色を見るのかもしれない。

 どちらにしても、もう彼は一人ではない。

 それだけは確かだった。


     *


 数日後、蓮たちはギザを離れる準備をしていた。

 公式な調査報告は、慎重な表現でまとめられた。未知の地下構造に関する異常なデータ、レーダー反応、映像資料、石片の分析。すべてをそのまま発表することはできない。信じる者も、利用しようとする者も、必ず現れるだろう。

 だからナディアは、段階的な調査報告と、保存を目的とした非公開アーカイブを提案した。

「これは、人類史を変える発見です」

 かつてなら、マーカスがそう言っただろう。

 だが今、彼は言わなかった。

 代わりに、こう言った。

「これは、人類が慎重に扱うべき記憶です」

 その言葉に、ナディアは頷いた。

 マーカスは財団へ戻ったあと、発掘資金の管理体制を変えるつもりだと言った。個人の野心や財団の利益のためではなく、現地研究者と文化財保護を中心にした仕組みへ改めると。

 どこまで実現できるかはわからない。

 けれど、少なくとも彼の掌から聞き手の印は消えていた。

 完全に。

 黒瀬は、撮影データを何重にも保存しながら言った。

「この映像、どう編集すればいいんですかね。全部本当なのに、全部嘘みたいです」

 蓮は答えた。

「すぐに作品にはできないかもしれませんね」

「でも、いつか必要になると思います」

 黒瀬は真面目な顔で言った。

「名前を残すための記録として」

 ナディアは、アケト・ドゥアトの名をノートに書き続けていた。地下都市の構造、王名、名の井戸、セティの石、カーエムセト、小さな夜明け。学術記録として整理しながらも、彼女は何度も同じ言葉を書いた。

 閉じ込めるためではなく、忘れないために。

 蓮はその言葉を見て、自分のノートにも同じ文を書いた。


     *


 帰国の日の朝、蓮はもう一度だけ屋上へ上がった。

 セティも一緒だった。

 彼の姿は、以前よりさらに淡くなっている。けれど、不安な感じはなかった。むしろ、朝の光に馴染んでいるように見えた。

 ピラミッドの向こうから、太陽が昇る。

 それは、あの日と同じ夜明けだった。

 けれど、蓮にはまったく違って見えた。

 地下で見た黒い太陽は、声を集め、人を縛り、名前を奪った。

 地上の太陽は、何も求めない。

 ただ昇る。

 そのただ昇るということが、こんなにも静かで強いのだと、蓮は初めて知った気がした。

 セティは朝日を見つめていた。

「蓮」

「うん」

「僕、少し眠くなってきた」

 蓮は彼を見る。

「怖い?」

 セティは少し考えた。

「前より、怖くない」

「そっか」

「でも、また起きられる?」

 その問いに、蓮はゆっくり答えた。

「名前があるから」

 セティは蓮を見る。

「僕の名前を、呼んでくれる?」

「うん」

 約束は石になる。

 その言葉が頭をよぎる。

 だから蓮は、言葉を選んだ。

「忘れない。呼べる時に、呼ぶ」

 セティは笑った。

「それでいい」

 朝日が、彼の体を透かす。

 セティの姿が、光の中でさらに淡くなる。

 蓮は胸が苦しくなった。

 行かないでほしいと思った。

 せっかく地上に出たのに。

 せっかく夜明けを見たのに。

 でも、セティはもう器ではない。

 蓮の願いで、彼を地上に縛ってはいけない。

 セティは眠りたい時に眠り、起きたい時に起きられる名前を持ったのだ。

「蓮」

「うん」

「ありがとう」

 蓮は首を横に振った。

「僕も、ありがとう」

「何が?」

「君が名前を呼んでくれたから、僕も戻れた」

 セティは少し不思議そうにして、それから笑った。

「蓮」

「セティ」

 二人は名前を呼び合った。

 それだけでよかった。

 セティの姿は朝の光に溶けるように薄くなり、やがて白い石の中へ静かに戻っていった。

 蓮の手の中で、石は温かかった。

 眠ったのだ。

 消えたのではない。

 蓮はそう思った。


     *


 帰りの飛行機の中で、蓮はノートを開いた。

 窓の外には雲が広がっている。

 地上の砂漠も、ピラミッドも、地下都市も、もう見えない。

 けれど、蓮の手元には白い石がある。厳重に包み、ナディアと相談した保管方法で持ち帰ることになった。正式な研究資料としてどう扱うかは、これから慎重に決める。

 蓮はノートの最初のページに、改めて名前を書いた。

 セティ。

 カーエムセト。

 小さな夜明け。

 アケト・ドゥアト。

 名前を失った人々。

 そして、その下にこう書いた。

 あなたには名前があった。

 蓮はペンを止めた。

 小説でも、研究記録でも、調査報告でもない。

 まだ形は決まっていない。

 けれど、いつか書かなければならないと思った。

 地下に眠る巨大な謎の話としてではなく。

 黒い太陽という怪異の話としてだけでもなく。

 名前を奪われた人々が、もう一度名前へ帰ろうとした話として。

 蓮は、最後に自分の名前を書いた。

 篠原蓮。

 その名前を見て、胸の奥が静かになる。

 自分は聞き手ではない。

 器ではない。

 黒い太陽を持つ者という役割だけでもない。

 自分は蓮だ。

 名前を持つ者として、名前を忘れないために書く。

 雲の上で、朝の光が窓から差し込んでいた。

 蓮は白い石にそっと触れた。

 かすかに温かい。

 遠くで、水が流れるような音がした気がした。

 それはもう、誰かを呼び込む声ではなかった。

 名前へ帰る音だった。

 蓮は目を閉じた。

 黒い太陽は、もう神ではない。

 王の座は空になった。

 小さな夜明けは母の呼び声へ帰り、カーエムセトは眠り、セティは名前を持って朝の光を見た。

 そして蓮たちは地上へ戻った。

 すべてが完全に終わったわけではない。

 けれど、夜明けは来た。

 名前のない夜に、小さな光が差した。

 それで、物語は終わる。

 いや、終わるのではない。

 ここからは、名前を呼び続ける時間が始まるのだ。


〈了〉

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