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ピラミッドの底で、神はまだ眠っている  作者: Futahiro Tada
第5章 名前のない夜明け

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4:王の座を空にする

4:王の座を空にする


 夜明けを見たあとに降りる地下は、以前よりも深く感じられた。

 ホテルの屋上で見た空の青さが、まだ目の奥に残っている。ピラミッドの輪郭を金色に照らした朝日。砂漠の風。遠くで目覚め始める街の音。セティが初めて見上げた空。カーエムセトが王ではない名で迎えた朝。

 そのすべてを胸に残したまま、蓮たちは再び保管室の前に立っていた。

 扉の向こうから、低い音が響いている。

 ゴォン。

 ゴォン。

 黒い太陽の鼓動。

 いや、もう鼓動と呼べるほど整ってはいなかった。以前は一定の間隔で深く鳴っていた音が、今は乱れている。速くなったり、途切れたり、思い出したように強く鳴ったりする。

 黒い太陽は、不安定になっていた。

 聞き手を失い、器を失い、王の名を揺さぶられ、名前のない少年――小さな夜明けの呼び声を返された。声の集合体は、自分の形を保とうとしている。だが、集まっていた声が少しずつ名前へ戻り始めたことで、その中心は崩れかけていた。

 だからこそ、危険だった。

 崩れかけたものは、最後に最も強くしがみつく。

 ナディア・ハッサンは、保管室の扉の前で全員を見た。

「これが最後になるかは、わかりません」

 その言い方が、慎重で、彼女らしかった。

「けれど、今日の目的は明確です。王の座を空にする。ネフェル=カーとして固定された王の名を井戸へ返し、黒い太陽が一人の聞き手を中心に声を集める構造を終わらせる」

 黒瀬玄が、名前の紙を握りながら頷いた。

「つまり、黒い太陽を壊すんじゃなくて、声の通り道に変えるんですよね」

「はい」

 ナディアは頷いた。

「壊すだけなら、残った声がまたどこかに集まるかもしれません。封じるだけなら、同じことの繰り返しです。声を名前へ返す流れを作る必要があります」

 マーカス・リードは、自分の掌を見つめていた。

 聞き手の印はほとんど消えかけている。だが、朝日を見たあとも、完全には消えなかった。薄い黒線が皮膚の奥に沈むように残っている。

「黒い太陽は、最後に抵抗するでしょう」

 彼は言った。

「私、ナディア、篠原さん。誰かを聞き手にしようとするかもしれない。あるいは、全員をまとめて声に接続しようとするかもしれません」

 黒瀬が顔をしかめた。

「全員まとめては、本当に困ります」

「だから、名前を呼び続けます」

 蓮は答えた。

 その腕には、セティの手が添えられている。

 セティは地上へ戻ってから、以前よりも存在が濃くなっていた。それでも、まだ完全な人間ではない。輪郭は時折揺れ、強い光の中では透けて見える。だが、彼はもう神殿の幻ではなかった。

 黒い太陽の器でもない。

 名前を持った、一人の少年だった。

 カーエムセトは、保管室の壁際に立っていた。

 王冠はない。黒い衣も、いつの間にか薄れている。代わりに、簡素な白い布をまとった少年の姿に近づいていた。セティより少し年上に見える。だが、その目には長い時間の疲れがあった。

「王の座を空にするには」

 カーエムセトが静かに言った。

「私が玉座へ戻らなければならない」

 セティがすぐに彼を見た。

「戻ったら、また王になってしまうんじゃないの」

「だから、戻って降りる」

 カーエムセトは答えた。

「逃げたままでは、座は空にならない。私は王としてそこに縛られていた。ならば、最後に自分で降りなければならない」

 蓮は彼の言葉を聞きながら、胸の奥が重くなった。

 戻って、降りる。

 それは簡単なようで、最も難しいことだ。

 自分を縛っていた場所へ戻る。

 もう一度その役割を見つめる。

 そして、自分の意思で手放す。

 カーエムセトにとって、王の座は罪であり、責任であり、恐怖であり、存在そのものだった。それを手放せば、彼がどうなるのかはわからない。

 眠るのか。

 消えるのか。

 名前として残るのか。

 誰にもわからない。

 ナディアが静かに言った。

「一人では戻しません」

 カーエムセトは彼女を見る。

「あなたが王の座を降りる瞬間、私たちは名前を呼びます。王としてではなく、カーエムセトとして」

 黒瀬が紙を掲げた。

「名前リストにも大きく書きました。カーエムセト。見失いません」

 マーカスも言った。

「私は、あなたを継ぎません。あなたの座を受け取りません」

 その言葉は重要だった。

 黒い太陽は、空いた中心に誰かを据えようとする。カーエムセトが降りれば、マーカスを座らせようとするかもしれない。あるいはナディアを。蓮を。

 だから、全員が拒む必要があった。

 セティはカーエムセトのそばへ歩み寄った。

「僕も呼ぶ」

 カーエムセトは目を伏せた。

「お前に呼ばれる資格が、私にあるのか」

 セティはしばらく黙っていた。

 それから、静かに言った。

「わからない」

 その正直な答えに、カーエムセトは顔を上げた。

 セティは続けた。

「僕は、まだ怒っていると思う。悲しいし、怖い。あなたのせいで、僕はずっと声を聞いていた。でも……あなたも怖かったことを知った」

 カーエムセトの顔が歪む。

「それで許せるのか」

「まだ、わからない」

 セティは言った。

「でも、名前は呼べる。許すためじゃなくて、あなたを王のままにしないために」

 その言葉に、カーエムセトは目を閉じた。

 やがて、小さく頷いた。

「それでいい」

 蓮は白い石を胸元にしまった。

 そこには、三つの名が刻まれている。

 セティ。

 カーエムセト。

 小さな夜明け。

 小さな夜明けの本当の名は、まだ戻っていない。けれど、彼は母の呼び声へ帰った。完全な答えでなくても、帰れる場所があることを示してくれた。

 今度は、カーエムセトの番だった。

 蓮は深く息を吸った。

「行きましょう」


     *


 門は、蓮たちが六つの石片を嵌める前から開き始めた。

 まるで待ちきれないように、黒い太陽が沈み、石の門が内側へ折りたたまれていく。奥には神殿が見える。だが、その姿は前回とは違っていた。

 列柱室は暗くない。

 むしろ、壁中の名前が淡く光っていた。

 声が名前へ戻ろうとしている。

 だが、その光は安定していない。点滅し、滲み、時には黒い染みへ戻りかける。名前の光と黒い太陽の闇が、神殿全体でせめぎ合っているようだった。

 ナディアが低く言った。

「急ぎましょう。構造が不安定です」

 黒瀬は機材を最小限にし、名前の紙を首から下げていた。

「今回は撮影より読み上げ優先でいきます」

「お願いします」

 五人と二人の古代の少年――いや、セティとカーエムセトを含めた七つの名が、神殿へ入った。

 蓮。

 ナディア。

 玄。

 マーカス。

 セティ。

 カーエムセト。

 小さな夜明け。

 小さな夜明けは姿としてはここにいない。

 けれど、白い石の中に呼び名がある。

 それだけで、彼も共にいるように感じられた。

 列柱室を進むと、壁がざわめいた。

 記憶を食べる壁は、最後の力を振り絞るように、いくつもの場面を映し出してくる。

 セティが舟に乗せられる場面。

 カーエムセトが王冠をかぶせられる場面。

 マーカスが黒い太陽を見上げる場面。

 ナディアが祖母の昔話を聞く場面。

 黒瀬が実家の玄関で鍵を探している場面。

 蓮が初めて黒い太陽の印を掌に見た場面。

 それぞれの記憶が、壁から手を伸ばす。

 戻れ。

 見ろ。

 思い出せ。

 忘れるな。

 名前を置いていけ。

 黒瀬が声を張った。

「蓮! ナディア! 玄! マーカス! セティ! カーエムセト! 小さな夜明け! 名前を失った人! あなたには名前があった!」

 名前の声が、壁の記憶を押し戻す。

 完全には消えない。

 だが、飲み込まれずに進める。

 王の間へ続く扉は、崩れていた。

 耳と口の像は粉々になり、石片が床に散っている。その石片の一つ一つにも小さな名前が浮かんでいた。門番としての役割を失い、ただの石へ戻り始めているのかもしれない。

 王の間に入ると、黒い太陽が見えた。

 半眼。

 完全に開いてはいない。完全に閉じてもいない。

 その中途半端な状態が、かえって恐ろしかった。見ようとすれば見えてしまう。避けようとしても、視界の端に入り込む。

 玉座は、空ではなかった。

 そこには、ネフェル=カーが座っていた。

 王冠は砕けているはずだった。だが、再び頭に載っている。黒い太陽が、王としての姿を彼に被せ直したのだろう。冠はひびだらけで、ところどころ欠けている。それでも王冠だった。

 カーエムセトの身体が震えた。

 玉座に座る王は、カーエムセトと同じ顔をしていた。

 つまり、それは彼自身の残像だった。

 王としての記憶。

 役割としてのネフェル=カー。

 声の座を保とうとする、最後の形。

 玉座の王が口を開いた。

「戻ったか、私よ」

 カーエムセトが一歩後ずさる。

 蓮が彼の名前を呼んだ。

「カーエムセト」

 ナディアも。

「カーエムセト」

 セティも、小さく。

「カーエムセト」

 少年は踏みとどまった。

 玉座の王は笑った。

「その名は弱い。王の名は強い。ネフェル=カー。美しき魂。声を聞く王。都市を保つ者。死者と生者をつなぐ者。お前はそれを捨てるのか」

 カーエムセトは震えながら答えた。

「捨てるのではない」

「では何だ」

「返す」

 王の顔が歪んだ。

「返せば、何も残らぬ」

「残るものを、私は見た」

 カーエムセトは言った。

「朝日を見た。王でなくても、光はあった」

 その言葉に、王の間が静まり返った。

 黒い太陽の半眼が、かすかに揺れる。

 王が低く言った。

「光は、死者を覚えぬ」

「でも、生きている者が覚える」

 ナディアが言った。

「私たちは記録します。閉じ込めるためではなく、忘れないために」

 マーカスも前に出た。

「そして、あなたを継ぎません。あなたの座に座りません。黒い太陽の聞き手にはなりません」

 王はマーカスを見る。

「お前は望んだはずだ」

「望みました」

 マーカスは言った。

「だから、いま拒みます」

 王は次に蓮を見た。

「蓮。お前は救いたいはずだ。救うためなら、自分を差し出せると、どこかで思ったはずだ」

 蓮は息を呑む。

 胸の奥を正確に突かれた。

 セティを救うためなら。

 誰かを助けるためなら。

 その美しい物語に、自分を重ねかけた瞬間があった。

 だが蓮は、名前を呼ばれてきた。

 ナディアに。

 玄に。

 マーカスに。

 セティに。

「思いました」

 蓮は正直に言った。

「でも、今は選びません。僕は聞き手にならない。誰かを聞き手にもしない」

 王は黒瀬を見た。

「玄。お前は恐れている」

「はい!」

 黒瀬は即答した。

「めちゃくちゃ怖いです。だから、たぶん正常です」

 王が一瞬、言葉を失ったように見えた。

 黒瀬は続けた。

「怖いから、誰か一人に押しつけるのは違うってわかります。俺は王にも器にもなりません。記録はします。でも閉じ込めません」

 王の表情が歪む。

 ナディアが静かに言った。

「ネフェル=カー。あなたの名を返します」

 王が叫んだ。

「その名は私だ!」

 カーエムセトが一歩前へ出る。

「その名は、私の一部だった」

 王の声が止まる。

「でも、全部ではない」

 カーエムセトは玉座へ向かって歩き出した。

 黒い太陽が強く震える。

 半眼が開こうとする。

 ナディアが叫ぶ。

「視線を落として!」

 全員が目を伏せる。

 それでも、目の圧力は体の中へ入り込む。

 聞け。

 座れ。

 継げ。

 背負え。

 中心になれ。

 黒瀬が紙を読み上げる。

「蓮! ナディア! 玄! マーカス! セティ! カーエムセト! 小さな夜明け! あなたには名前があった!」

 その声に支えられ、カーエムセトは玉座の前に立った。

 玉座の王が、彼を見下ろす。

「戻れ、私よ」

「戻らない」

「王であれ」

「もう、王でなくていい」

「ならば、何になる」

 カーエムセトは少しだけ振り返った。

 セティを見た。

 蓮たちを見た。

 そして、まだ見えない朝日の方角を見るように、遠くを見た。

「名前になる」

 彼は言った。

 その瞬間、カーエムセトは玉座に触れた。


     *


 玉座が割れた。

 石が砕ける音ではなかった。

 記憶が裂ける音だった。

 王の間に、無数の場面が一斉に広がる。

 幼いカーエムセトが、母親に名前を呼ばれる。

 声が怖いと泣く。

 人々が彼に祈る。

 王冠をかぶせられる。

 死者の声を聞く。

 民に感謝される。

 声が増える。

 眠れなくなる。

 水路を開く。

 黒い太陽の神殿を築く。

 セティを見つける。

 セティを器にする。

 後悔する。

 しかし王として後悔を封じる。

 王の座に座り続ける。

 声を聞き続ける。

 自分が王であることだけを最後の支えにする。

 それらが、蓮たち全員へ流れ込んできた。

 重い。

 あまりにも重い。

 蓮は膝をつきそうになった。

 王を責めるのは簡単だった。

 だが、その中には確かに救おうとした瞬間もあった。民を思う心もあった。恐怖も、孤独も、後悔もあった。

 だからこそ、間違いは重かった。

 善意が混じっている間違いほど、ほどくのは難しい。

 セティが叫んだ。

「カーエムセト!」

 カーエムセトの身体が玉座に吸い込まれかけていた。

 王としての記憶が、彼を戻そうとしている。

 蓮も叫ぶ。

「カーエムセト!」

 ナディアが。

「カーエムセト!」

 黒瀬が。

「カーエムセト!」

 マーカスが。

「カーエムセト!」

 名前の呼び声が、玉座に絡みつく黒い影を少しずつ剥がしていく。

 玉座の王――ネフェル=カーの残像が、声を上げた。

「私は消えたくない!」

 その声は、王の威厳ではなかった。

 子どもの叫びだった。

 カーエムセトは涙を流していた。

「消えない」

 彼は自分自身に言うように呟いた。

「名前に戻るだけだ」

「王でなければ、誰も覚えぬ!」

「覚えてもらうために、誰かを縛らない」

 カーエムセトは玉座に両手を置いた。

「ネフェル=カーの名を、井戸へ返す」

 黒い太陽が絶叫した。

 半眼が大きく開きかける。

 蓮は右手に黒い太陽の印が浮かぶのを感じた。

 ナディアの耳の印も黒くなる。

 マーカスの掌も。

 最後の抵抗。

 黒い太陽は、三人のうち誰かを中心にしようとしている。

 いや、三人全員をつなげ、聞き手として固定しようとしている。

 蓮の耳に声が流れ込む。

 聞け。

 お前なら救える。

 お前なら耐えられる。

 お前なら美しく終われる。

 それは、蓮の中の弱さを突く声だった。

 自分を差し出せば、物語として美しい。

 誰かを救うために犠牲になるなら、意味がある。

 だが、それはまた新しい器を作るだけだ。

 蓮は歯を食いしばった。

「聞かない!」

 ナディアも叫んだ。

「聞き手にならない!」

 マーカスも叫ぶ。

「声を所有しない!」

 黒瀬が紙を何度も読み上げる。

「蓮! ナディア! 玄! マーカス! セティ! カーエムセト! 小さな夜明け!」

 セティが蓮の手を握った。

 その温かさが、蓮を現実へ引き戻す。

 セティはカーエムセトに向かって叫んだ。

「カーエムセト! もういい!」

 その声は怒りでもあり、悲しみでもあり、赦しではないけれど、赦しの手前にある何かだった。

「もう、聞かなくていい!」

 カーエムセトは目を見開いた。

 その瞬間、玉座の中央に亀裂が走った。

 黒い石の中から、白い光が漏れる。

 玉座は声を集める器ではなく、名を通す穴へ変わり始めていた。

 カーエムセトが叫ぶ。

「ネフェル=カーの名を、返す!」

 王冠が完全に砕けた。

 玉座が崩れ、黒い水路へ変わる。

 その水路は名の井戸へ向かって流れ出した。

 黒い太陽の目が揺れる。

 中心を失った声が、一斉に名前を探し始める。

 王の座が、空になった。


     *


 王の間の床に、青白い水路が広がっていった。

 それは以前のように声を集める水路ではなかった。

 逆向きに流れている。

 黒い太陽から、名の井戸へ。

 井戸から、壁に浮かぶ名前へ。

 名前から、遠いどこかへ。

 声が、それぞれの名前へ戻ろうとしている。

 完全ではない。

 すべてではない。

 だが、流れが変わった。

 ナディアが息を呑んだ。

「構造が反転している……」

 黒瀬が端末を見ながら、声を震わせた。

「低周波が下がってます。黒い太陽の反応が弱くなってる」

 マーカスの掌の聞き手の印が、薄く消えていく。

 ナディアの耳の印も。

 蓮の右手に浮かんでいた黒い太陽も、ゆっくりと見えなくなった。

 黒い太陽はまだある。

 だが、もう誰か一人を中心に声を集める形ではいられなくなっていた。

 カーエムセトは、玉座があった場所に立っていた。

 彼の身体はさらに薄くなっている。

 けれど、顔は穏やかだった。

 セティが駆け寄る。

「カーエムセト!」

「大丈夫だ」

 カーエムセトは言った。

「眠くなってきた」

 その言葉に、セティの顔が歪む。

「消えるの?」

「わからない」

 カーエムセトは正直に答えた。

「でも、怖くない。少しだけ」

 彼は蓮たちを見た。

「私は、王の名を返した。けれど、私のしたことは消えない」

 ナディアが頷いた。

「消しません」

「セティを器にしたことも」

「記録します」

「都市を守ろうとしたことも」

「記録します」

「そして、間違えたことも」

「記録します」

 カーエムセトは静かに目を閉じた。

「なら、眠れるかもしれない」

 セティは彼の手を握った。

「僕は、まだ全部許せない」

「それでいい」

 カーエムセトは言った。

「呼んでくれただけで、十分だ」

 その瞬間、黒い太陽が最後のように震えた。

 完全に消えたわけではない。

 だが、目は閉じ始めていた。

 半眼だった瞼が、ゆっくり下がっていく。

 その奥から、まだ名を失った声が聞こえる。

 けれどそれは、以前のような命令ではなかった。

 聞け。

 ではない。

 ただ、遠いざわめき。

 名前を探す声。

 蓮は言った。

「全部は、今日返せなかった」

 ナディアが答える。

「でも、流れは変わりました」

 マーカスが言った。

「黒い太陽は、もう神ではない」

 黒瀬が続ける。

「声の集積装置でも、封印の中心でもなくなった」

 セティが最後に言った。

「通り道になった」

 黒い太陽の目が閉じた。

 完全な暗闇が一瞬訪れる。

 そして、王の間の奥に、小さな光が灯った。

 それは朝日のような色をしていた。


     *


 戻る道は、静かだった。

 崩壊ではなく、沈静。

 列柱室の壁に浮かんだ名前たちは、すべてが読めるようになったわけではない。多くはまだ途切れ、かすれ、欠けていた。

 それでも、以前のように壁が記憶を食べようとはしなかった。

 壁はただ、残していた。

 記録として。

 黒瀬は歩きながら、何度もカメラを向けた。

「今なら、撮れます。ノイズが少ない」

 ナディアが小さく頷いた。

「記録しましょう。閉じ込めるためではなく、忘れないために」

 その言葉は、今回のすべてを表しているようだった。

 保管室の門を抜けると、朝の光が廊下の上部の小さな窓から差し込んでいた。

 地上はもう完全に朝になっている。

 セティは無言でその光を見た。

 カーエムセトは、壁に寄りかかるように立っていた。体は半透明に近い。眠りに近づいているのだろう。

 蓮は声をかけた。

「カーエムセト」

 彼は目を開けた。

「蓮」

 初めて、彼が蓮の名前を穏やかに呼んだ。

「ありがとう」

 蓮は首を横に振った。

「僕たちだけじゃありません」

「知っている」

 カーエムセトはセティを見た。

「小さき耳……いや、セティ」

 セティは彼を見る。

 カーエムセトはゆっくり言った。

「お前の名を、もっと早く呼ぶべきだった」

 セティは答えなかった。

 けれど、目を逸らさなかった。

 それだけで、十分だった。

 保管室の門に、最後の文字が浮かんだ。

 蓮は読んだ。

 王の座は空となった。

 黒い太陽は通り道となった。

 小さき耳は名を持ち、声は水路へ帰る。

 夜明けは、地上にある。

 そして、その下にもう一行。

 最後に、名を記せ。

 ナディアが息を呑んだ。

「名を記す……」

 蓮はわかった。

 忘れないために。

 閉じ込めるためではなく、記録するために。

 彼らは最後に、名前を記さなければならない。

 セティ。

 カーエムセト。

 小さな夜明け。

 名前を失った人々。

 そして、地下都市アケト・ドゥアト。

 黒瀬が呟いた。

「これ、最終パートですね」

 蓮は頷いた。

 物語は、終わりへ近づいている。

 だが、終わりとは消えることではない。

 名を記すこと。

 呼ぶこと。

 そして、地上の朝の中で、それぞれの場所へ帰ること。

 蓮は白い石を見た。

 セティの名は、はっきり刻まれている。

 カーエムセトの名も。

 小さな夜明けの呼び名も。

 そして石の余白には、まだ無数の小さな線が浮かんでいた。

 これから返されるべき名前たちのための余白。

 蓮は静かに言った。

「最後に、名前を記しましょう」

 ナディアが頷く。

 黒瀬も。

 マーカスも。

 セティも。

 そしてカーエムセトも、眠そうな目で頷いた。

 黒い太陽は、もう彼らを呼ばなかった。

 ただ、遠くで水が流れるような音だけがしていた。

 声が、名前へ帰る音だった。

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