第9章
僕の意識は、ボスのソムニウムの賑やかな部屋から、現実世界へと移行した 。アイボウがマップを表示する。そこには東京の地図が広がり、「真下食堂」という場所が赤く点滅しているのが見えた 。公衆電話の場所から特定された、通報者の住所だ 。工曜日、午前10時18分。僕は真下食堂の前に立っていた 。古びた建物は、どこか懐かしい雰囲気を醸し出している 。シャッターは半開きで、中からはかすかな生活音が聞こえてくる 。
「あー、ごめんなさいねー。まだ準備中なんですよー」と、中から老婦人の声が聞こえた 。僕は「いや、客じゃないんですよ」と口を開き、来訪の理由を告げようと「実は…」と切り出した 。その言葉を遮るように、僕は懐から警察手帳を取り出し、彼女に見せた 。老婦人の表情は一瞬にして凍りつき、驚きに見開かれた丸い眼鏡の奥の目から、「ま、まさかあの子が…うちの応太が、なにかしでかしたんじゃ…!」と動揺が漏れた 。僕は「まあ落ち着いて下さい。ちょっと話を聞きにきただけですから」と彼女の不安を和らげようとした 。老婦人はわずかに落ち着きを取り戻し、僕の問いに「ええ、母親です。『真下まゆみ』と言います」と答えた 。この食堂が真下応太の実家であるという確証を得た 。
僕は、まゆみさんの手元にあった、花柄の包丁をテーブルに置くよう頼んだ 。それは応太が小学生の頃、母の日に贈ったもので、「母さん、いつもありがとう」と刻まれているという 。まゆみさんにとってかけがえのない宝物であり、彼女は花柄が好きで、厨房に立つ時はいつもその包丁を使っていると語った 。
まゆみさんは、昨夜の雨について僕が尋ねると、あまり記憶にないようだった 。彼女は「見ての通り、粗末な定食屋ですよ」と店を紹介し、「ただ、自分で言うのもなんですが、これでも結構お客さんは多くてね。夫とふたりで切り盛りしてるんですが、お昼時なんかももうてんてこ舞いで…」と、日々の忙しさを語った 。アイボウは「妙だな…」と呟き、この店が8年前に閉鎖された椿崎地区の近くにあると指摘したが、まゆみさんはそれに反応せず、夫の行動が「いつものこと」だと語り、どこかへ買い出しに行っているのだろうと曖昧に答えた 。まゆみさんは「もう30年以上前のことですよ」と、この食堂を始めた頃の話を始めた。「夫とふたりで借金をして、始めたんです」 。
僕は、まゆみさんに、通報者である真下応太が通っているという「変な事務所」について尋ねた 。まゆみさんは、最初は「いかがわしい社会不適合者みたいな連中が集まってる…」と表現し、暴力団ではないかと尋ねる僕の問いを否定した 。その後、「芸能プロダクション」だと正確な情報を思い出した 。そして、その事務所に「女神がいる」と語った 。まゆみさんは「女神がいるからって…」と息子が言っていることを伝え、その人物を「魔女以外の何者でもない」と評し、応太をたぶらかして金品を貢がせている「しょうもないアイドルだ」とも言った 。
僕は、その「女神」の名前を尋ねた 。「名前は?」 。まゆみさんは「名前?名前…名前…」と記憶を探すように言ったが、思い出せないようだった 。彼女は「そんなもん覚えちゃいませんよ。わたしゃ、あの女の子のことは魔女としか呼んでないんですから」と不満げに顔を歪ませた 。僕は「困ったな…」と呟き、アイボウも「さすがの私でもお手上げだ」と答えた 。僕は「だろうな…」とため息をついた 。
その時、僕の脳裏に、一つの可能性が浮かんだ。僕は、まゆみさんに問いかけた。「そう、携帯です、持ってるでしょう?」 。まゆみさんは「ケイタイ?」と首を傾げ、「わたしゃ学がなくてね。そんな横文字で言われてもさっぱり…」と困ったように微笑んだ 。僕は「いやいや、横文字じゃありませんよ。携帯電話のことです」と訂正した 。まゆみさんはようやく理解し、「携帯、電話…」と呟いた 。
その時、僕の眼窩に組み込まれたAI、アイボウの声が響いた。「伊達、その女に聞く必要はない」 。アイボウは僕の思考を読み取ったかのように淡々と告げた。「応太の携帯番号ならすでに調査済みだ」 。その言葉に僕は驚きを隠せない 。アイボウがすでにそんな情報を入手していたとは 。僕はすぐにアイボウに指示を出した。「かけてくれ」 。アイボウは僕の指示に従い、真下応太の携帯電話へと発信した 。しかし、電話は繋がらない 。「何度もかけた。だが一向につながる気配はない」 。アイボウの声には、わずかな諦めが混じっていた 。
「電源が入っていないか、電波の届かないところにいるようだ」 。アイボウの声は、その可能性を示唆した 。僕は「やれやれ、墓場にでも埋められちまったかな」とつい自嘲気味に呟くと、アイボウは「東京都23区での土葬は条例によって禁止されている」と冷静に返した 。真下応太の携帯電話が繋がらない。それは、彼が事件に関わっている可能性を一層高めるものだった 。
アイボウは、まゆみさんの言葉を遮るように、突然、店内に置かれた招き猫に視線を向けた 。「招き猫に向かって猫のモノマネをすると、幸せが訪れるんだぞ?」 。アイボウの声には、どこか悪戯っぽい響きが混じっていた 。僕は「そうだったのか…」と呆れと困惑の声を上げた 。アイボウの突然の行動に、僕は「カ、カワイイ…」と呟いてしまった 。アイボウは僕の言葉に「おまえって、見境ないよな」と呆れたようだった 。
僕の視線は、壁に貼られた古びたポスターへと向けられた 。そこに描かれているのは、アイドルの顔写真と、サインのようなものだ 。「お、あれはダークゾーンカルイマスのだ」 。アイボウが、そのポスターに描かれたサインを認識した。「イルカちゃんのサインだ」 。僕は「誰だよ、それ…」と問い返したが、全く聞き覚えがない 。アイボウは僕の問いに答えず、店の棚に目を向け、「塩、コショウ、七味唐辛子と、それからこれは…」と調味料の瓶を一つ一つ指差していった 。
アイボウは唐突に、まゆみさんが語っていたダンボール箱の存在を思い出したようだった 。僕が「な、なんだよ、いきなり…」と戸惑うと、彼女は「え、知らないのか?」と驚いたようだった 。
僕は、まゆみさんが指差したダンボール箱に視線を向けた 。それは、テーブルの上に無造作に置かれている、小さな茶色の箱だった 。まゆみさんは「気になるんですか、そのダンボール箱…」と尋ね、「さっき宅配の人が届けてくれたんですよ」とダンボール箱の由来を語った 。僕は「中にはなにが?」と問い、まゆみさんは「あのろくでもないアイドルの…魔女のグッズですよ」と答えた。「応太が頼んだんです」 。
僕は、ダンボール箱へと近づき、その表面を調べた 。アイボウが僕の視覚に箱の詳細情報を映し出す。「送り主は『ぐれぐれ商店』…」と僕が呟くと、アイボウは「ネット通販の会社のようだ」と答えた 。品名は「立体模型」となっていた 。
アイボウは、僕に指示を出した。「伊達、ダンボール箱の中を調べてみよう」 。「いつものように『X線』の機能を使うんだ」 。アイボウの声が僕の脳内に響く 。僕はアイボウの指示に従い、X線モードに切り替えた 。ダンボール箱の中身が、青みがかった線画として透けて見える 。「これは…」と僕は息を呑んだ 。箱の中には、人間の女性の姿が映し出されている 。
アイボウは「人物の立体模型、いわゆるフィギュアというやつだな」と正体を教えてくれた 。「台座の部分に文字があるな」と僕が指摘すると、アイボウは「金属でできたアルファベット型のパーツだ。X線の透過性が低いため、こうしてはっきりと視認できる」と分析した 。「A-set…」と僕が読み上げると、アイボウは「調べてみよう、少し待ってくれ」と解析を開始した 。数秒後、アイボウは「伊達、フィギュアの件だが、わかったぞ。A-setとはアイドルの名前のようだ」と分析結果を伝えた 。
僕は「ユニット名か?」と尋ねたが、アイボウは「いや、違う、完全なる個人名だ」と否定した 。僕が「じゃあこのフィギュアはその、A-setってやつの…」と濁すと、アイボウは「おそらくそうだろう」と肯定した 。僕は所属事務所を尋ね、アイボウは「レムニスケイト」と答えた 。「なに…?」と僕が聞き返すと、アイボウは「もう一度言う、レムニスケイトだ」と繰り返した 。その時、僕の脳内に沖浦蓮珠の顔が浮かび、僕は「沖浦の事務所じゃないか…」と呟くと、アイボウは「そうだ」と肯定した 。
この古びた食堂の奥に、一体何が隠されているのか。真下応太が心酔するアイドル「A-set」。そのアイドルが所属する事務所は、僕の友人である沖浦蓮珠が代表を務める「レムニスケイト」。この繋がりが、この事件の真実にどう繋がってくるのか。僕の目の前には、まだ多くの謎が横たわっていた。この夢で得た情報が、現実の捜査にどう役立つのか。僕は、その秘密の核心へと、一歩ずつ足を踏み入れていくしかなかった




