第7章
僕の意識は、薄暗い部屋から、色彩豊かな夢の世界へと誘われた。壁には鮮やかな大漁旗が飾られ、部屋全体が祭りかのように賑やかな雰囲気に包まれている。そこは、僕自身のソムニウム、深層意識が作り出した空間だった 。
部屋の中央には、魅惑的な赤いジャケットを羽織ったボスが、膝を立てて座っていた。その表情は、どこか退屈そうにも見える。ボスの隣には、巨大な狸の置物と、それに並ぶように、警察官の制服を着たマネキンが立っている 。それはまるで、この部屋の賑やかさを象徴するかのようだった。
「紹介するわ、幼なじみの鞠夫くんよ」とボスが、マネキンを指して言った。その声には、親愛の情が込められているようだった 。彼女は「たまに寂しくなったとき、話を聞いてもらってるの」と付け加えた 。ボスがマネキンに話しかけるという現実に、僕は驚きを隠せない。その時、鞠夫と名乗るマネキンが奇妙なことに僕に向かって話しかけた。「やあ、ぼくの名前は鞠夫、よろしくね!」 。僕は驚きのあまり、「しゃべった…!」と声を上げてしまった 。アイボウはそれを当然のように受け止め、「ボスの幼なじみの鞠夫くんだ」と説明した 。
ボスは満足げに微笑むと、僕に視線を向けた。彼女は唐突に、目の前に転がっているサッカーボールを指差した。「そのボールを見ると、高校の頃の彼氏を思い出すのよね…」 。ボスの高校時代の彼氏がサッカー部だったのかもしれない 。意外な告白に、僕は口を閉ざした。次にボスが言及したのは、隣に置かれた狸の置物だった。「タヌキのあそここの皮って、広げると八畳くらいになるって本当かしら?」 。その奇妙な問いに、僕は「知らんがな…」とだけ答えた 。壁の棚にはオレンジ色のカボチャがいくつも飾られているのも見えた 。ボスは「カボチャのお面をかぼっちゃおう」と呟き 、「ちょっと言ってみただけよ」と僕をからかうように笑った 。この部屋に置かれた様々なものを見回しながら、僕は心の中で「なんでこんなもんがここに…」と呟いた 。それは、僕の深層意識が作り出した、意味深なオブジェたちなのだろうか。
ボスの視線が、部屋の隅にあるダーツマシンへと向けられた 。「ダーツマシンが置いてある」 。彼女はそう言って、その理由を語り始めた。「核戦争になってここに閉じ込められても、退屈しないようにと思って…」 。彼女の声には、この地下世界で生きる人々の、絶望的な状況と、それに抗おうとする、ささやかな抵抗が込められているようだった。
「たまにストレスがたまったときに、それを打ち鳴らして発散してるの」 。ボスは、そう言って、僕にダーツマシンの使い方を教えてくれた 。僕が「知ってる、フロア中に響き渡ってるからな…」と返すと 、彼女は呆れたように僕を見ていた 。
ボスは突然、不満げに口を開いた。「全員、私の旦那よ」 。その真意を測りかねていると、彼女は付け加えた。「ちなみにボスは未婚」 。その言葉は、彼女の強気な態度とは裏腹に、どこか寂しげな響きを持っていた。
部屋の中央には、一年中飾られているかのようなクリスマスツリーが立っていた 。それは、金色の星や飾りで彩られ、薄暗い部屋の中で、かすかな光を放っている。僕は「あのツリー、昔からずっとあのままだよな…」と呟いた 。ボスは「だって、クリスマスは毎年やってくるでしょ?そのたびに出したり片付けたりするの、めんどくさいじゃない」と肩をすくめた 。ツリーの横には、亡くなった祖父のデスマスクだという、ライオンの顔を象った不気味なマスクが二つ、壁にかけられているのが見えた 。僕は「顔でかっ!」と思わず叫んでしまった 。
部屋の奥には、警察官の制服を着たマネキン、鞠夫くんが立っている。その横には、白くて小さな石膏像が置かれていた。それは、人の顔をかたどった胸像のようだ 。「このペルシャ絨毯、高かったのよぉ」とボスがその像を指して言った 。僕が「いくらしたんだ?」と尋ねると 、彼女は「5億円」と答え 、僕は「小学生かよ…」と呆れてしまった 。
部屋の隅には、止まったままの時計が置かれている 。その針は、時を刻むことをやめ、過去のどこかの時間を指し示している。「その時計、電池が切れちゃって、針が止まったままなの…」とボスは言った 。「なんだか、私と伊達くんみたいね」 。僕が「どういう意味だ?」と問い返すと 、ボスは「さあ、どういう意味かしら…」と謎めいた笑みを浮かべた 。頭上には、色とりどりの旗が連なって飾られ、壁の棚には、無数の白い包みが積み上げられているのが見えた。一つ一つが、まるでマトリョーシカ人形のように、同じ形をしている 。
僕は「マトリョーシカか、ボスみたいだな」と呟いた 。「表向きの姿の中に別のボスがいて、その中にまた別のボスがいて…」 。僕の言葉は、ボスの多面的な性格、あるいは、彼女が抱える秘密の多さを表しているかのようだった。僕は「どこまでいっても、本当のボスにたどり着くことはできない」と呟いた 。ボスは「マトリョーシカには終わりがあるじゃない」と否定し 、「最後に出て来るのは、赤ん坊みたいにちっちゃなやつで…それが本当の私よ」と語った 。そして「伊達くんの名前と同じね。『鍵』と書いて『かなめ』と読む」と付け加えた 。僕自身の記憶は6年前に失われており 、このボスの「本当の私」と僕の失われた記憶が、何か重要な繋がりを持っているのだろうかと、僕の思考は巡る。
ボスは、この部屋の賑やかな装飾を見渡しながら、僕に問いかけた。「ここをどこだと思ってるの?」 。僕は「東京都千代田区霞が関にある警察総合庁舎の…」と答え 、彼女は「地下よ」と引き継いだ 。それは深さ30mの地下6階にあるフロアだという 。僕は「だからなんだよ?」と問い返したが 、ボスは「窓がひとつもないから息苦しいのよ。殺風景で、殺伐としてて…だからこうして、せめて身のまわりの景色だけでもにぎやかに…お祭りみたいで楽しいでしょ?」と語った 。
ボスは、僕に「この私を誰だと思ってるの?」と問い 、僕は「警視庁の特殊捜査班『ABIS』の指揮官であり俺の直属の上司だ」と答えた 。僕の言葉にボスは何も反応しなかったが、僕は夢の中でさえこの厳格な関係性が持ち込まれていることに苛立ちを覚えた 。僕の記憶にはない情報だった。僕は心の中で「そんなものは忘れた」と呟いた 。ボスのことを「ボス」と呼び始めたのは6年前からだが 、付き合い自体はもっと古いという 。しかし、僕は6年前より昔のことは何も覚えておらず 、記憶障害を患っているのだ 。最近は断片的な映像を思い出すことはあるが、それが何なのかはまだわからない 。
僕はボスに問いかけた。「で、おまえの名前と捜査状況となんの関係が?」 。僕の記憶が失われていることと、この事件に何の関係があるのか、僕にはまだ理解できない。ボスは「私のことをよく知ってるなら、聞くまでもないんじゃない?」と呆れたように答えた 。僕はため息をついた。「やれやれ、特に進展はなしか…」 。焦りを感じていた。
僕はボスに、6年前に起こったという事件について尋ねた。僕が記憶を失ったのと同時期に起こったその事件が、今回の惨劇と何らかの繋がりがあると直感的に感じていたのだ。ボスは「ああ、その件については忘れてもらえる?」と焦るように言った 。「…は?」と僕が困惑すると 、彼女は「久しぶりに現場に行ったもんだから、ちょっとテンション上がっちゃって…それでうっかり口を滑らせちゃったのよね」と無理に笑顔を作った 。僕は「そんなこと言われたらますます聞きたくなるだろうが!」と反論した 。ボスは観念し、「とにかく、6年前の事件と今回の事件はなんの関係もないのよ」と頑なに主張した 。僕が「関係ないことないだろう!ゆうべ『模倣犯かも』って言ってたじゃないか!」と問い詰めると 、ボスは「そう、そこがポイントよ。模倣犯かもしれないのであって、同一犯ってわけじゃないの」と答えた 。彼女の言葉は、事件の闇をさらに深くした。模倣犯。つまり、この事件は、過去の事件をなぞっているというのか。そして、その過去の事件には、彼女が知られたくない何かが隠されている。
僕は、それでも食い下がった。「たとえば、そう、アイスピックについてはどうだ?」 。みずきが発見されたとき、手に持っていたあの凶器。そのアイスピックが、今回の事件と、そして6年前の事件とどう繋がるのか。ボスは「一応、製造元は特定できたわ」と答えたが 、「でも全国的に販売されてる商品だから、購入者を絞り込むのは困難よ」と続けた 。僕は「そうか…」と落胆した 。しかし、ボスはさらに重要な情報を僕に告げた。「ただ、あの『アイスピック』の形状と、ガイシャの体に残されていた刺創はぴたりと一致した」 。そして「付着していた血液も、ガイシャのものとまったく同じ…」と付け加えた 。僕の頭の中で、全てのピースが繋がった。「つまり、あの『アイスピック』が凶器である可能性が高いと…」と僕は確信した 。ボスは「そう考えてほぼ間違いないわね」と静かに頷いた 。
ボスは、冷徹な口調で言った。「状況だけを考えるなら、容疑者として一番近いのは…」 。彼女の言葉は、みずきが最有力容疑者であることを示唆していた。僕は「バカな、ありえない!」と声を荒げた 。ボスは「だったらさっさと彼女の容疑を晴らしてあげなさいよ」と挑発した 。「同居人なんでしょ?」とも 。
ボスは「そうねぇ…」と沈黙した後 、「ガイシャの灘海硝子、彼女に関する情報だったらデータベースに上がってるけど…」と淡々と告げた 。「あなたは特に見るまでもないでしょうし…」と付け加えたが 、僕は「最近の彼女のことはよく知らない」と答えた 。僕の記憶障害が、この捜査の妨げになっている。
僕は、ボスに問いかけた。「最近の彼女のことはよく知らない」 。みずきと、もう1年以上も会っていないのだ 。記憶を失ってからの僕は、みずきの過去についても詳しいことは知らない。ボスは「とはいえ、捜査班の誰よりも詳しいことに間違いはないでしょ?」と僕を試すように言った 。僕がこの事件の担当になったのは、みずきとの関係が理由だったという 。
アイボウが、僕の脳内に、被害者である灘海硝子(36歳、女性、目黒区在住)の情報を提示してきた 。アイボウの情報によると、僕は5年前に『沖浦蓮珠』を通じて硝子と知り合い、沖浦とは飲み友達であり、沖浦と硝子は当時、婚姻関係にあったという 。しかし4年前に両者は離婚し、硝子は旧姓の『灘海』を名乗るようになった 。沖浦蓮珠には娘が一人おり、名前は「みずき」だという 。つまり、みずきは被害者の娘であり、僕がよく知っている、あの少女なのだ。僕は「とある事情があって俺と一緒に暮らしているのだが、血縁関係にあるわけではない」と語った 。「野良猫が一匹、迷い込んできたようなものだ」という表現が、みずきに対する僕の愛情が込められた、皮肉めいた表現だった 。
ボスは「いずれにせよ、当分のあいつは事情聴取は難しそうね」と告げた 。僕は「『沖浦蓮珠』はつかまったか?」と尋ね 、ボスは「今、所轄の警察署で事情聴取を受けてるわ」と答えた 。「もちろん容疑者ではなく、ただの参考人としてね」 。沖浦蓮珠は、被害者の元夫であり、みずきの父親。そして、僕にとっては、数少ない友人のひとりでもあるのだ 。ボスは「その流れで今は事情聴取を…」と続けた 。そして「『園内から悲鳴が聞こえてきた』警察にそう通報してきた人物のことね?」と、沖浦蓮珠が通報者であることを示唆した 。
ボスは僕に「国家機密だからよ」と話し 、僕が「そんなにヤバイヤマなのか?」と尋ねると 、ボスは「ええ、そう考えてもらってかまわないわ」と力強く頷いた 。
この夢の部屋は、単なるボスの深層意識の具現化ではない。それは、現実世界の、あの警察総合庁舎の地下にある、隠された場所。僕の記憶が失われる前の、あるいは、僕が警察官になる前の、何か重要な場所なのか。僕は、この夢の奥底に隠された真実を、必ず見つけ出さなければならない。この賑やかな部屋の奥に、この事件の、そして僕自身の過去の真実が隠されている。この夢の中で、僕は、その秘密の核心へと、一歩ずつ足を踏み入れていくしかなかった。




