第10章
レムニスケートのロビーは、白と黒を基調としたモダンなデザインで統一され、中央には企業のロゴが青く光る。天井からは柔らかな照明が降り注ぎ、観葉植物の緑がわずかな彩りを添えていた。無機質な空間の中に、デザイナーズソファがいくつか配置され、その一つに、特徴的なキャップを被った少年が小さく座り込んでいる。
その少年は、真津下応太。ポール(伊達)が追う事件に、何らかの形で関わっている人物だ。
ポールは、無造作に歩み寄り、少年の前に立つ。金髪の彼の目は、何かを見透かすように鋭い。
「真津下応太だな?」
ポールが問いかけると、少年はハッと顔を上げた。大きな瞳が、ポールを見上げる。警戒と困惑の色が浮かんでいる。
「誰…?」
応太の声は、まだ幼さを残していた。
ポールは、その問いに答える代わりに、自身の胸ポケットから警察のIDを取り出した。それを応太の目の前に示す。きらりと光る金属のバッジと、彼の写真。
「俺は警察のIDを応太に示して言った」
ポールは、確とした声で続けた。
「警視庁の伊達だ。」
応太の目が、驚きに見開かれる。彼の小さな口から、かすれた声が漏れた。
「警察…」
応太は、すぐに視線をそらした。まるで、ポールから逃れるかのように、体を少しだけソファの背もたれに沈める。
「なんだっていいだろ」
反抗するように、応太はぶっきらぼうに言った。その声には、拒絶の感情が込められている。
「ほっといてくれないかなぁ」
彼は、心底うんざりしたような顔で呟いた。まるで、自分には関わってくれるな、とでも言いたげだった。
ポールは、そんな応太の態度を冷静に受け止めていた。彼は、この少年が何かを隠していることを確信している。
「な、なんで知ってるんだよ…」
応太が、かすかに震える声で問いかけた。彼の顔には、疑念と、わずかな恐怖が浮かんでいる。なぜ、自分の名前を知っているのか。この警察官は、どこまで知っているのか。
ポールは、そんな応太の動揺を見逃さなかった。彼はニヤリと、悪戯っぽく、しかしどこか自信に満ちた笑みを浮かべた。
「俺はエスパーだからだ」
その言葉に、応太は一瞬、呆けたような顔をした。そして、すぐに眉をひそめ、不満そうに口を尖らせる。
「ぶっ…なんだよ、それ」
応太は、呆れたような、あるいは茶化されたことへの苛立ちを隠さずにそう言った。
「ゆうべ…?」
応太が、伊達の言葉を鸚鵡返しにした。その声には、まだ疑念と、わずかな動揺が混じり合っている。
伊達は、そんな応太の様子を冷静に見つめながら、静かに問いかけた。彼の金髪の奥の瞳が、何かを見透かすように細められる。
「昨日の午後9時過ぎ、公衆電話から警察に通報しただろ?」
伊達の言葉に、応太の顔色が変わった。驚きと焦りが、彼の表情に現れる。
伊達は、畳み掛けるように続けた。
「あの遊園地『ブルームパーク』から悲鳴が聞こえてきたって…」
応太は、伊達の言葉に動揺を隠せない。彼の視線は宙を彷徨い、明らかに何かを隠そうとしている。しかし、彼はすぐにいつものふてぶてしい態度に戻った。
「さぁ~、なんのことかなぁ…」
応太は、しらばっくれるように、とぼけた返事をした。その声には、明らかに嘘の響きがある。
伊達は、そんな応太の態度に、眉をピクリと動かした。彼の口元には、わずかな皮肉が浮かんでいる。
「署まで来てもらってもいいんだぞ?」
その言葉は、優しさの中に、有無を言わせぬ警察官としての圧力を含んでいた。応太の表情が再び引き締まる。彼は、じっと伊達を見つめ返した。
「令状とか、あるんすかぁ?」
応太は、挑むような眼差しで尋ねた。その声には、まだ抵抗の意思が宿っている。彼が、法律の知識を持っていることに、伊達は内心で感心した。やはり、ただの子供ではない。
伊達は、応太の挑発を意に介さなかった。彼の表情は、一瞬にして冷徹なものへと変わる。
応太は、伊達の顔を見て、たじろいだ。彼のふてぶてしい態度が、わずかに揺らぐ。彼の脳裏には、伊達が発する言葉が、まるで法律の条文のように響き渡っていた。
「警察官職務執行法第2条3項」
応太は、その言葉を諳んじるように口にした。彼の表情は、まるで誰かから教え込まれたかのように、正確に条文を読み上げていた。
「刑事訴訟に関する法律の規定によらない限り」
そして、彼の視線が、ふたたび伊達に戻る。その目には、抵抗の色が強まっていた。
「その意に反して警察署、派出所もしくは駐在所に連行され答弁を強要されることはない」
応太は、最後まで条文を言い切った。その声は、震えてはいたが、確固たる拒否の意思を示していた。彼は、自分には応じる義務がないと主張しているのだ。
伊達は、そんな応太の言葉を聞き終えると、深い息を吐き出した。彼の表情には、明らかにうんざりした色が見て取れる。
「俺が一番嫌いなタイプのクソガキだ」
レムニスケートのロビーに、応太の反抗的な声が響いた。
「嫌だ」
彼の言葉は短く、しかし明確な拒絶の意思を示している。応太はソファに深く身を沈め、伊達から目を背けるように視線を逸らした。
「今わりと忙しいんで…」
彼は、まるで面倒な用事を押し付けられた子供のように、不機嫌そうな顔で呟いた。彼の膝の上には、開かれたノートパソコンが置かれ、その画面には「GEEK」と書かれたステッカーが貼られている。彼は、それを守るかのように、腕でパソコンを抱え込んだ。
伊達は、そんな応太の態度に、眉間の皺を深くした。この少年との交渉は、予想以上に骨が折れる。
その時、伊達の左の眼窩に埋め込まれた義眼、AI-Ballが、独特の電子音と共に起動した。彼女は、ふわりと空間に浮かび上がり、その白い毛玉のような体が、わずかに揺れる。星型の瞳が、応太と伊達の間に漂う緊張感を冷静に分析していた。
「まあ待て」
アイボゥが、冷静な声で伊達を制した。その声には、少しばかりの諭すような響きがある。伊達は、苛立ちを隠せない顔で、しかしアイボゥの言葉に耳を傾けた。
「こんなところで面倒を起こせば懲戒処分は免れまい」
アイボゥの指摘は、的確だった。公衆の面前で少年を無理に連行すれば、手続き上の問題だけでなく、伊達自身の評価にも影響しかねない。ここはレムニスケートのロビーだ。監視の目がないはずがない。
伊達は、口を真一文字に結んだ。アイボゥの言葉はもっともだ。だが、このクソガキの態度には、彼の腹の虫が収まらなかった。
「じゃあどうするんだよ!」
伊達は、半ば八つ当たりのように、アイボゥに問いかけた。彼の金髪が、苛立ちに揺れる。
アイボゥは、伊達の苛立ちを冷静に受け止めていた。彼女の星型の瞳が、くるりと動き、応太の顔、そして伊達の顔を交互に見やる。そして、静かに、しかし確かな声で告げた。
「私に考えがある、少し時間をくれ」
彼女の言葉には、自信が満ち溢れていた。
伊達は、まだ不満そうな顔をしていたが、アイボゥの言葉には逆らえない。彼女は、伊達にとって、単なる相棒以上の存在だった。彼の苛立ちは、少しだけ落ち着いた。
その瞬間、応太の耳に、伊達の苛立ちとアイボゥの冷静な声がはっきりと響き渡る。
「だから待てと言っているだろうが!」
それは、アイボゥが、伊達の頭の中で直接、彼に語りかけた言葉が、応太にも聞こえてしまったかのようだった。応太の表情が、驚きと困惑に変わる。彼は、伊達の眼窩に光る義眼を凝視した。