35
日も暮れ、手元が暗くなり始めた頃。
相変わらずフェイル男爵家は静まり返っていた。
王太子を見送り、書斎で何か話し合った後、
エルフィードもシャレルも自室に引き篭もってしまった。
今朝…仲睦まじかった二人に対し、未婚の女性の部屋で…と怒っていた喧騒が嘘のように静まり返っていた。
普通なら、王太子からの白い花に…結婚の申し入れに、夜通し宴会を繰り広げんばかりに喜び踊るだろう。
それがまるで葬式の日のように静かで暗い。
「お嬢様、お食事を置いていきます」
部屋から出てくる気配の無いシャレルの事がセイムは心配でたまらない。
エルフィードと何か話した後…シャレルは泣きながら書斎から出てきた。
今にも崩れ落ちそうな足取りで歩くシャレルに、セイムは何も声を掛けることが出来なかった。
扉の向こうからは、何の返事も無い。
セイムは滲み出てくる涙をそっと拭った。
初めてこの屋敷に来た日から、シャレルはエルフィードにべったりだった。
その姿を見て、エルフィードを慕っているのだろう、と微笑ましく思っていた。
それは7年経った今も同じだ。
シャレルは一度たりとも、他の誰かに思いを寄せることは無かった。
純粋で直向で、ずっとエルフィードだけを思っていた。
それを7年間、傍で見てきたセイムは…今回の王太子からの結婚の申し入れに胸が傷んだ。
「お嬢様…」
暗い部屋の中で一人、シャレルは何を思っているのだろう。
考えるだけで、セイムの目からはまた涙が溢れてきた。
「…セイム、シャレルお嬢様は」
エプロンの裾で涙を拭いながら階段を下りてきたセイムを見つけたコートネイが、不安そうに駆け寄った。
「…何もお返事が無くて…お嬢様、ずっと部屋から出て来られないんです…」
「そうか…お嬢様…」
「お嬢様、あんなに…エルフィード様のことを思われていたのに…ずっと、エルフィード様の為にと…頑張って来られたのに…」
エルフィードの妻として恥ずかしくないように、そう言って、シャレルは慣れないラベルトのしきたりや作法を必死で勉強していた。
7年間、ずっと頑張ってきたシャレルを思うと、セイムは涙を堪えることが出来なかった。
コートネイも悲しげに目を伏せるだけだった。
「エルフィード様も…お辛いでしょう。誰よりもお嬢様を愛しておられるのに…」
シャレルが屋敷に初めて来た日のことをコートネイもよく覚えていた。
先代夫妻が亡くなってからは、どこ影のあったエルフィードが、小さな女の子に向けていた笑顔。
コートネイはその笑顔を見て、ようやくエルフィードの中にあった影を晴らす存在が現れたのだと喜んだ。
本当ならば、フェイル男爵家から王太子妃が出るということ、王族の親戚としての名声を喜ぶのだろう。
しかし、セイムもコートネイも…どうしても喜ぶことが出来なかった。
静かで薄暗い屋敷の中、楽しげな笑い声はどこからも聞かれなかった。
部屋に閉じこもっていたシャレルは、幼い頃から大切にしていた母の形見であるオルゴールの音色を聞いていた。
箱の形になっているオルゴールの中には、エルフィードとの思い出の品が沢山詰まっていた。
エルの目の色だから、と幼い頃から今もずっと育てている紫の花。
毎年、シャレルはその花を栞にしてそっと箱に仕舞っていた。
この屋敷に来て、初めてエルフィードに買って貰った花の形をした髪飾り…
エルフィードが新しい騎士隊の制服を支給された時にいらなくなった古い制服のボタン。
いつか渡そうと思っている作りかけのレースのハンカチ…
シャレルの宝箱の中は、エルフィードへの思いでいっぱいだった。
他人から見れば、ガラクタだらけだろうと思う。
何の価値もない物ばかりだと。
それでも、シャレルにとっては宝物だった。
このオルゴールを持って行く、と言った時のことは今でもよく覚えている。
何も持たない自分に、買ってあげるよ、と笑ってくれたエルフィード。
別に綺麗なドレスが欲しい訳じゃなかったし、贅沢がしたい訳でも無かった。
シャレルが願ったのはたったひとつ…エルフィードの傍にいたいという、それだけだった。
「…エル以外の人と結婚なんて…嫌よ…」
掠れた声で呟いた本音は、静かな空気の中に消えていく。
一番幸せな道を…と言われたが、シャレルの幸せはもう決まっている。
ただエルフィードの傍にいたい。
その簡単なことが、今となっては難しいということも…シャレルは理解していた。
もしかするとエルフィードもそれを許してくれないのかもしれないということ。
それが何よりも辛かった。




