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森へ

 カリムたちは森の境界まで達していた。

 日の出とともに毛布から抜け出し、皆に気づかれないよう森の前までやってきたカリムは、驚きに目を見張った。

 すっきりとした朝の光に(かたど)られ、薄水色の空から切り出された森の輪郭がその存在を強く主張している。


「あ、そうか……」


 カリムの漏らした(つぶや)きは、誰の耳に届くことなく、朝の空気に霧散した。

 デフェルに村から連れ出されたとき、ヴァイオレットたちの撒いた種は、すでにカリムの身長を超えていた。

 あれから何日も経っている。

 その間、ヴァイオレットたちが血を撒いていたなら、目の前に広がるこの光景にも納得がいくというものだ。それなのに、こうして直接目にするまで、そのことに思い至らなかったなんて――

 内心で呆れつつ、カリムは(そば)にあった木の幹に手をかけると、あらためて奥を覗き込んだ。

 慣れ親しんだはずのその場所は、なんとなく面影を残すものの、すっかり変わってしまっていた。

 幾重にも張り出した枝が陽の光を拒むように、暗い緑の影を落としている。

 時折、その合間を縫うように、赤い光がちらついた。

 森にはすでに、多くの人が入り込んでいる。おそらく、彼らが持つ松明の灯りだろう。仄暗い森の中で揺らめくそれは、死者の身体から抜け出した鬼火を彷彿させた。

 カリムはごくりと喉を鳴らし、乾いた唇を舌で潤すと、木の幹に置いた手に力をこめた。


「カーくん!」


 突如、背後から刺さった声に、カリムの心臓が跳ねた。

 おそるおそる振り返る。そこには腰に手を当てたエマの姿があった。


「エマさん……」


 カリムの口から女の名前が(こぼ)れた。

 こっそり抜け出したつもりが、どうやら彼女には気づかれていたらしい。

 カリムはその小さな肩を落とした。


「どこに行くんだい? あたしらは待つように言われたろ?」


 エマはやれやれと息をつくと、足を一歩、踏み出した。

 その動きに合わせ、カリムの足が自然と一歩さがる。

 それを見たエマは足を止めた。

 二人の間にわずかな緊張が走る。

 エマは大きく息を吐くと、少年が身に着けた服に目をやった。

 古いとはいえ、仕立てのよさが一目でわかるその服は、この数日ですっかり汚れてしまっている。

 エマはそれ以上、近づくことはせず、少年を上から下までまじまじと見つめた。


 彼が荷馬車から発見されたとき、エマはすぐそばにいた。

 夜営地を決め、食事の準備に取りかかろうとしていたときのことである。

 少年は、積み荷の隙間で眠っていた。

 それを見つけたひとりの女が、少年の身体を揺さぶった。

 馬車の中で寝ていた少年は、がくがくと揺さぶられ、すぐに目を覚ました。

 身体を起こし、閉じようとする目蓋(まぶた)をなんとか持ち上げ、目をしばたたかせる。はじめはぼんやりとしていたが、その焦点が定まるにつれ、顔色を青くさせた。

 女に促され、素直に荷台から降りた少年は、見つかったことに酷く狼狽(うろた)えた様子だった。少年の瞳が不安そうに揺れる。

 その周りを、その場に居合わせた女たちが取り囲んだ。


 どこか困った様子の少年は、貴人が着るような服を身につけていた。

 エマは思わずため息を吐いた。


 ――どこのぼんぼんが紛れ込んだのか。


 このまま報告せずにいたら、うるさく言われるのは目に見えている。

 厄介ごとはさっさと遠ざけるべき――そう判断した矢先、ひとりの女が声をあげた。

 普段、こき使われる身である。

 報告する前に、少しばかり日頃の鬱憤(うっぷん)を晴らそうというわけだ。

 女の意図を瞬時に察した他の女たちも、これに乗っかった。

 荷馬車に隠れていた少年は、困惑した顔を見せたものの、やはり見つかりたくはなかったらしい。女たちのさざめきに、何かを言うことはなかった。


 その後、女たちの動きは早かった。

 微かな期待が彼女たちの胸を膨らます。

 少年に何かをやらせてみたところで、大して役には立たないだろう。

 その姿を(わら)ってやれば、日頃の留飲も下がろうというものだ。

 そんな彼女たちの内心が見えた気がして、エマは苦笑した。

 悪趣味には違いないが、気持ちはわかる。少年に悪いと思いつつも、エマは黙って見ていることにした。


 しかし、そんな揶揄(やゆ)のこもった彼女たちの目が驚きに丸くなるまで、そんなに時間はかからなかった。

 “いいところの坊ちゃん”であるはずの少年は、その身なりからは想像できないぐらい、よく働いた。普段からやっているのか、戸惑う様子のない少年に、今度は女たちが困惑する番だった。

 誰ともなく目を合わせる。


 ――なんか、思ってたのと違うんだけど……。


 こまごまと文句も言わずに動き回るその様は、村にいる近所の子らと大差ない。

 少年の歳からすると、若干、聞き分けがよすぎるようにも思えるが……。

 エマを含め、その場にいた全員が首を傾げた。

 貴族の子ではないのかもしれない。

 しかし、何度見ても、少年の顔に見覚えはなかった。

 他の者たちもそれは同じだったようで、“私の子だ”“知ってる子だ”と言い出す者はいなかった。


 とすれば、どこかから逃げてきたのか――ふと湧いた想像に、エマは少年について考えるのをやめた。

 貴族でもない正体不明の小さな子供が、“いい格好”をしている理由なんて、そう多くはない。報告したところで、ろくな目に合わないことだけは容易に想像できる。

 それが早いか遅いかだけの差なら、このいたいけな少年を、好んで差し出そうとは思えなかった。

 自分が報告しなくても、いずれ誰かがやるだろう。

 少年が動くのに合わせ、襟足(えりあし)からひと(ふさ)伸びた髪がふわふわなびくのを目で追いながら、エマは口を(つぐ)んだ。

 しかし、どうやらそう思っていたのはエマだけではなかったらしい。

 結局、今日まで報告する者もいなかったのか、少年が連れ戻されることはなかった。


 そんな少年が森に入ろうとしている。

 この先には塔が立った村があるだけだ。

 エマにはこの奇妙な少年が、どこの誰であるのか、なんとなくだがわかった気がした。

 本当なら止めるべきだろう。しかし、この件に関してだけは、少年が素直にいうことを聞くとも思えなかった。


 ――あんなにいうこと聞いてたのにねえ。


 少年が色々と手伝っていたことを思い出し、自然と笑みがこぼれる。

 エマは(ふところ)に忍ばせていた短剣を取り出した。


「どうせ止めたって、聞きやしないんだろう」


 少年から返事はなかった。ただ、こちらに向けられていた視線がそっと外される。

 エマはそれを肯定として受け止めた。

 隠し持っていた短剣を握りしめると、少年の足元に向かって放り投げる。

 弧を描いて落ちた短剣が、乾いた音を立てた。


「手ぶらじゃなんだろ? 護身用だよ。持っていきな」


 カリムは足元に落ちた短剣と、エマの顔を交互に見つめた。

 迷ったのはほんの一瞬。エマから目を放さずに、カリムは短剣を拾い上げた。無言のまま目礼する。

 カリムは短剣を胸に抱き込むと、身を(ひるがえ)し、森の奥へと駆けていった。

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