正体(1)
カリムは声が漏れないよう、両手で口を押さえた。
張り詰めた緊張が室内を満たす。
首筋を厭な汗が伝った。
――ずるり。
床から生えたそれが、地面に手をつき、這い出してくる。
頭、肩、胸、腰――……。
カリムはまばたきすることはおろか、呼吸することさえうまくできないでいた。
時間にして数秒のことが、ひどく長い時間のように感じられる。
それが、全身を現した。身体についた埃を落とすように手で払う。
その様子を息を詰めて見つめていたカリムは、あることに気が付いた。
その頭に乗っかっている帽子には見覚えがある。
特徴的なその赤い帽子は――
「……グリード?」
カリムは、緊張にかすれた声を絞り出した。
少年の声に気付いたそれが、ゆっくりと振り向く。
赤いドゴール帽に年季の入ったマント。
浅黒い肌をしたその小男は、カリムの姿を認めると、両手を広げて近づいてくる。
「よお**! カリム***? ******、*******」
その明るい声に、場の空気が一気に緩んだ。
少年のそばまで来たグリードは、白いギザギザの歯をのぞかせると、椅子の上に立ったままの姿勢で固まっているカリムの脚を、ぽんぽんと叩く。
「****か?」
何を言っているのか聞き取れず、カリムは首を傾げた。
そんな少年の様子に、グリードは自らの額に手を当てた。
「****、*****ない****」
何やらぶつぶつ呟いているが、何を言っているのかはわからない。
――なんだろう。塔の人達って、地面から生えるの好きなのかな。
そんなことを考える。
正直、カリムは混乱していた。
何もない床から突如、グリードが現れたのだ。
そうかと思えば、少年には理解できない言葉で話しかけてくる。
理解の追いつかないこの状況を思えば、少年の頭がパンク寸前であったのも、無理からぬことだった。
「****!」
声がして、反射的にグリードを見た。
グリードは、別れの挨拶のように右手をあげて、踵を返すところだった。
「待って!」
少年は立ち直るのも早かった。ここのところ、驚くようなことが立て続けに起きて、耐性がついていたのかもしれない。
カリムは慌てて椅子から降りると、そのマントの裾をしっかと握り込んだ。
グリードは予期していなかったのか、勢いよく前につんのめる。
ごんと鈍い音がしたので、こらえきれず、どこかを床にぶつけたのかもしれない。
「***?」
グリードは打ち付けた鼻をさすりつつ、振り返る。
見れば、カリムがマントの裾を掴んでいた。
「おい、***!」
グリードは何やら口にしながら、掴まれたマントをぐいぐいと引っ張った。
しかし、少年も必死である。
理屈はよくわからないが、グリードは床から這い出してきた。
そうであれば、カリムをここから連れ出すことも出来るのではないか――これを逃したら、ここから出るチャンスは二度とないように思える。
カリムは掴んだマントを放すまいと、強く握り込んだ。
「あ―! **っ! オレ***ない*****!?」
グリードが一際大きな声を出した。
その時だった。
――コンコン
扉をノックする音が室内に響く。
カリムとグリードは、同時に動きを止めた。二人は音のした方――部屋の入口へと、ぎこちなく顔を向ける。
そうだった。グリードに気を取られ、すっかり忘れていたが、部屋の外には男の人が一人、いたんだった。
扉の外から声がかけられる。
「カリム様、何かありましたか?」
カリムとグリードは顔を見合わせた。
グリードが顎で扉を指し示す。
グリードに促され、カリムは扉の外に向かって声を出した。
「――なんでもありません」
扉の向こうから、やや間があって、「そうですか」という言葉が返ってきた。
「何かございましたら、ベルでお呼びください。私はここにおりますので」
「わかりました。おやすみなさい」
扉の向こうから「おやすみなさいませ」と声がする。
ということは、本当に朝までいる気なんだな、とカリムは思った。
少しのやりとりのあと、部屋には静けさが戻った。
カリムとグリードは安堵して息をつく。
グリードと目が合った。未だ解放されないマントの裾をグリードが指し示す。
カリムは首を横に振った。
少年に放す気がないのを見て取ると、グリードはやれやれと肩を竦めた。そうして、マントの下をごそごそとまさぐる。
「*****、***********」
相変わらず、何を言っているのか聞き取れないが、その声音にはあきらめのようなものが滲んでいる。なんだろうと思って見ていると、グリードが被っている帽子と同じ物を取り出した。
「********っ」
グリードは何事かささやくと、手にした帽子を乱暴に被せた。
次回の更新は、明日2/8㈮の予定です。