ひとり
カリムが姿を消してから数日が経った。
ここのところ姿を見ないと思っていたグリードが、久しぶりに顔を出した。
どうやら森の完成を急ぐため、人員を増やすことにしたらしい。地下から新たに人を連れてきていた。
ヴァイオレットは昼間、皆に交じって地面に血を撒き、夜になると皆が過ごす塔ではなく、カリムと過ごした地上の家に行く。
カンナはと言えば、地上の家ではなく、塔で過ごしていた。もしかしたら、彼女なりに気を遣ってくれたのかもしれない。なんとなく一人になりたかったので、そうしてくれている事がありがたかった。
今日の作業を終え、皆と別れて地上の家へと戻ってきたヴァイオレットは、窓辺に椅子を寄せると、そこへ身を預けるようにして座った。
ぼんやりと窓の外を眺める。
カリムを拾ったのは単なる気まぐれだった。カンナの言う通り、兄への思慕も含まれていたのかもしれない。
けれど、拾った少年は兄とは似ても似つかなかった。
兄も自分も、親から酷い扱いを受けたことがない。
だが少年は違った。その全身から、その痕跡は色濃く露わになっていた。
身体に浮かんだ痣、染みついた習慣、何気ない仕種――あんなにも人に気を遣えるのは、はたして彼の「優しさ」からくるものだけだったろうか。
胸に鈍い痛みを感じ、ヴァイオレットは椅子の上で膝を抱えた。
カリムと過ごしたのは、ほんの数日。
そのはずなのに、こうして離れてみると心に亀裂が入ったようで、そこから生じる空ろな穴は、日を追うごとに大きくなってきている。
ヴァイオレットは肌に伝わる部屋の空気がいくらか冷えたような気がして、膝を抱く腕に力を込めた。
カリムがいなくなった日――。
ヴァイオレットは“連れていかれた”のだと思った。
ヴァインは“連れて行ってもらった”のだと言った。
――どっちなんだろう。
窓の外、真っ暗で何も見えない空間を見つめる。
ふと、窓に映った自分の姿が目に入った。
地上に上がるまで陽にさらされることのなかった肌は、少し赤みを帯びているものの、依然として透き通るほど白い。そこには葉脈のような血管が精緻な線を描いている。
カリムの日に焼けた肌とは明らかに異なる、それ。
そもそも共に暮らせると思ったこと自体、間違いだったのか……。
認めたくなくて、首を軽く横に振る。けれど一度浮かんだ考えは、そう簡単には消えてくれそうになかった。
カリムを拾った当初、彼の顔はうつむきがちで、血色も悪く、焦点も定かではない有り様だった。
二人の間には緊張を孕んだ壁が、はっきりと存在していた。
しかし彼と過ごすうち、その壁も徐々に薄くなり、随分と打ち解けたように感じていたのに――。
ヴァインの言葉が脳裏によみがえる。
“村の奴らを皆殺しにしたんだぞ!”
息が詰まった。
もしかして、カリムは自分達といた間、その胸の内に、ずっと恨みを抱き続けていたのだろうか。
ヴァイオレットは、長いまつげをそっと伏せた。
意識を集中させると、ここから遠いその場所に、自分と同じ気配――カリムの気配を強く感じる。カリムにつけた“所有の印”は、今もその在処をはっきりと示していた。
初めは呼ぼうかとも考えた。
呼びさえすれば、その「命令」に従って、カリムは戻って来るに違いない。
――命令なんてしないもの。
どの口がそんなことを言っていたのか。思い出し、自嘲する。
ヴァイオレットはのろのろと重い目蓋を持ち上げると、明かりもつけていない室内に目を向けた。
数日前までそこにあった光景が、ありありと浮かぶ。
結局のところ、少年を呼ぶことはせずに、こうして一人で過ごしていた。
理由が何であれ、彼が戻って来るにしろ来ないにしろ、命令なんかであって欲しくはなかった。
……――キィ。
背後で扉の開く音がした。
まさか、という思いで振り返る。
期待を込めて向けた視線の先――しかしそこに、彼女の望んだ姿はなかった。
「カンナ……」
思わず漏れた言葉には、自分でもはっきりとわかるほど、落胆の色が濃い。
当たり前だ。彼の気配は未だ遠くにあるのだから。
「……なんか、悪かったわね?」
何に期待していたのか、気付いたカンナは謝った。
「ううん、こっちこそ」
ヴァイオレットは頭を振った。
勘違いしたのは自分の方だ。カンナに非はない。
カンナは明かりの灯ってない室内を見回すと、「暗いわね」と口にしながら椅子を持って近付いてきた。ヴァイオレットの横まで来ると、その背もたれ部分を窓側に向けて置く。カンナは椅子にまたがると、その背を抱くようにして顎を乗せた。
そうして二人、真っ暗で何も見えない窓の外を見る。
遠くで何か、鳴く声がした。
「こっちに来るなんて珍しいね」
カンナの方を見もせずに、「どうしたの?」と問いかける。
「なんとなくね」
「……そう」
会話は長くは続かない。自然と静かな時間が積み重なる。
「てっきり……」
椅子の背にもたれていたカンナが、顔だけヴァイオレットに向けた。
「探しに行くもんだと思ってたわ」
そうすると思っていたから、塔に戻らない彼女のことを放っておいた。
しかし、予想に反してヴァイオレットは昼にはきちんと顔を出していた。カリムのことを探しに行ったのならば、昼間に彼女の顔を見ることはなかったはずである。
ヴァイオレットはくすりと笑った。
「それもちょっと考えた」
「考えたのか」
カンナは苦笑を漏らすと右手を軽く握り、ヴァイオレットの頬に緩く当てる。
ヴァイオレットは目を細めると、その手に軽く頭を乗せた。
カンナはヴァイオレットの頬から手を離すと、彼女の頭を自分の肩へと引き寄せて、慰めるように毛束の少ないその髪を撫でる。
「カリムのこと、呼び戻さなかったのね」
ヴァイオレットはぎくりとした。呼び戻しはしなかったが、一度はそれも考えた。
「命令なんて……しないもの」
答える声は自然と弱く、途切れがちなものとなった。
「そうだったわね」
カンナはそれ以上、何も言わなかった。
だからヴァイオレットも黙っていた。
カンナがヴァイオレットの長い髪を梳く。
ヴァイオレットはそっと目を閉じた。
次回の更新は、明日1/18㈮の予定です。