自問
カリムはルイスの案内で、邸の西側、廊下の一番奥にある客室へとやってきていた。
部屋に通されたカリムは、部屋の真ん中に突っ立ったまま、ポカンと口を開けていた。
(ここもすごい……)
部屋の中央に置かれたテーブルセットは、細部にまでこだわって彫られた彫刻が見事であるし、見るからに豪華なベッドは、布団の中に何か詰めてあるのか、柔らかそうな膨みをもっている。
「自由に使っていい」と言われたが、くつろげるかは甚だ疑問だった。
カリムの後について部屋に入ってきたルイスが、そんなカリムに声をかける。
はっと我に返って振り向くと、音も立てずに近寄ってきたルイスの手には、蒸しタオルが乗せられていた。
夜遅くにも拘らず、身を清めるためにと持ってきてくれたらしい。
「すみません、浴室が準備できなくて」
「いえ、あの――ありがとうございます」
お礼を言って受け取ると、ルイスが「手伝いますか?」と聞いてくる。
カリムは一瞬、「何を?」と思ってきょとんとしたが、すぐに思い至って、慌てて首を横に振った。
先日、ヴァイオレットに衣服を剥ぎ取られ、全身くまなく洗われたことは記憶に新しい。それが例え同姓であっても、初めて会った人にわざわざ手伝ってもらうのは抵抗がある。
「じ……自分で、できます」
それを聞いたルイスは、カリムの着替えを用意して一礼をし、部屋から出て行った。その姿を見送って、ホッと安堵の息を漏らす。
テーブルに置かれた洋灯が室内を静かに照らす中、カリムは汚れた上衣を脱ぐと、大き目の蒸しタオルに顔を埋めた。
柔らかな生地のタオルは程好く温められており、こうして顔に当てていると、この数日、馬に揺られて固くなっていた身体がほぐれていくのを感じた。
カリムはタオルで身を清めながら、先程、ジェイダという眼鏡をかけた女性が言っていたことを思い出す。
――怖い思いをしたんでしょう?
あの瞬間、感じたのは驚きと違和感だった。
「はい」とも言えなかったし、「いいえ」とも言えなかった。
(怖かった……のかなぁ)
確かに目の前で父親が倒れたのを見たときは、本当に怖かった。
カリムはあの時の光景をまざまざと思い出し、全身が粟立つのを感じた。
ふと、手に持ったタオルに視線を向けると、カタカタと震えている。
おそらく手だけではなく、全身が小刻みに震えているものと思われた。
カリムは震えを抑えようと、タオルを羽織るように肩にかけ、前で掻き合わせると強く握る。
しばらくそうしながら、ヴァイオレット達と共に過ごしたこの数日のことを思い返した。すると、次第に震えが収まってくる。
カリムは短く息を吐いた。
(なんでだろう……)
ヴァイオレット達の事を不思議と怖いと思わないのだ。
「怖い」というなら、父親と一緒にいた時の方が、よほど怖かったように思う。
怒鳴られたり、殴られたりするのが当たり前で、いつもビクビクしていた。こうやって思い出すだけで、お腹の辺りがじくじくと痛む。それが常態化してしまっていたカリムにとって、父親と暮らした日々は生き苦しいものだった。
それに比べ、ヴァイオレット達と過ごした時間は穏やかであったように思う。
思い返してみると、彼女らが声を荒げることはほとんどなかったし、ましてや手を上げるということなどなかった。
ただそれだけで、世界はあんなにも穏やかに感じるものなのか――。
(ビオレたちがお父さんたちを殺したことには違いないのに……)
そんな彼女達を「怖い」と思えない自分は、どこかおかしいのだろうか。
そうやって思考をさまよわせていたら、目に熱いものが溜まるのを感じた。
父親達が殺されて悲しくなったのか、それをしたのがヴァイオレット達だということに悲しくなったのか……。
判然としないまま、カリムは滲む視界の中で、そっと自分のやせた腹を撫でた。
そこにあったはずの無数の痣は、今ではすっかり消えてしまっている。
(もしかして、ビオレの血を飲んだから――?)
身体の痣が消えたように、自分の中味も変わってしまって、ヴァイオレット達のことを怖いと思わなくなったのだろうか。
カリムはのろのろと肩に回していたタオルを外すと、椅子の背もたれにかけた。
用意してもらった着替えに袖を通す。
テーブルに置いてあった洋灯を消すと、カリムはそろりとベッドに近付き、柔らかな布団の中へと潜り込んだ。重さを感じないそれを頭まで引き上げて、すっぽりと包まる。
(アレを飲む前はどうだったっけ……)
いつから「怖い」と思わなくなっていたのか。
境界線は曖昧で、はっきりとは思い出せない。
カリムはうつらうつらする意識の中で、いつ――と自分に問いかけていたが、いつしかその思考も途切れ、深い眠りに沈んでいった。
次回の更新は、1/17㈭の予定です。