番外編02:渉紗枝と安曇蓮②
タクシーの中で大人しくしていたのは、紗枝にとっては最大の譲歩だったのかもしれない。
ずぶ濡れの陰鬱な表情の女子高生と不審な男の組み合せを、何も言わずに乗せてくれたタクシーの運転手に礼を言い、釣りはいらない旨を告げてタクシーを降りた。車内を濡らしてしまった迷惑料にもならないが気持ちの問題だった。
自宅の門の前まで来ると紗枝の腕をとる。
「早く入らないと濡れるぞ」
「もう濡れてるし」
ぼそりと呟く。
紗枝はさっきとは正反対のうつろな目をして、蓮の自宅を見上げた。
「……あいかわらずでかい家」
微かに動く青白い唇に、懐かしさがよぎる。
「何の躊躇もなくタクってくるし、さすが大病院の御曹司」
言葉だけで声に力がない皮肉に、
「減らず口叩いてないで、さっさと入れ」と答えて門の中に身体を押し込む。
ふらりと紗枝は歩き出した。
そのまま母屋には入らず庭を突っ切って、離れへと向かう。
離れは既に家を出た兄と蓮だけが使っていたので、2年前から蓮と家政婦がたまにハウスクリーニングの為に入るくらいだ。
鍵を開け、ドアを開くと紗枝を先に入れた。
「先にオレの部屋に行ってろ。場所わかるな?」
「……廊下の突き当たりを左」
「そうだ。待ってろよ」
先に浴室に行って着替えとタオルを持っていこうとしたのだが、じっと紗枝に見つめられているのに気づいた。
「何だ?」
「別に」
ふいと目を逸らしてペタペタと音を立てて廊下を歩いていく。
睨むとも違う。
以前は気が付くと、よくあんな目で蓮のことを見ていた。
物言いたげな、なんて可憐なものではなく、もっと強い視線。
浴室でタオルを出して、自分は着替えたのちに部屋に戻ると、幽鬼のようにぼんやり立っている紗枝がいた。
「タオルと着替え、持ってきてやったぞ」
「これ、蓮先輩の服?」
「他に誰の服があると?……ああ、兄貴の服がちょっとあるが、それよりもでかいぞ」
平然と答えるふりをしながら『蓮先輩』という懐かしい呼び方に、少しだけ胸が締め付けられる。
「ふうん」
ブレザーのボタンに手を掛け脱ぐと、紗枝は当たり前のようにスカートのホックをはずした。パサリとプリーツスカートが足元に落ちる。
伸びやかな足が露わになってぎょっとする。
「おい、ちょっと待て。今廊下出るから」
「出てくことないでしょ」
「紗……」
「今更裸くらい。見飽きるほどではないけど、お互いに見知ったモンじゃないですか」
静かな声とボタンをはじく音。
肩からシャツを落とし、そのまま脱ぎ捨てると下着だけの姿で蓮を見る。
「先輩とは3回キスして2回セックスして……その2回とも、この部屋でしたよね。そういえば」
艶めかしい紗枝の肌に、ぞくりと背中に寒気が走る。
「その間に、一度も好きだって言わなかった。先輩も私も」
微かに低く上ずる声に、何か脳裏に引っ掛かるものを感じて、口を開こうとした時
「なーんてね。今更どうでもいいですけどね!……あー寒」
手にしていた長袖のTシャツをかぶる。
「あ、上はけっこうちょうどいい。でもスウェットのウエストは緩い。これ立ったら落ちそうだなー。ま、いいか」
ケロッとした様子でそういうと、紗枝は顔をあげた。
「先輩の家、乾燥機ありましたっけ?」
「乾燥機はないが、浴室のエアコンをつければ乾かせる」
「制服乾かしていい?」
「……ああ」
「んじゃ、ちょっと乾かしてきます」
そう言って、さっさと部屋を出て行った。
ドアが閉まると、一気に肩から力が抜けた。
***
「先輩、お茶入れてきました」
部屋に戻ってきた紗枝が、どうやら浴室の隣にあるキッチンを漁ったらしく、紅茶の入ったマグカップを二つお盆に乗せてきた。
「あぁ、悪かったな」
マグカップの一つを差し出されて受け取る。
「勝手に台所あっちこっち漁っちゃいました。相変わらずどこもかしこも小奇麗だった。家政婦さん来てるんだっけ?」
「ああ」
「ですよね。受験生が家事までやってられるわけないし」
そういうとフローリングに直接お盆を置いた。
机とベッド。それに本棚しかない部屋で、テーブルはない。一つしかない椅子は蓮が座っているので、ベッドにでも座るかと思ったが、紗枝は勝手に転がっていたクッションを敷くと、その上に座った。
以前はベッドに勢いよく飛び込むように座るので、よく注意をしたものだったが。
そんなことをぼんやり思い出しながら、紗枝の入れてきたお茶を一口含むと、ちゃんと紅茶のいい匂いがした。
「お前は、茶を入れるのだけはうまいな」
「ん?ああ、奈江ちゃんに仕込まれたから。あの子適当にお茶入れると、嫌な顔をするんです」
「双子の妹は元気か?」
「元気ですよ。相変わらず可愛い。いや、前より可愛いかも。麒麟とラブラブでいま幸せの絶頂だからかな」
「衣笠?」
「そう、例の入れ替わりの件以来ね。まあ、見てて微笑ましいですよ」
そういうとマグカップを両手で持って、ずずっとお茶を啜る。
窓の外に視線をやる横顔を眺める。
紗枝は普段、たいていのことが表情に現れるので非常にわかりやすい。だが、時折、本当にごくたまに感情の読み取れない表情をする。
そんな紗枝を見ると、妙に心がざわついて余計な事と知りつつ、世話を焼いた。
「紗枝」
「なに?」
「さっきの話だが」
「どのさっき?覚えてないです」
「だから……」
「どうでもいい」
切って捨てるような声音に、軽く苛立つ。
「オレはどうでもよくない」
不機嫌に言い放つと、意外そうに紗枝は目を丸くした。
「へえ」
「なんだ?」
「意外にしつこいんだ、蓮先輩」
「……っ、悪かったな。でも、普通は気になるだろう。オレはお前に振られたと思っていたんだ」
「だからふってない……」
何か言いかけた紗枝の唇が動くのを無視して、続ける。
「お前は違うと言うけど、二重帳簿の件を調べ始めてから、お前はオレの傍に寄り付きもしなくなったな」
紗枝は気まずそうに視線を落とす。
「それは……ちょっといろいろあって」
「佐藤と一緒にオレも裏金を使い込んでいるかもと思ったからか?」
「…っ…。」
「だからオレのことも警戒したのか。……最後にオレに言い捨てた『敵になるかもしれない』ってそういう意味だったのか?」
「先輩、元副会長の使い込み……気づいていたんですか?」
「具体的な内容を知ったのは、生徒会選挙の直前だ」
紗枝の目が見開かれる。
「オレの立場を利用すれば、お前たちが調べるより遥かに簡単に事実にたどり着けた。佐藤が裏金に手をつけた形跡は呆れるほどところどころに残っていた。
その事実を目の当たりにした時に、お前が何を危惧して、オレの何に失望して離れて行ったのかだいたいの想像がついた。想像がついたと同時に落ち込んだけどな」
蓮は苦笑を浮かべる。
「お前から見て、オレはケチな使い込みをするような人間に見えていたのかと」
「それは違います。蓮先輩のこと疑ったことなんてなかったですよ」
視線を合わせずに紗枝が言う。
「ただ佐藤元副会長のことを信頼してるっぽかったし、知らないなら、知らないままでいいとは思っていましたけど」
そう言ってから、紗枝は自分のことを抱きしめるように膝を抱えた。
「……アノ人、他の生徒会メンバーを舐めてたんですよ。そのくせ蓮先輩には変な風に心酔してて、『あの人のできない汚い仕事をするのが、オレの使命だ』とか、自分に酔っ払ってて、そのくせ自分の欲求だけはきっちり満たしててマジでキモかった」
膝に額をつけたまま、不明瞭な声だけが響く。
「あの人の言うことって、いつも見当違いの斜め上で、ホント聞くに堪えなかったけど、でも一個だけ、馬鹿に出来ないことがあって……」
いつもの凛と響く、快活な声が濁る。
「アタシみたいなガキ、蓮先輩がまともに相手にするわけないし、そもそも難関受験の先輩が彼女なんて作っている暇ないって。でも私ならメンドクサク無さそうだし、卒業までのストレス解消の……『出す用』にはちょうどいいかもって」
まるで気の弱い少女の様な、震える声。
彼女の双子の妹が、素の時にこんな話し方をしていたが、それよりもずっと頼りない。
「おい、まさかそんなことで……佐藤に言われたことを真に受けて、お前オレを避けるようになったとかじゃないよな、まさか?」
「そ、それだけじゃないけど」
もごもごと言うのに、紗枝がちらりと蓮を見上げる。
「……言いたくない」
「はぁ?」
「もう、いいでしょ、別に!どうせ先輩は東京の大学行っちゃうんだしっ」
「良くないから聞いてるんだろうが!」
「なんでよ。ともかくいろいろあったから、先輩から離れたんだよ!」
「なら、やっぱりオレがふられた感じだろうが、それ!」
「違う。先輩が……っ」
「オレがなんだ?」
きつく口を引き結んで黙り込んだ。
強情な。
「ここまで来てだんまりは卑怯じゃないのか、紗枝」
「……立ち聞きを」
「ん?」
「先輩が、執行部の山根先輩に告られているのを立ち聞きしてて……その時に、誰とも付き合う気はないって、言ってたから」
一瞬、山根という名前に、相手の顔を思い出すこともできなかった。
だが生徒会に入ることはなかったが、3年間執行部で何かと真面目に仕事をしていた慎ましやかな少女の顔をやっと記憶の中から探し出す。
「誰とも付き合う気がないなら、やっぱり私とも付き合っているつもりはないんだなって……そう思ったら、耐えられなかった。先輩がそれでストレス解消になるなら、それでもいいけど……それだけじゃ、やだ」
紗枝の最後の言葉は消え入りそうに掠れて響いた。
蓮はと言えば、開いた口がふさがらなかった。
言いたいことも突っ込みどころもありすぎて、どこから話せばいいのか。
「お、まえなあ……」
イラついた声音に、逆切れをしたのか紗枝が殺気立った目を向ける。
「何よ?」
「いつもは自信満々で、天上天下唯我独尊のバカなのに、どうしてそんな時ばっかり人の言うことを素直に聞くんだ?」
「だって……っ」
「佐藤の言うことなんて、適当に決まってるだろう。それに誰とも付き合う気はないって、それは『お前以外と』って意味だろうが!」
「そんなの言ってなかったし!」
「言わなくても、普通はそう思うだろ!っていうか、そこは理解しろよ。お前」
「そんなことできない。だって何回セックスしたって、好きって言ってもらってないもの」
そう言われると言葉に詰まった。
だが好きでもない女に手を出すほど、暇でもないし、いい加減なつもりもない。
なんでそんなことも分からないのだ。このバカ女は。
「お前だったらいっそ、そういう時ははっきりオレの真意を聞いてくるものかと思ったがな」
ほぼ八つ当たりだと自覚はあった。
非は自分にも多々あるのに、まるで紗枝一人の勘違いを責めるように。
だが紗枝は言い返しもせず、肩を落とした。
「……それは先輩の思い込みですね。そんなことができるくらいなら、人が一生懸命告白している場所にこそこそ行って、立ち聞きなんて格好悪い真似しない」
泣き笑いの様な表情を浮かべて、紗枝は顔をあげた。
「だから結局、蓮先輩がフラれたんじゃなくて、私が耐えられなくて逃げたんです。先輩は何も悪くない。……これですっきりしました?」
紗枝がふらりと立ち上がる。
「今まで八つ当たりしてすみませんでした。着替えて、帰ります」
ぺたぺたとやはり足音を立てて、ドアに近づく。
「大学合格おめでとうございます。それじゃ、お元気で」
振り向きもせずに言う、穏やかな声。
その背中に無性に腹が立った。
椅子から立ち上がり、紗枝が開きかけていたドアを、背後から手を伸ばして閉めた。
よほど驚いたのか、身体をびくりと震わせて肩越しに紗枝が振り返る。
「ちょっと待て」
「……は」
「話はまだ終わってない。勝手に帰るな」
「って、そんなこと言われても……これ以上何を」
途切れながら言う紗枝の肩を掴んで、正面を向かせる。
壁に背中をつけて、戸惑った目で見上げる紗枝にいつもの強気な面影はない。
いつも凛として揺るがない目をしている紗枝が、どうしていいのかわからずに立ち尽くしている。その様子にイラつきながらも、妙に心がざわつく。
「……むしろ、ここからだろう。話をまとめると」
「え?」
本気で驚いたように紗枝が蓮を見上げる。
「オレはお前に情けない男だと判断されて、見限られたと思っていた。お前はお前で使い捨ての女にされていると勘違いしていた。でも事実はそうじゃないな?」
「……そ」
「好きだ、紗枝。あの時から、オレの気持ちは何も変わってない」
紗枝の頬がみるみる上気する。
「お前はどうなんだ?やっぱり、オレにはもううんざりか」
「私は、先輩が……」
そこまでいうと、紗枝の手が蓮の腕に触れた。
助けを求めるように。
潤んだ目と薄く開いた唇に吸い寄せられるように、蓮が顔を近づける。
唇を重ねても紗枝は拒まなかった。
だが答えることもしない。
柔らかな唇は迎え入れるように薄く開くのに、舌を差し入れれば怯えたように身体を震わせる。
何度も深く口づけて離すと、ドアにもたれたままずるずると紗枝の身体が崩れた。かろうじて腰を押さえたが、そのまま床にしゃがみこむ。
小さく肩で息をする様は、ひどく色っぽい。
「ぁ、せんぱ……ぃ」
頬を上気させ、腰が抜けたように、ドアにもたれて蓮を見上げる姿に、尾てい骨から背中に甘い痺れが走る。
しゃがみこんだまま頬を指で撫でると、猫のように目を閉じた。
「お前の気持ちを聞かせてくれ」
「わ、たし……」
目を開くと紗枝は蓮の首に抱き着く。
「……き、……蓮先輩」
蓮にしか届かないような、かすれる声で密やかに耳朶に囁く。
細い身体を強く抱くと、首筋に口づける。
「……れん、せんぱ……」
「紗枝」
何度も首筋を唇で伝い、舌を這わせる。
「ん、ん、先輩、ゃ、ア」
拙い喘ぎ声に、熱が腰にたまり重く淀む感覚が襲う。
しばらく忙しくて一人でも処理しなかったせいか、簡単に欲望の証が露わになった。
服の上からでもわかるそれを紗枝が潤んだ目で見ると、膝を曲げてふとももで触れた。
すり…っとジーンズの上から擦りあげるような動きに、かすかに呻く。
「……っ、煽るな」
「だって先輩、苦しそうだから」
「そういう態度だと、このまま無理やり抱かれても文句は言えんぞ」
そういうと、紗枝は小さく笑った。
「こんなところまでのこのこついてきたんだから、最初からなにされても文句は言えないでしょう」
どちらからともなく唇を重ねると、何度も舌を絡める。
「ん、先輩、ベッド……」
「わかってる」
キスをしながら紗枝の身体を抱き上げて、ベッドに運ぶ。
2mもない距離がもどかしい。
紗枝に覆いかぶさるようにベッドに倒れ込む。
改めて抱いた身体の柔らかさに、違和感を覚えて、紗枝の身体に手を這わす。
「…ひゃ……ぅ、せんぱ……?」
くすぐったがって身体をよじるのに、蓮はそれでも逃げる身体を引き戻した。
「紗枝、お前。……なんで下着つけてないんだ?」
Tシャツをまくり上げるのに、紗枝は慌てて蓮の手を抑える。
「ちょ……っ、先輩、ダメ。これは……さっき制服干しに行った時に、下着まで濡れて気持ち悪かったから、……服着ちゃえば、わからないし……っ」
「いくらなんでも抱き着いたらわかるだろう」
「だって、こんなことになると思わないから……、ぁん」
Tシャツを腕から抜かれて、胸にキスされると紗枝が甘く声を漏らす。その間にもスウェットのズボンをズリおろすと、蓮は呆れたように「下もか」と呟く。
「だから、服着てたらわからないと思ったから……!」
「別に好都合だからいい」
真っ赤な顔で言い訳をする紗枝にかまわず、スウェットを奪い取る。
紗枝に軽くキスをしてから、体を起こすと自分もシャツのボタンをせわしなく外して、脱ぎ捨てる。
それを見上げていた紗枝が、何か言いたげに見ているのに、再び身体を重ねて顔を近づける。
「どうした?」
「あの……、久しぶりだから、うまくできないかも」
「いい。とりあえず今日は、何もしなくていい」
「でも」
「何も考えないで、力抜いてろ」
「…………はい」
恥ずかしそうに、だが素直に返事をする紗枝に、蓮は苦笑いを漏らす。
「前から思っていたんだけど」
「え?」
「お前ベッドの中だと、借りてきた猫だな」
「な……っ」
「普段もこれくらい素直ならいいんだが」
「悪かったですね、どうせ素直じゃないしガサツだし」
胸元を隠しながらぶつぶつ言っているのにかまわず、左右の手を両脇に押さえつける。
露わになった胸の先端にキスをすると、びくりと身体を震わせた。
「……蓮先輩だって、ベッドの中みたいに優しければいいんですよ、普段は説教ジジイなんだからっ」
「説教ジジイ……って、お前な、ひとつしか違わないだろうが」
「ぅ、ん、や、……そんなの、いきなり、ア、ぁあ……ばかぁ、えっち、や、へんたい、せんぱいのへんたいじじいっ……あ、あぁ、やぁー……」
憎まれ口を叩く声は、やがて甘く絶え間ない喘ぎ声に変わった。
外からの雨音は止み、ベッドの軋む音が雨の薄暗い部屋に響いていた。
***
目が覚めると、すっかり制服が渇いた紗枝は着替えてスマホで誰かと話していた。
「……うん、それじゃ。これから帰るよ。大丈夫。お母さんにも伝えておいて。うん、……じゃーね、またあとで」
通話が切れたのを見計らって腕を伸ばすと、その細い腰を攫う様に引き寄せた。
「わ!?……びっくりした、先輩、起きてたんですか」
「……今、な」
そういってベッドに紗枝を引き摺りこむ。
「制服しわになるから、やめてください」
腕の中に抱きしめると、迷惑そうに紗枝が言う。
可愛くない。
さっきまではあんなに可愛くしがみついたり、拙いながらも艶めかしい声を上げたりしていたくせに。
シャワーを浴びたのか、馴染んだシャンプーの匂いがする。
「帰るのか?」
「はい、もう結構遅い時間ですし」
そういってもぞもぞと蓮の腕から抜け出すと、紗枝は乱れた制服を整えた。
蓮も、のそりと起き上がる。
「送る」
「大丈夫ですよ」
「もう外は暗いんだろう。せめて駅まで送る」
そういってベッドサイドに落ちていたシャツを拾うと、身に着けた。
「あ、そうだ。ちょっと待て。紗枝」
早く家に帰りたいのだろう。そわそわと部屋の外を眺める紗枝に、机の上のメモで走り書きした住所を渡す。
「これ、4月からの住所。お前、オレの携帯の番号はまさか消してないだろうな」
在籍中は生徒会の元メンバーということで、何かと連絡が必要だったから登録は消していないだろうと思ったが、卒業した途端に削除している可能性もある。
紗枝ならやりかねない。
「偶然ですね。今日明日にも消そうと思っていたところでした」
「……お前な」
「冗談です」
そういってメモを受け取る。
「それにしても……」
ふっと、口元を歪めて笑う。
「今日合格発表だっていうのに……、やっぱり先にいろいろ手続きしてたんじゃないですか。やはり落ちるとは露ほども思ってなかったんですねぇ」
「やめろ、その笑い方は。たまたま親戚の持っている物件で、空き部屋だから受かったら貸してやると言われていただけだ」
そういってから咳払いする。
「このまま連絡先を教えなかったら、お前のことだ。ヤリ逃げとでも思われかねん」
紗枝はきょとんとして、それから微笑んだ。
「……もう、そんなこと思いませんよ」
これまで見たこともなかった、柔らかな笑みに見惚れる。
こんな笑い方ができる女だったのかと。
「何か困ったことがあったら、連絡して来い」
「困ったことがあったとしても、自分で解決できちゃいますし、私。生徒会の仕事に関しても、私が選んだ最強メンバーが揃ってますしー。先輩に御出座願うことなんてありえないですねー」
歌う様に言うと、それから上目づかいに蓮を見た。
「でも蓮先輩が寂しいだろうから、たまには連絡してあげてもいいですよ?」
気の強そうな切れ上がった目が、イタズラっぽく楽しそうに細められる。
そんな顔も可愛く見えてくるのも、惚れた欲目というものだろうか。
「どうして素直に『その時はお願いします』といえないんだ。お前は社交辞令というものを、いい加減、身に着けろ」
「先輩相手に社交辞令なんて無駄ですし。それに用がなくても連絡したいですからね」
にっこりと笑って見せる。
「……ドヤ顔で何を言っている」
「先輩こそ顔が緩んでいますよ」
紗枝は楽しそうに笑った。
その表情に、艶やかな桜が舞い散る風景を思い出す。
桜の舞い散る中、初めて言葉を交わした。その時の艶やかな笑み。
おそらく一目ぼれだったのだろうと、今ならわかる。
一生本人には言わないだろうけどな。
蓮は心の中で呟く。
「先輩、先に玄関に行ってますから」
「ああ」
ジャケットを手に窓から外を見ると、曇天は晴れた空に変わり、輪郭の柔らかくぼやけた月がふわりと浮かんでいた。
これで番外編も終わりです。
ここまで読んでくださった皆様、ありがとうございました!




