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北辰の冥影 ~将門炎舞記~  作者: 浮島太郎
怨と義の京召喚

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忠平邸・夕映えの訓戒

 京の夕暮れ、朱塗りの四足門(よつあしもん)が静かに開くと、将門と国豊を乗せた馬は、まるで雅楽の調べに導かれるように忠平邸へと進んでいった。白砂は夕陽を受けて淡く金を散らし、松の枝は風に揺れ、影が庭に細い文様を描く。池には薄紫色の空が映り、鯉が水面を割るたび、光がゆらりと揺れた。香炉からは沈香(じんこう)がほのかに漂い、邸内は、まるで時間そのものが緩やかに流れる別世界のようであった。

 家司(いえのつかさ)が深く頭を下げる。

「太政大臣・藤原忠平卿がお待ちでございます。」

 懐かしい西対(にしのたい)には檜の香りが満ち、几帳の向こうからは女房たちの衣擦れがかすかに聞こえる。

 その奥に、白髪まじりの忠平が静かに座していた。

 顔がふっと緩む。

「……おお、国豊。そして将門。よく来た。」

 国豊は深く頭を垂れた。

 胸の奥に、幼い日の記憶がふっと蘇る。

 宇治木幡別業(別邸)の庭、笛の音、忠平の大きな掌――あの温もりが、今も確かに残っている。

 将門も膝をつき、滝口の侍として仕えた頃の礼を取った。

 その胸には、

「この人だけは裏切ってはならぬ」

 という静かな敬意があった。

 忠平は二人を見つめ、目を細める。

「幼い国豊を童殿上(わらわてんじょう)として宮中に上げたのは……もう二十年も前か。」

 国豊の胸が熱くなる。

「はい……卿のおかげで、今の私がございます。」

 忠平は将門にも目を向けた。

「将門よ。お前がわしの邸に潜り込み、寄食(よりうど)(食客)として居ついた時のことも忘れぬぞ。あの頃から、背丈も気迫も、まるで山のようであった。」

 将門は苦笑しつつも、胸の奥がじんと熱くなる。

「……ただ、強くなりたい一心でございました。」

「うむ。だが、その真っ直ぐさが気に入ってな。滝口として清涼殿に上らせたのだ。」

 忠平の眼差しは、まるで我が子を見るように温かかった。

「そなたたちは変わらぬ……だが、今日の成長は、わしの誇りよ。」

 その言葉に、将門は胸の奥が震え、国豊は涙がこぼれそうになった。

 やがて忠平は表情を引き締めた。

「さて……今回の召喚の件、詳しく聞かせよ。」

 将門は源護との争いを、国豊は常陸国衙での判断と武蔵国府の動きを語った。

 忠平は一言も遮らず、ただ静かに、深く、聞き続けた。

 やがて頷く。

「……なるほど。お前たちの言は、いずれも“義”に叶っておる。」

 二人は胸をなでおろした。

 だが忠平は、静かに続けた。

「だが――世は“義”だけで動くものではない。」

 将門の胸がざわりと揺れる。

 国豊は拳を握った。

 忠平の目は、長く政の世界を歩んだ者の光を宿していた。

「人の悪意、嫉妬、欲、讒言……そうした“濁り”が、時に義を押し流す。」

 国豊は思わず問う。

「……それでも、人は義を貫くべきでしょうか。」

 忠平は微笑んだ。

「貫け。だが――義だけでは世は渡れぬ。それを知ることもまた、人の務め。」

 その言葉は、優しさと厳しさを併せ持つ老政治家の“訓戒”であった。

 酒が注がれ、昔話が交わされ、邸内には穏やかな笑いが満ちた。

 だが忠平の胸の奥には、誰にも告げぬ思いがあった。

(……いずれ近く主上が元服される。その折、この召喚の件は“恩赦”として流れる。)

 つまり、将門も国豊も罪に問われぬ。

 だが忠平は、それを言わなかった。

(この二人は、あまりにも真っ直ぐすぎる。義を信じ、人を信じ、悪意を知らぬ。

 ――だが世は、義だけでは動かぬ。いずれ彼らは、もっと大きな“闇”と向き合うことになる。)

 忠平は杯を置き、二人を見つめた。

(……ならば今、この経験を通して世の“濁り”を知るがよい。それでもなお義を貫けるなら――お前たちは真に坂東を背負う者となろう。)

 忠平は静かに微笑んだ。

「国豊…、将門…、お前たちは、わしの自慢の子らよ。」

 二人は深く、深く頭を垂れて涙した。

 その夜、忠平邸には、親子の団欒のような温もりと、これから訪れる嵐の予兆が、静かに同居していた。



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