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北辰の冥影 ~将門炎舞記~  作者: 浮島太郎
焔影、破軍へ伸びる

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香取海、千の櫂音

 武射の背後には九十九里の長大な海岸線が横たわり、内陸には広大な椿海、さらに北方には香取海の水面が果てしなく広がっていた。これらの水運の要衝たる津(港)を掌握していた良兼は、椿海に強力な船団と水軍を擁していた。その勢力は陸上の豪族の域を超え、内海と河川を自在に駆ける一大海上戦力であった。

 良兼が上総に本拠を置きながらも坂東全域の覇権を窺うことができたのは、この水運網の存在によるところが大きい。椿海から香取海へ、さらに利根・鬼怒・小貝の諸河川へと連なる水路は、下総・常陸・武蔵を結ぶ天然の兵馬の回廊であった。良兼はこの水路を利用し、舟艇によって兵員と兵糧を迅速に輸送した。陸路では幾日も要する行軍を、水上では短期間で成し遂げることができたのである。

 坂東における良兼の威勢は、この卓越した水上機動力によって支えられていたのであった。


 香取海は古来、神々の通い路と伝えられる。

 その静謐(せいひつ)な水面に大小合わせて百余隻の軍船が列をなし、まだ夜気の残る水面に黒々と影を落としていた。将船は、檜(ひのき)を組んだ巨体に黒松脂(くろまつやに)を厚く塗り込め、朝日を吸い込むように鈍く光る。その舳先(へさき)には赤い陣幟(じんのぼり)を立て、林立する赤・黒・白の吹き流しが潮風を孕んで大きく膨らんでいた。

 熱気を孕んだ湿った風が、香取海(かとりのうみ)一帯を重く吹き渡っていた。海と沼と川が混じり合った湿原の匂いが、鼻腔にまとわりつく。


 良兼が将船の舳先に姿を現すと、岸辺に控える千の兵は沸き立ち、一斉に跪拝した。

「――小次郎将門を討つ。」

 低く放たれた声は、海上の空気そのものを震わせた。

 鬨の声が幾重にも重なり、香取海の水面が細かく震えた。

 やがて、船団がゆっくりと動き出す。

 将船に続く中型船は四十余。黒い船腹が列をなし、縄で補強された舷側(げんそく)には矢盾が並ぶ。

 兵たちの甲冑が陽光を受けて閃き、一斉に櫂を押し出すたび、海は白い飛沫を高く上げる。櫂(かい)の音が揃うと、船団は北へ向かって滑るように進んだ。

 さらにその周囲を、小舟が矢のように走る。丸木を刳(く)り抜いた軽舟は、波を切って細い白波を引き、伝令を運び、敵影を探り、船団の隙間を縫って駆け回る

 真紅の幟(のぼり)のはためき、黒々とした船腹、松脂の匂い、千の兵の息遣いが、香取海の静謐を圧倒していた。舟団の櫂が水を割る音が、遠くまで澄んで響いていく。

 舟団が北上するにつれ、香取海はやがて細い水路へと変わり、水鳥が低く飛び、入道雲がゆっくりと天に積み上がっていく。


 千の軍勢は、そのまま常陸国府へ向かった。

 常陸介・藤原維幾は、いそいそと国衙の外まで出迎え、満面の笑みを湛えて良兼を迎えた。

「おお、上総介殿、よくぞお越しくださった。

 貴殿にご相談申し上げたい儀は、それはもう山のようにございますぞ。」

 軍勢とともに国衙(こくが)に入城した良兼は、維幾から常陸国内の動静を聴いた。維幾と為憲親子は、常陸における坂東平氏の威信は地に墜ち、将門と同盟する豪族があとを絶たぬことを、深刻な面持ちで憂えている。

 良兼は目を閉じ、黙然とその報告に耳を傾けた。

 やがて、藤原秀郷の越境、侵犯の動きに話題が及んだ。

 良兼はふと口許を緩め、

「秀郷か。あやつの追討官符が五国に下ったのは、もう何年も前よ。

 それでもなお、野に潜んでおったか。」

 と、一笑に付した。

「――しかし、それもまた好機よ。

 道すがら秀郷をも成敗し、そのしぶとさに終止符を打ち、秀郷の首級(くび)を下野守への手土産とすればよい。」

 維幾も為憲も、思わぬ形で脅威が解決されるとあって、安堵の色を隠さなかった。


 その頃、唐沢山の砦を出た藤原秀郷は、三百の騎馬軍を率いて結城郡や真壁郡南部で略奪を行いながら、鬼怒川を越えて筑波嶺方向に東征していた。その行く先には、信太浮島の藤原国豊と藤原玄明がいる。

 下野の夏は、常陸の湿り気とは趣を異にしていた。丘陵の草は陽に焼け、風は熱を含みながらも、どこか鋭く乾いている。秀郷の軍は、すでに香取海に注ぐ桜川の畔(ほとり)まで侵攻していた。

 その流れの対岸に広がる平原を見据えていた秀郷は

「……この川の向こうは、まずい。」

 と、短く呟いた。

 やがて斥候(せっこう)が砂煙を上げて駆け戻り、良兼の大軍――千を超える兵がこちらに向かっていると告げた。

 秀郷は、ほとんど間を置かずに決した。

「退くぞ。良兼と正面から戦えば勝ち目はない。奪った荷は捨てよ。」

 唐沢山へ引き返す途上、湿り気を帯びた風が吹き抜け、遠くで雷鳴がくぐもって響いた。

 秀郷は空を仰ぎ、

「あの豎子(じゅし)、仲正の庶子は……本当に運が良い。」

 と、誰に聞かせるでもなく呟いた。

 秀郷は、信太浮島の蹂躙も、国府襲撃も今回は諦めた。――壬生成宗の思惑もまた、成就することはなかったのである。


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