海霧の砦
――常陸国府正庁、奥の間。
為憲の沈黙を裂くように、背後の襖が静かに開いた。灯火の揺らぎを背負って現れたのは、壬生義宗である。兄・成宗の肥えた体つきとは対照的に、義宗は痩身で、その眼光は闇に慣れた獣のように冴え、人の情を映す気配がない。まるで影そのものが歩み出てきたかのような暗さがあった。
「……国豊と玄明を討つ。左様ですな」
声は、風のない夜に竹が軋むような乾いた響きであった。
「義宗、まずは……汝の見立てと謀を聞こう」
為憲は、その声音にわずかに口元を歪めた。
「承知」
義宗は、ためらいもなく地図を広げた。
紙の上に落ちる灯火の影が、彼の指先をより細く、不気味に見せる。
義宗は、静かに二つの地点を指した。
「まず玄明。信太西奥の山麓に館を構え、守りを固めている。密殺は虚を衝くもの。堅城に籠もられては手が出せぬ」
淡々とした口調のまま続ける。
「西は深い森。ほか三方は開け、退路も多い」
為憲が地図を覗き込む。
義宗は、自軍の戦力を指で示した。
「騎馬十、足軽二十、国府兵二十。五十では退路を塞げぬ。玄明は仕留めきれませぬ」
為憲が不安げに眉を寄せる。
義宗は、その視線を冷たく受け止めた。
「敵は百。うち騎馬二十。駿馬を操る負名どもです。侮れば、こちらが死ぬ」
維幾が静かに問う。
「……では、どう攻める」
「今の我らでは、玄明は討てませぬ」
義宗の言葉には、言い澱みがない。
「大軍で囲み、潰す。それ以外にない。小粒の追討は、兵を捨てるだけです」
その冷徹さが、かえって場の空気を重くした。
為憲は静かに頷いた。
「では……国豊はどう殺すのだ」
義宗は、地図の中央――香取海に浮かぶ孤島を指した。その指先は、まるで“死地”を示すかのように冷たかった。
義宗は、香取海のあたりに手を置き、指先でゆるやかに水域をなぞった。
「まず香取海。あれが兵を阻む」
為憲が、思わず身を乗り出した。
義宗は、北から南へ指を滑らせた。
「海底の泥は絶えず動く。舟が嵌れば抜けぬ。兵を満載した軍船なら、なおさらです」
為憲が息を呑む。
「夜は水と泥の境も消える。灯せば悟られ、消せば道を失う。泥に噛まれれば終わりです」
義宗は、島の周囲に円を描くようになぞった。
「夜半には海霧も立つ。身は隠せても、舳先すら見えぬ。水路を外せば泥洲です」
――香取海は“流海”とも呼ばれた、外海の海流を宿す“変貌する水域”であった。
義宗は、今度は島そのものを指した。
「浮島は四方を海に囲まれた天然の城。浜は北と西の一部だけ。ほかは湿地か断崖です」
為憲の顔が引きつる。
「……まるで、近づく者を拒むために生まれた島だ。だがそれでは、こちらも打つ手が無いではないか」
義宗は静かに頷いた。
「潮、泥、霧――三つの牙が島を守る。攻め手には死地です」




