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北辰の冥影 ~将門炎舞記~  作者: 浮島太郎
龍虎、坂東に立つ

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猛き血の覚醒

田原藤太(たわらのとうた)――忠平卿の屋敷でそう名乗った寄食(よりうど)は、藤原北家魚名流一門の藤原秀郷であった。

若き日の秀郷は、生来の荒々しさを露わにし、己の力を示すことを渇望していた。“力こそ正義”と言わんばかりに乱暴を働き、その誇示に耽(ふけ)った。

秀郷流の祖は、藤原北家の左大臣・藤原魚名卿の五男・藤成に遡る。吃音のため流暢に話せなかった藤成は、地方の受領を歴任し、俘囚同化政策を担う「俘囚専当」を兼務した。官人としては「可もなく不可もなく」と評され、従四位下・伊勢守を最後に四十七歳で没した。

藤成は十人の子をもうけた。そのうち、下野国府の下級官吏・鳥取業俊の娘が産んだ庶子が、秀郷の祖父・豊沢である。俘囚専当の藤成に、蝦夷の血に連なる在地官人・鳥取氏が仕えた縁によるものだろう。

豊沢は中央での栄達を望まず、下野掾の官職を得て、在地官人として勢力を拡大した。

多くの豪族や農民を配下に収めて農地を開墾し、やがて押領使として下野国内の軍事・警察権を担った。豊沢も父と同じく鳥取氏(鳥取豊俊)の娘を娶り、秀郷の父・村雄をもうけた。

下野掾・押領使の職務を引き継いだ村雄は、父の代を凌駕する権勢を誇り、下野国内の軍事・行政を実質的に掌握した。

村雄も、蝦夷の血を引く勇猛な在地豪族・鹿島氏の娘を娶り、秀郷が誕生した。秀郷の面貌には、公家の典雅な容貌とは異なる、蝦夷の血に連なる相が濃く表れた。

武威をもって鳴らした外戚の男たちは、秀郷の猛々しさを、“いずれは坂東の雄となろう”と褒め、むしろ悪童ぶりを擁護し、助長した。

己の本能の赴くまま、略奪と暴行に明け暮れ、目の前のすべてを蹂躙する。

侵し、奪い、殺す――その瞬間の全能感だけが、渇いた魂を潤した。若き秀郷は、まさに狂気の中に生きていた。


そんな秀郷の荒事(あらごと)を扶けたのは、弟たちであった。

宗郷、高郷、永郷、興郷、友郷、時郷、春郷――秀郷は弟たちを深く愛し、弟たちも兄に忠誠を尽くした。兄弟は国府の官吏になる気などなく、父が受領として地方へ赴く際も、下野国に土着する道を選んだ。

秀郷は、薄ら笑いを浮かべながら、父に向かって言った。

「父上には官人の務めがおありでしょう。されど我は、身内や手下を残してこの地を離れられませぬ。――我らはここより、“坂東の雄”となる。後顧の憂いなく、何処(いずこ)へなりとも赴かれよ」

父も、もはや秀郷の奔放さと傲慢さを抑えられず、何も言い返すことなく距離を置いた。


その頃――新たに下野国守(受領)として赴任した藤原弘雅は、秀郷と同じく藤原北家魚名流・鷲取家の血胤であった。

当初は同族の秀郷を庇護し、

「暴虐を抑えて、将来を考えるように」

と、何度も諭し、導こうとした。

だが、秀郷という男は、名門の血を引きながら貴族としての矜持などとは無縁で、

「この俺を飼いならすつもりか。腑抜けめが」

と、逆に反駁し、聴く耳を持たない。

それでも心優しい弘雅は、秀郷を庇い、

「臣として父祖の跡を継ぎ、官途を歩んでほしい」

と、事あるごとに諭すのだが、秀郷が悔い改めることはなかった。

むしろ秀郷は、弟や若党に弓馬の道を徹底して仕込み、鍛え上げた。その徒党は次第に下野、上野で知らぬ者のない無頼の集団となり、もはや弘雅の手にも負えなかった。


平安時代中期、軍事の主力は“弓馬の道を体現する騎馬武者”であった。坂東で軍を動かすには、優れた弓射騎兵と、その機動力を支える駿馬が欠かせない。だが、秀郷の私兵には馬が圧倒的に足りなかった。

軍馬の産地としては、古来、上州馬が名高い。上野国内には九つもの御牧(みまき/勅旨牧)があった。折しも朝廷の統制は緩み、在庁官人や有力豪族が牧を私牧や荘園同然に扱い、その利を囲い込みはじめていた。

秀郷は野望のため、上質な俊馬と広大な牧を欲した。そこで隣国・上野の牧を奪い、利権を手中に収めようと画策する。弓馬の武者を育てる馬と、その馬を育てる牧――双方の掌握こそ、“坂東の雄”として覇を唱える第一歩と考えたのである。

だが、思い通りにならぬとみるや、秀郷は白昼、牧の御厩別当(管理者)の居宅を襲った。護衛の首を素手でへし折り、財物を奪い、泣き叫ぶ女たちを踏みにじって官舎に火を放ったのである。

その行動は、朝廷に対する露骨な挑戦であった。

さすがに弘雅も堪忍袋の緒が切れた。

延喜十六年(九一六年)、下野国守・藤原弘雅の要請により、朝廷から、秀郷に対して最初の官符が発せられた。

秀郷は藤原北家の氏長者・忠平卿の仲裁を期待し、身を隠して京へ逃れた。だが、すでに弟たちと共に“流罪”を言い渡され、刑は確定しており、赦免は叶わなかった。

名を秘し、忠平邸に寄食(よりうど)として潜り込んで機を窺ったが、官の追及と捕縛を逃れるため、秀郷はやがて再び姿を消した。


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