黒騎の裁き
東国を独立国家とし、坂東に新たな政権を築く。
――その決意は、国府陥落の夜からすでに固まっていた。
将門は坂東八か国を武力で平定し、ついに「新皇」を称した。
除目を模した儀式を執り行い、文武百官を置き、坂東独自の官制を敷いた。
既存の受領は追放され、空席には戦功を挙げた武将たちが任じられた。
それは、後世の武士政権の萌芽ともいうべき、武士の手による地方統治の始まりであった。
しかし――
坂東を治めることは、武力だけでは成し得ぬ。将門は、ほどなくそれを思い知った。
最初に露わになったのは、新政権内部の腐敗であった。
上総介・興世王。
将門の側近として覇業を支えたはずの男が、坂東の海運の利権を握り、私腹を肥やしていたことが明らかになった。
将頼(御厨三郎)は、その報告を受けると、一言だけ漏らした。
「……やはりな」
将門は静かに命じた。
「将頼。黒騎馬を率い、上総へ向かえ。興世王の罪、余すところなく裁け」
真冬の風が吹き荒れる上総国府に、黒騎馬の蹄の音が迫った。乾いた響きが幾重にも重なり、国府の内にまで届いていた。
権力に酔いしれ、美女を侍らせ、酒を呷っていた興世王は、その音を聞いた瞬間、顔色を失った。机上の帳簿を慌ててかき集める。不正の痕跡を隠そうとしたが、震える手では紙束を揃えることすらできない。
「こ、これは……民のためだ……税を軽く見せれば、民も安堵する……私は、私は……民のために……!」
己さえ信じていない弁明が、裏返った声となって漏れた。
黒騎馬の影が国府の門を覆った。
門が破られた瞬間、興世王は膝から崩れ落ちた。
「ま、待て! 私は将門公に忠義を尽くしてきた! 香取海の利権も、九十九里の漁場も、すべて将門公のために整えたのだ……!」
黒騎馬の先頭に立つ将頼は、馬上から興世王を見下ろした。
その眼差しには怒りも憎しみもなく、ただ冷徹な判断だけがあった。
「興世王。坂東の民は、お前を『悪党』と呼んでいる」
興世王は這い寄り、馬上の将頼にすがろうと手を伸ばした。
「助けてくれ……将門公に取り次いでくれ……私は……新皇の覇業を支えてきたのだ……!」
将頼は、その手を静かに退けた。
「覇業を支えたのは、民の怒りと、兄上の義だ。お前ではない」
その言葉が落ちた瞬間、黒騎馬の影が一斉に動いた。
興世王は逃げようとした。だが、黒騎馬の動きは影のように速かった。一騎が肩を掴み、もう一騎が腕を捻り上げ、別の一騎が膝を砕いた。
「やめろ! 私は国司だぞ! 将門さまの臣だぞ! 私は――」
その叫びは、黒騎馬の蹄音にかき消された。
刃が振り下ろされる音は、驚くほど静かだった。
興世王の首は、ひと息で地べたに転がり落ちた。
黒騎馬はその首を布に包み、上総国武射の国府門へと向かった。
晒された首は、坂東政権が腐敗を許さぬことを示す“鉄の宣告”となった。
民はその首を見て囁いた。
「黒騎馬が動けば、悪は必ず滅ぶ」
興世王誅殺の後、将門は各地に跋扈する賊徒へと目を向けた。
相模・伊豆・箱根・安房――坂東の外縁にあたるこれらの地には、将門の威令が行き届かず、賊徒が跋扈していた。混乱に乗じて私腹を肥やす在地官人、山野に潜む山賊、海路を荒らす無法者。民は再び、その脅威に怯えていた。
将門は弟たち――将頼・将武・将文に黒騎馬を率いさせ、追討使として遠征を命じた。黒漆の馬具に、黒革の鞍と手綱。その騎馬の列は、遠目には夜の闇が群れを成して駆けるかのようであった。
蹄が地を打つ音は、星神の鼓動さながらに、低く連なって響いた。
短く鋭い号令のもと、黒騎馬は一斉に動いた。
林野の影を縫って駆け、湿地の縁を進み、谷間や村落へと疾く入り込んだ。
三人の弟たちの“戦場の嗅覚”は、星神の眸に照らされたかのように冴え渡り、黒騎馬はまるで生き物のように敵を殲滅した。
黒騎馬の働きによって、各地の治安は目に見えて回復した。相模・伊豆・武蔵の山賊は姿を消し、海路の無法者も鳴りを潜めた。津々浦々の民は将門を「新皇」と讃え、坂東の主として仰ぎ始めた。
だが、その裏で、坂東政権の腐敗はなお深まっていた。
黒騎馬が各地の賊徒を討つ間にも、内なる不正は人目を避け、政の奥深くへと潜り込んでいた。
坂東は、静かに、しかし確実に歪み始めていた。
将門は、誰にともなく呟いた。
「……興世王の首が晒されたか」
声は淡々としていたが、そこには疲労が滲んでいた。
興世王の首が晒された日も、黒騎馬が賊徒を討つ日も、坂東の豪族が利権を求めて争う日も、星神はただ静かに将門の背後に立つだけだった。




