心翼の離反
陣を離れ、夜道を進むうち、焚き火も兵の声も遠ざかった。
国豊は、自分だけが別の世界へ押し出されたような思いだった。
やがて人気のない林の縁で馬を止めると、国豊は静かに空を仰いだ。北天に星がひとつ、鋭く光っていた。将門の瞳に宿っていた、あの星神の光と同じ色だった。
国豊は、胸の奥から絞り出すように呟いた。
「……私には、将門公の隣に立つ資格が、なかったのか」
その声は震え、夜気に溶けていった。
「卿の御恩を忘れず、背かぬこと。それこそが、私が私であるための“道理”であった」
国豊は、指先が白むほど拳を握った。
「その“道理”が、貴方を孤独に追いやったというのか……」
胸の奥が、痛みで裂けるようだった。
「幼き日より、私にとって貴方は兄であり、友であり……いや、光であった」
国豊は目を閉じた。涙がひとすじ、頬を伝った。
「それでも私には、偽りの神座に座す“新皇”に侍ることなどできぬ。卿の恩を捨て、背くことなど許さぬ。」
夜風が木々をざわめかせた。
国豊は手綱を握る力が一気に抜けていくのを感じた。
「滝姫様の予言どおり……私は、貴方と袂を分かつ運命だったのでしょうか」
国豊は、馬の首をそっと撫でた。その手は、まだ震えていた。
「将門公……これから貴方が進む先には、この国豊が立ちはだかるやもしれぬ。非情にも、貴方を討つ先鋒に立つやもしれぬ」
言葉は誰にも届かず、夜空へ消えた。国豊は静かに馬を進める。その背は、陣を出た時よりもなお重く、孤独だった。
国豊が静かに陣を離れていく姿を、兵たちは遠巻きに見つめていた。
やがて、ひとりの若い兵が、隣の古参兵に小声で囁いた。
「……国豊様は、去ってしまわれたのか」
古参兵は、深く息を吐いた。
「将門公の“義”を支えていたのは、あのお方だった。あのお方が去るということは……坂東の風向きが変わるということだ」
焚き火の炎が揺れ、古参兵の横顔に不吉な影を落とした。
「国豊様が止められぬなら……もう誰にも止められまい」
兵たちの間に、言葉にできぬ不安が広がっていく。
「将門公は……どこへ向かわれるのだろう」
答える者はいない。
国豊の去った陣には、これまでにない冷たい風が吹き始めていた。坂東全土へ広がる、破滅の兆しのように。
国豊が去った後、玄茂はひとり焚き火の前に立ち尽くしていた。揺れる炎が横顔を照らしては闇に沈める。だが、その胸中は冷え切っていた。
「……国豊様が、去られた」
口にした途端、胸に鋭い痛みが走る。
「将門公の“義”を支えていた柱が……折れてしまった」
玄茂は項垂れた。
「これで……将門公を止める者が、誰もいなくなる」
焚き火がぱちりと弾け、焦燥を煽った。
「興世王のような軽薄な者が、将門公の耳元で囁くようになる……それがどれほど危ういことか……なぜ、誰も分からぬのだ」
玄茂は深く息を吐いた。白い吐息が夜気に溶ける。
「国豊様……あなたが去れば、将門公は“義”ではなく“力”に引かれてしまう」
玄茂は、焚き火の炎を見つめた。炎の奥に、将門の姿が揺れて見える。
「将門公、あなたは強い。されど硬鉄も、火に焼かれ、穿たれ、叩かれてこそ剛剣となる。王を諫める勇臣を欠けば、王は闇に堕ち、政は崩れましょう」
「国豊様は……将門公の“心の片翼”であったのだ」
玄茂は焚き火の前に膝をついた。祈るように、絶望へ沈むように。
「どうか……あのお方の光が、消えませぬように」
返るのは、風のざわめきだけだった。




