包摂の雅
童子が独り、毬をついている。
紫霧が深く立ちこめる初夏の朝。濡れた草木の匂い、竹林の奥から響く鳥の声、水煙の中に浮かぶ島々、遠くに連なる山々。鏡のように静かな水面と天空との境は消え、山路は露に溶けてゆく。
頭頂から左右に分けた稚児髪。ほどよく垂らした前髪と肩にかかるほどの長い黒髪は、水辺に漂う霧を吸ったかのようにしっとりと艶めき、毬をつくたび柔らかく揺れている。透き通るような白い肌はいっそう儚げで、今にも霧の中へ溶けてしまいそうな危うさを帯びていた。
薄紅色の単衣の袖をわずかに捲り、毬の弾む音に合わせて首を傾ける。まるでその音に聴き入るように、童子は黙々と毬をついていた。
この童子は、数日ほど前に五歳の誕生日を迎えた。中臣姓藤原北家魚名流・仲正の若君、のちの藤原国豊である。
貴人の子であるが、京の遊女の腹から生まれた庶子であったために、都から離れた宇治木幡のこの別業(別邸)に、生母とともに捨て置かれた。
この日は、一門の長者、右大臣・藤原忠平卿を初夏の遊興に迎える宴の初日であり、仲正の宇治別業には、随行する公卿や殿上人、さらには警護にあたる武官たちが集い、朝からひときわ賑わいを見せていた。
その喧騒から離れた奥まった庭先で、隠れるかのように毬をついていた国豊に、柔らかな声がかけられた。
「若君よ、何をして遊んでいるのか?」
国豊がゆっくりと振り向くと、そこには、この世の威儀を一身に纏うかのような眩い(まばゆい)姿の貴人が立っていた。小柄ながら、その立ち姿には威厳と優雅さがあり、夏の陽を受けた額は涼やかに輝いている。
頭上には、黒漆を幾重にも塗り重ねた立纓の冠。身には、深い威厳を漂わせる濃染めの黒袍をまとい、その下の表袴には、上質な白絹に細やかな文様が淡く浮かんでいる。胸元には儀式の証たる平緒が端正に結ばれ、腰には、金銀の金具と宝玉を惜しげもなく散らした飾太刀。その鞘には繊細な彫金が施されていた。装束は歩みのたびに日の光を受け、わずかに揺れては光を吸い、また返し、煌めきを放っている。
時の右大臣・藤原忠平である。忠平は、早世した兄・左大臣藤原時平に代わって氏長者となった。
主上(醍醐天皇)の信頼は揺るぎなく、のちに摂政・関白として政務を執り、太政大臣に昇って位人臣を極める。政治的手腕に優れ、その執政は仁と徳に溢れ、官人・女官どもの信頼も篤く、多くの人々に慕われた。
国豊は目を見開いた。このような威厳に満ちた貴人を見るのは初めてだった。
「あなた様は……どなたですか」
忠平は微笑んだ。
「其方の一門じゃ。此方の主、蔵人仲正に招かれておる」
その貴人の顔を、幼い国豊は知らない。だが、声の調子も、立ち姿も、どこか安心を与えるものがあった。
忠平は、仲正の庶子の存在は耳にしていた。高貴な血筋を持ちながら、都から隠されるように宇治に置かれた幼子は、貴族社会の冷酷さを象徴しているようであった。忠平は、政治の世界に身を置きながらも、その境遇に心を痛める稀有な人物だった。
「門葉が捨て置かれているならば、手を差し伸べねばならぬ。」
忠平の情は、“哀れみ”ではなく、“一門の子(門葉)を見捨てぬ”、という静かな誇りだった。――その子に、会わねばならぬ。その直感が、忠平の胸を静かに揺らした。
兄・時平の影に隠れながら、忠平もまた幼い頃から家の期待と格式の中で育った。父・基経も、自分に優しかった兄も、早くに亡くしている。忠平は、庭先でひとり毬をつく国豊の姿に、かつての自分を重ねた。
「毬ばかりでは、つまらぬであろう。これを取るがよい」
忠平は徐に、胸元から一本の麗美な横笛を取り出した。
「……良いのですか」
顔色を伺うような、大きく、そして静かな幼い瞳。
「遠慮はいらぬ。音は、心を癒し、広くしてくれる。」
国豊は、生母以外の優しさに触れたことがなかった。
「……嬉しい」
忠平は自然な仕草で国豊の頭に手を置いた。
「うむ、それで良い」
父に触れられた記憶がなかった国豊は、驚きで息を呑んだ。
額から流れる一筋の汗が、瑞々しく輝いた。
碧い湖に面した釣殿では、申の刻(午後四時頃)より、右大臣・忠平卿の御入を寿ぐ酒宴が華やかに催されていた。楽人の調べが風に乗り、朱塗りの欄干には色とりどりの直衣姿の貴人や女房たちが影を落とす。水面には、銀の杯を掲げて笑う人々の姿が、ゆらりと揺れて映っていた。
やがて日が西山の端に沈みかけるころ、湖上を渡る初夏の風が肌を撫で、釣殿に満ちていた喧騒も、潮の引くように静まりはじめた。遠くでは、まだ几帳の陰で盃を重ねる者もいたが、多くは庭へと歩み出て、夕映えに染まる宇治川の流れや、木幡山の稜線を眺めながら、沈みゆく陽の名残を惜しむように、しばし物思いに耽っていた。
その頃、中空には早くも淡い月が姿を見せ、湖面には月光を宿す静かな波が揺れていた。忠平はそっと席を立ち、国豊母子が住まう対屋へ続く廊を渡った。
国豊は、人目を忍び、静かな庇の柱に身を寄せ、幼い指先で笛の穴を探っていた。唇を尖らせて吹き込まれた息は、風に交じって消えていく。
忠平は杯を傾けながら国豊の頭を撫でた。
「息は押しつけるのではない。水の上を渡る風のように優しく吹くのだ」
板敷に腰を下ろし、国豊に笛の手ほどきをした。
「良い音だ。その笛は、おまえの友となろう」
忠平は、思い出したかのように言った。
「この笛にはまだ、名が無い……“水楓”と名付けよう。水に影を落とす楓のように、おまえの心も、澄んだ音を宿すだろう」
蔀戸の格子の隙間から見える水面には白い月が揺れ、湖面に細い光の道を落としていた。鵜飼の篝火が水面を照らし、赤く滲んでいる。その光が国豊の幼い心に、静かで温かな灯をともした。




