第12話「肩書き、変わりました」
朝。予想通り、目が腫れている。
鏡を見て「ひどい顔」と呟いたら、後ろからミリアに「大丈夫です、お嬢様は元が良いので」とフォローされた。フォローになっていない。
冷たい水で顔を洗う。指先に水の冷たさが染みて、瞼の腫れが少しだけ引く。
着替えを済ませて、髪を整えて、ミリアが選んでくれた青いリボンで結ぶ。
「青がお似合いです」とミリアは言うけれど、たぶん彼女はどの色でもそう言う。
さて。今日は何が起きるだろう。
四周目の日々は、予測ができない。ゲームの攻略情報が使えない。毎日が新しくて、毎日が怖くて、毎日が——ちょっと楽しい。
朝食の席で、エリックが黙って紅茶を淹れてくれる。彼の淹れる紅茶は濃すぎるのだけど、最近はその渋みに慣れてきた。慣れるって、すごい。一週間前は「苦っ」と顔をしかめていたのに。
カップを両手で包むと、陶器のぬくもりが掌に広がる。ベルガモットの湯気を吸い込んで、肩の力が抜ける。
「セラフィーナ」
レオンハルトが朝食の席にやってくる。
珍しく、表情が硬くない。いや、硬くないどころか——少しだけ、そわそわしている。
王子がそわそわしている。レア度で言えばSSRだ。三周したけど見たことがない。
「今日、正式に発表がある」
「発表?」
「お前の肩書きだ」
ああ、ようやく決まったのか。「考え中」から三日。王子のくせに仕事が遅い。
「何になったんですか。まさか『元処刑予定者(臨時)』とか言わないでしょうね」
「言わん」
「『国政便利屋』とかでもないですよね」
「……お前は俺をなんだと思っている」
「段取りの悪い王子だと思っています」
「辛辣だな」
レオンハルトが小さくため息をつく。でもその口元が少し緩んでいるのを、私は見逃さない。
午前十時。大広間。
城の主要な人間が集められている。文官、武官、侍女長、厨房長のベルト、庭師のヨハン——え、なんで庭師まで?
エリックが大広間の隅に立っている。いつもの鉄面皮。でも、こっちを見て微かに頷いた。たぶん、あれが彼なりの「頑張れ」だ。
リゼットもいる。両手に大きな箱を抱えている。あの箱、お菓子だな。形でわかる。約束通り焼いてきたのか、この子は。律儀すぎる。
ミリアは私のすぐ後ろ。振り返らなくても、ラベンダーのポプリの香りでわかる。
レオンハルトが前に立つ。
「——本日をもって、セラフィーナ・クレスティアに対する処刑命令を正式に取り消す」
広間がざわめく。
取り消し。処刑の、取り消し。
聞いていたはずなのに、改めて声に出されると心臓が跳ねる。ゲーム三周、一度もなかったイベント。処刑が取り消される展開なんて、どのルートにも存在しない。
「あわせて、新たな肩書きを授与する」
レオンハルトが私を見る。
「——王室顧問。王家に直属し、国政全般の助言を行う役職だ」
王室顧問。
へえ。悪くない。むしろ良い。好き勝手できそうな肩書きだ。
「なお」
レオンハルトが咳払いする。耳が赤い。
「この肩書きは終身のものとする。つまり——」
一生、ここにいろ、と。
「殿下、それ」
「なんだ」
「肩書きの授与にしてはだいぶ私的な感情が混じってませんか」
「……気のせいだ」
気のせいじゃない。絶対に気のせいじゃない。広間の全員がそう思っている。文官が目を逸らしているし、侍女長は扇で口元を隠しているし、ベルトに至っては堂々とにやにやしている。
これ、実質プロポーズでは?
「終身」って。「ずっとここにいろ」って。それを城の全員の前で宣言するの、王子として正しいのかどうか非常に怪しいんですけど。
でも——まあ、いいか。
「謹んでお受けいたします、殿下」
形式的に一礼する。顔を上げた時に目が合って、レオンハルトが小さく笑った。
この人の笑顔を見るのは、四周目が初めてだ。
式典が終わると、リゼットが走ってきた。
「セラフィーナ様! お祝いです!」
箱を開ける。中にはクッキーとマドレーヌとフィナンシェが、これでもかと詰め込まれている。
「前回の三倍焼きました!」
「三倍!? なんで!?」
「だって、処刑取り消しと、王室顧問就任と、それと——その、色々あるので!」
色々。何が色々なのか問い詰めたいが、リゼットの顔が真っ赤なのでやめておく。
フィナンシェを一つ摘まむ。サクッと崩れて、バターの香りが鼻を抜ける。甘さの中にレモンの酸味。
おいしい。素直に、おいしい。
「リゼットさん」
「はい?」
「上手ですね、お菓子」
「——えへへ」
ヒロインが「えへへ」と笑っている。悪役令嬢が褒めたヒロインが照れている。ゲームのどのルートにもない光景。
いいな、これ。すごくいい。
午後。
執務室に戻って、机の引き出しを開ける。
一番奥に、折り畳まれた紙がある。
遺書だ。
処刑の前日に書いたもの。宛名はミリア。内容は「私の荷物は全部あなたにあげます。料理だけは誰かに習ってください」。
我ながらふざけた遺書だ。
でも、あの時は本気で書いた。これが最後だと思って、震える手で、一文字ずつ書いたのだ。
指先で紙に触れる。折り目がくたびれていて、端が少しだけ黄ばんでいる。一週間と少し前の紙なのに、もうずいぶん古いもののように感じる。
——もう、いらない。
両手で掴んで、真ん中から裂く。
びりっ、と乾いた音。
もう一度。もう一度。
紙片がひらひらと机の上に散る。白い欠片。もう読めない文字の残骸。
終わりだ。
処刑予定の悪役令嬢セラフィーナ・クレスティアの物語は、ここで終わる。
代わりに始まるのは——王室顧問セラフィーナ・クレスティアの物語。ゲームに存在しなかった、四周目の物語。
扉が開く。
「セラフィーナ、午後の会議だが——」
レオンハルトが入ってきて、机の上の紙片に気づく。
「……何を破いた?」
「遺書です」
「遺書」
「もういらないので」
レオンハルトが目を瞬かせる。それから、ほんの少しだけ口角を上げる。
「——そうか」
「ええ。死ぬ予定がなくなったので」
「当然だ。俺が許さん」
「許す許さないの問題じゃないと思うんですけど」
「俺の問題だ」
何言ってるんだこの人。でも声が穏やかで、目が笑っていて、怒る気にならない。
「会議、行きましょう」
立ち上がる。机の上の紙片はそのままにしておく。後でミリアが片付けてくれるだろう。
——いや、自分で片付けよう。遺書の後始末くらい自分でやるべきだ。
廊下を並んで歩く。レオンハルトの歩幅は大きいけれど、最近は少しだけ速度を落としてくれている。気づいているのかいないのか。たぶん、無意識だ。この人はそういう不器用な優しさを持っている。
「殿下」
「なんだ」
「王室顧問の初仕事として進言があります」
「言ってみろ」
「廊下を走るのはおやめください。今朝、護衛のクラウスが胃を押さえていました」
「……善処する」
善処じゃなくてやめてほしいんですけど。
まあ、いい。
急がなくても、私はもう逃げないから。
会議室の扉を開ける。向こう側に、積み上がった書類と、見慣れた顔ぶれが待っている。
エリックが黙って椅子を引いてくれる。ミリアがお茶の準備をしている。リゼットのお菓子の箱が、なぜか会議室のテーブルにも置いてある。配る気満々だなあの子。
——ここが、私の場所だ。
ゲームにはなかった場所。三周のどこにも書かれていなかった場所。
でも、確かにここにある。
私が書いた、四周目の居場所。
さて、仕事をしよう。
山積みの書類は相変わらずだけど、隣にはフィナンシェがある。護衛は無口だけど、お茶はちゃんと出てくる。王子は段取りが悪いけど、土下座の誠意だけは本物だ。
悪くない。
悪役令嬢の四周目は——なかなか、悪くない。




