一四六 美しい女
離宮のある地からある程度離れると、トカクは視界をふさいでいた目深のフードを取った。前髪をかきあげる。
「で、こっからどうする」
「あちらさんが馬車を休ませる予定の場所を教えてもらったんですよ、馬を走らせれば間に合います、行きましょう」
「うわーもう、わかってたけど国家機密じゃん。それフェイクの情報じゃねーだろうな」
「どうですかね、行ってみれば分かりますよ」
ユウヅツが二枚の地図をひろげる。丸文字で細やかに道順のかかれた手描きの地図と、大陸連盟内で公開されている、この付近の公的な地図だ。
「こういうルートで行きます」
「うん……、うん、わかった」
知っている知識と照らし合わせたが、めちゃくちゃなデマをつかまされているわけではなさそうだ。行くだけの価値はある。
「ちなみにだけど、どうやって教えてもらうんだ? こういうの」
「チュリー様と殿下が会えそうな場所を教えてください、行けたら行きたいんでってチュリー様の御付きの方にお願いしました」
「行けたら行くで本当に行くやつもめずらしいな」
実際に行けるかもまだ分からんが。
というわけで、二人は馬を走らせた。
数刻後、トカクは「どうなってんだ、この地図はよ」と紙ぺらを叩きつけたい衝動に駆られていた。
「そんな怒らないでください殿下、迷子になることなく目的地までたどり着けてるじゃないですか」
「着けてねーだろ!!」
トカクとユウヅツは切り立った崖の上にいた。
もちろん、二人は崖にのぼったつもりはない。馬で移動した末に、ずっと続いていた地面が途切れたのだ。
ひとまず馬から降り、見下ろすと崖だったのである。
そして、崖から一、二キロほど遠くに見える赤い屋根が目的地――ライラヴィルゴ一行の休憩予定地だった。
「標高差が分かるように書いとけよ! 地続きみたいに描きやがってよ!」
「殿下、そうカッカなさらないで。もう目と鼻の先ではございませんか。この崖沿いに歩いて迂回すれば、きっと降りられるところがありますよ」
「……まあ、まだ太陽も高いし、余裕がなくもないかもしれんが……」
降りられるところがあるかなんて、この地図では分からないだろう。
「教えてもらった道順から大きく外れてはいないと思うんですよ。間違っているとしたら座標……ここより東か西かにズレれば、降りられるようになっているはずです」
「まあ信じるしかないか~……」
「最悪ここからハンカチでも振って馬車を見送りましょうね」
「最悪すぎる」
トカクとユウヅツでは見送りに対する思い入れが違うにしても。
ユウヅツはこのようなイレギュラーが起きても神経が逆立ったりはしないようだった。崖だなあ、程度のものである。トカクのように崖じゃねーかと崖に怒ったりしない。
崖際を馬に走らせるのに不安があり、手綱を引いて歩いた。馬も機嫌が良さそうだ。帰りもあるので何よりである。
と、そこでトカクは振り返った。聞き捨てならない音が遠くに聞こえてきたからである。
見下ろすと、覚えのある国章の鎧や馬鞍をつけた集団が、赤い屋根の建屋の周辺にいた。
先程見下ろした時は建物や木の陰に隠れていて分からなかった。
「先頭のやつらが、もう到着してる!」
「え、早くないですか!?」
「予定より早けりゃ早いほどいいからなあ……!」
とはいえ、先頭の班は後続よりかなり早めに着くものだ。馬車に揺られて護送されているお姫様が休息を取るために、馬車より先に到着して休憩所の環境を整えておく必要があるのだ。
「けど、後続が到着するのも時間の問題だぜ……」
「……急ぎましょう!」
ユウヅツは馬の手綱を引いて先を急ごうとした。
しかし、トカクはその場から動かなかった。
崖下を見下ろす。固い地面が壁のように立ちはだかって見える。
「…………」
彼らはどれくらい前に到着したのか。後続はあとどのくらいで追いつくのか。こちらから確認できないだけで、チュリーの馬車がもう着いている可能性もある。このまま降りやすい場所を探して移動していれば建屋は見えなくなる。馬車は崖下を通らないだろう。すれ違いになるかも。
これぐらいの崖なら、ぎりぎり降りられそうだな。
いや着地でヘマをすればケガしかねん……でも痛み止め持ってきてたな……転ばなければ無傷……。
ここから赤い屋根の建屋まで一キロか二キロ……一キロなら走れば三分……足場が悪いから五分か……? こっちの方が確実か。
いける。
「ユウヅツ、おまえボクの馬持っておけ。ボクだけならここから行ける」
「え? ……あ!? 殿下ぜったいなんか良くないこと……」
考えてるでしょう!?というユウヅツの続きの言葉は絶叫に変わった。
目の前で自国の皇子が崖から飛び降りたからだ。
「殿下!!」
落下する速度に合わせて、交互に左右の足を崖の側面に突き立てる。直角に近い崖ではあるが、坂道を下るイメージで走る。
ある程度地面が近付いたところで、足が落下のスピードに追い付けなくなったので一際強く崖を蹴って跳んだ。
そこそこの滞空時間のあと、膝をやわらかく曲げて足先で降りた。すかさず倒れこみ、着地の衝撃をやわらげるために、ふくらはぎ、わき腹、背中、肩も順番に地面に接地させる。
無事を示すために、ぐるんとまわった勢いのまま二本の足で立った。ユウヅツを振り返って両手を掲げる。
「おまえはゆっくりでいい、安全に降りられる場所見つけてから来い!」
「せ……せめて説明してからしてくださいよ!!」
心臓を押さえているユウヅツは顔面蒼白だった。五点着地はユウヅツの視点からは地面に激突して転がっただけに見えたのだろう。この一瞬が引き延ばされて感じたに違いない。
「ケガされたらどうするんです!!」とユウヅツは常識的なことを叫ぶ。
トカクはといえば足を屈伸させて準備運動をしていた。着地の衝撃で太ももあたりがびりびりしている。
「あ、トリガーの服……」
土やら何やらで汚れていた。……あとで謝ろう。
「っていうか殿下、なんでそこまで……」
「馬よろしく!」
「ひ、一人で……さすがに……護衛を……」
皇子ともあろう者が見知らぬ土地で単独行動はどうなのか、という思いがあるらしい。今さら!
「いってくる!」
「ちょ……殿下ぁ……!」
二頭の馬のいななきを背中に、トカクは赤い屋根のあった方向へ走り出した。
十分ほど駆けていると建屋が見え始めた。
トカクは一定を保っていた速度をゆるめる。
「…………」
トカクはふー、と深く息をついた。
後頭部でまとめていた髪をおろす。袖で顔をぬぐった。そうしなくても汗で化粧は落ちていそうだった。
家屋に――ライラヴィルゴの人間が、掃除やら火の番やらをしている場所に近寄っていく。
何人かは地面に置いてある丸太の椅子やテーブルでくつろいでいるようすから、どうもチュリー達はまだ到着していないと確信した。
チュリー・ヴィルガ王女の親衛隊という称号をいただいているらしい彼らは、学院の登下校時やライラヴィルゴ離宮に呼ばれた時などに、何度も顔を合わせたことがあった。
向こうが顔をおぼえてくれていることを祈る。
というか王女殿下の大親友をおぼえていないのも問題だ。今さらどうしようもないが。
走ったことで上がっていた息が整ってきたので、トカクは立ち止まり、上げ底になっているブーツを履き替えた。
身丈は小さければ小さいほど警戒は解かれるから。使わない手はない。
声。
普段から気を付けているが、普段より気を付けた。弱弱しく可憐に聞こえるように。絶対にウハクだと思われるように。
「……あの! チュリー様の護衛の皆様ですか?」
ほぼ手ぶらみたいな出で立ちで小道から姿をあらわした人影に、兵士たちは不審そうにした。しかし『チュリー』と、自分達が守っている王女の名前を知っていたことにも不思議そうに。
トカクがあらわれた場所からいちばん近い位置にいた兵士が慎重に近付いてきた。剣に手が伸びていない。この距離でも、トカクは間違いなく無力な少女に見えるらしかった。
そして、兵士がある程度トカクに近寄ると、はっと顔色が変わった。
「あなた様は王女殿下のご学友の……!」
「あ……はい、ええと、ワタクシ……」
「お一人でどうされました。ささ、こちらへ」
どうやらトカクは貴人として扱われるらしい。うやうやしく屋根のある場所に招かれ椅子を勧められた。トカクはそれが当然、というふうに座る。
さて。
「いったいどうされました?」
「その御姿は……」
「王女殿下に会いにきてくださったのですか?」
矢継ぎ早にされる質問を、トカクは「あの」と声に出すことで止めた。胸の前で祈るように手を握る。
「ワタクシは……じゃなくて、あの……『ウハク』は本日、大切な役目があり、ここには来られないのです」
トカクは目線をさまよわせる。うろたえているからではない。緊張しているように見せるためだ。
『あきらかに嘘とわかる嘘』をついていると思わせ、そのうえでこちらの虚言に乗ってもらわなければいけない。
「それで……ワタクシはここにいてはいけない……から。……ワタクシはウハク・ムツラボシの双子の兄です。恐れ多くもチュリー・ヴィルガ王女殿下にご伝言があってまいりました。……ということで、チュリー様に会わせていただくことは叶いませんか……?」
大きな瞳をうるませる。
これは色仕掛けではない。無害の主張である。
ユウヅツがいつもやっていることの応用だ。
人畜無害さを突き詰めるとかわいいになる。ウハクよりもユウヅツのそれを意識した演技が、思った通りの効果を見せると、用は済んだとばかりにトカクは髪をまとめ直した。
数分後、チュリーを乗せた馬車が休憩地に到着した。
兵士のひとりがトカクの存在を報告しに向かう。
会わせてもらえると思いたいが、こうなると運任せだった。今や王太子妃となる彼女に、これまでのように会わせてもらえるか。謁見が許されるか。
という不安は間もなく解消された。
「会わせてもらえるか」の返事より先に、チュリー本人が飛んできたからである。
「嘘!? 本当にいる! ぼろぼろじゃないの何してるのよウハクさん!」
「いやウハクはここにいたらいけないのでワタ」
「崖から飛び降りてここに来たって聞いたわよ! 無茶しすぎよ!」
どん!とぶつかる勢いで抱きつかれた。トカクはぐええと皇族らしからぬ声が出る。
「チュリー様、くるしいですよ」
「…………」
「チュリー様?」
体重をかけながらぐにぐにとトカクのあばら当たりを押していたチュリーは、それでもトカクが痛がるそぶりを見せないのを見ると、ようやく安心したように顔を上げた。
「本当にケガはないみたいねっ」
「おかげさまで」
「山賊にでも遭ったみたいよ」
「山賊に遭ってたらこんなものでは済みませんよ」
ふふふ!と二人は同時に笑う。
美しい少女たちの友情に、周囲の兵士や侍女達はあたたかい目を向けていた。
「ウハクさん、でもどうして……」
「ちょっ……とお待ちください。『ウハク』がここにいるのはマズイんです。ですので……」
「あら! あんまり呼んじゃいけないのね」
チュリーは口を押さえた。そして。
「じゃあこっち!」
手を引かれた。
一応、トカクには見張りが付いていたのだが引き離される形になる。
「見えるところにいるわ、声が届かないようにってだけ」
護衛に聞かれる前にチュリーが追手を拒絶した。ちゃんと周囲が見えるようになったのだな、とトカクは思う。
現在は主に馬を休めるための休憩で、お姫様はともかく、人間達はいろいろと働いていた。その隙間を抜けて、屋根からある程度の距離がある原っぱの中央に二人で立った。
そこにいると風が吹いて心地よかった。
「…………」
「それで『お兄様』、ご伝言って?」
「ん、…………」
言うべきことは特にない。
顔が見たくて来たようなものだ。しかし、それをそのまま告げるのは憚られた。
チュリーもそれをある程度は察しているようで追及はなかった。二人して木が風に揺れるのをながめる。
「私はね」
とチュリーの方から話し始めた。
「ウハクさんと友達になるまで、あんまり世界のこと分かっていなかった感じがあって」
「……はじめてお会いした時から聡明だったではありませんか。かたすみの我が国のこともよくご存知でしたし」
「それは知ってたけど、もっと根本的なこと……」
つないだ右手を握りしめられて、トカクはそちらに顔を向けた。紅玉の瞳と目が合う。手に当たる風が冷たく感じる。
「自分が変わることで周りも変わるみたいな、そういう、たぶん当たり前のことが分かってなかったの」
「…………」
「でも今は分かっているから、私はいくらでも世界を変えていけるわね」
ありがとう、とチュリーは言った。
「あなたと友達になれた自分のこと、褒めたいと思えたわ」
チュリーはそう言うと笑った。
「直接言えてよかった。今日は来てくれてありがとう」
「…………」
「……ウハクさん?」
ううむいて黙ったトカクに、チュリーは心配げに肩を叩こうとした。その手をトカクが先に取った。
「?」
両手でチュリーの手を握りしめる。トカクはその手を、祈るようにひたいに当てた。
「あの……チュリー様……。ワタクシは……、」
鼻声になったが、取り繕えるほどの時間は残されていなかった。
「ワタクシは……本当にあなたに……あなたが……。……あなたが本当に帝国に来てくれたらと……」
「ええ、私も一度は行きたかった」
「違うんです、ワタクシは」
トカクは否定した。
「……チュリー様が、はじめてお会いした時に言ってくださったように……なればと……」
「…………」
チュリーの目がかすかにひらかれた。
トカクはぐっとまぶたをつむる。
「チュリー様が、ワタクシのお兄様と……トカクと結ばれるような未来があればと、思っておりました」
トカクはそれを言いきると、ふっと肩が軽くなった心地がした。ああこれが言いたかったのかと自分で納得する。口端で笑う。
チュリーは、トカクをおもんぱかるような声をかけた。
「ウハクさん……」
「あの日、チュリー様をお兄様に紹介することを、選ばなかったのを後悔しています。だまして帝国に連れて行けばよかった」
「だますって」
「うちに来たが最後、とんでもない苦労をされるのは間違いありませんからね」
前にお話ししたとおりです、とトカクは肩をすくめた。
そっとトカクがチュリーの手首を解放する。その手で眦をこすりながら顔を上げた。
「だからチュリー様、あなたの選択はきっと大正解ですよ」
「……そう、私が選んだことなのよね」
チュリーはうなずいた。
「だからこそ、太鼓判を押してもらえるとほっとするわ。……でもボーテスなら楽みたいな言い方はよして! これでも私、向こうで苦労する気でいるんだから」
「それは、そうですね」
力なくトカクは笑った。
「…………」
チュリーは、そっと手拭いをトカクの眦に押し当てた。
「汗がひどいわ」
「あの崖を下るのは、さすがに肝を冷やしました」
「あなたのお転婆を、ちょっと甘く見ていたわ。私が言えたことじゃないけど、おしとやかにした方がよくてよ。命がいくつあっても足りないわ」
「肝に銘じます」
「男の子だって、あなたほど野蛮なひとも珍しいでしょう」
「んん……」
野蛮と言われてしまった。トカクは苦虫を噛む。それをオブラートに包むと勇猛果敢という言葉になるのだろう。
す、とチュリーがハンカチを持つ手を下げる。
そして目を伏せた。表情が抜け落ちる。
「あなたが男の子だったら……、…………」
男の子だったらどう、という続きをチュリーは口にしなかった。
汗で頬に貼りついたトカクの髪を丁寧に払ってやる。
それから。
「う、」
そっと頬に口づけられて、トカクはびくりと身体を強張らせた。やわらかい髪が肌をくすぐる。
かっと赤くなってチュリーを押しのけたトカクに、チュリーは「ああ、あなたの国ではしないのよね」と小首をかしげた。
「ボ、ワタクシを驚かせると分かっていてやったでしょう、今のは……」
「ふふ! どうかしら?」
チュリーは手を後ろに組んだ。
「…………」
ああ、美しい女だなとトカクは思った。
(はじめて会った時は……さすが『攻略対象』だけあって景品として並べるに足る、みたいな俗な感想しかなかったが……)
こちらの認識が変わったからか。よくよく見るようになったからか。それとも……。
事実、お美しく成長なされたのか。
「おぼえたわ、あなたの顔」
しばし無言で互いの顔をながめるだけで時間が過ぎていたことに気付いて、トカクはハッとした。チュリーは気にしない様子で、それからニコッと笑う。
「ウハクさん、私もあなたが好きだから」
「…………」
「好きだから、忘れないでね」
白い手が伸ばされる。
トカクはそれを握り返した。自分の体温より低い皮膚の温度をおぼえるために握る。
「……忘れません」
周囲にふたりの固い友情をしめす握手だった。