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机引き  作者: 鵜狩三善
3/3

3.

 それからどうやって家に帰ったのか、部屋に戻ったのか、私は少しも覚えていない。

 目覚ましの音で我に返るともう翌朝で、私はしっかり寝巻きに着替えてベッドで横になっていた。自分の周到さに、冷めた笑いが出る。

 お陰で、何もかもが全てが夢のように思えて。

 だから全部夢だったのだと思い込もうとした。

 けれど、駄目だった。私の手首には、くっきりと千広の指の痕が烙印されていた。

 それでも自分を誤魔化して、鞄の中からスマートフォンを取り出した。


 ──昨日は脅かしてごめん。


 そんな内容の留守番電話が入っていたり、メールが届いていたりを期待していた。

 でも、やっぱり駄目だった。千広からの着信も、電信も。どちらもありはしなかった。

 そうこうするうちに、母が部屋のドアをノックした。「そろそろ朝ごはん食べないと学校に遅刻するわよ」なんて呑気を言う。

 学校へは、教室には、到底入れる気がしなかった。


「ごめん、お母さん。なんか凄く気分が悪くて」


 ドア越しに返すと母はしばし思案して、


「ま、いいわ。学校には連絡しておいてあげる。今日はお休みにしなさい。昨日からずっと、様子が変だったものね」


 仔細はわからないながら、気遣ってくれたようだった。

 遠ざかる母の足音が完全に聞こえなくなってから、私は頭から布団を被って、声を殺して泣いた。


 ──千広。千広。千広。


 引き込まれた彼女は、どうなってしまったのだろう。

 もっと早く行動していれば。

 もっとうまいやり方をしていれば。

 彼女はああならなかったかもしれない。彼女を助けられたかもしれない。

 私は、何をどう間違えてしまったのだろう。

 後悔ばかりが堆積(たいせき)をして、私の心は押し潰される。

 やがて、泣きながら眠った。




 微かな物音で目を覚ますと、部屋には夕日の色が満ちていた。

 いつもなら美しく感じるだろう見事な夕焼けは、けれど今の私にとって、ひどく忌まわしい色彩だった。どうしても昨日の事を、放課後の教室を思い出してしまう。

 眠り過ぎて痛む頭のまま、ぼんやりと目を(しばた)き、そして。


 かり。


 私を微睡みから呼び戻した音がまた耳に入って、ぞっと体の芯まで凍りついた。冷水を浴びせられたような心地だった。

 反射的にベッドの中で体を丸め、できるだけ身を小さくして息を殺す。

 そうして完全にクリアになった意識で探れば、それは私の部屋にある学習机からしているのだと知れた。


 かり。

 かりり、かり。


 間違いようのないあの音が、確かに聞こえている。

 けれど、私は少しだけの安堵を覚えた。

 学校のものは塞ぎのない中空だけれど、あの机は違う。ちゃんと引き出しになっている。そしてそこにはプライベートなものを収めてあるから、いつもちゃんと鍵をかけていた。

 ならばそれを開けない限り、あの指たちは這い出て来れないだろうと思ったのだ。

 恐る恐るで布団から首を出し、確かめる。するとやはり、その通りのようだった。指の音に合わせて机の引き出しは揺れている。でも、開く気配は微塵もなかった。

 一度は胸をなで下ろしたものの、だからといって事態が打開されたわけではない。

 指は休む事を知らずに掻き続けている。

 いつか硬い金属も掘り破られてしまうのではと、私は平静でいられなかった。

 けれど、身動きするのもまた恐ろしかった。ほんの少しの物音でも立てたが最後、指たちは私がここにいると確信をして、これまで以上の力でこちら側に溢れてくるように思えた。

 他にできる事などなかった。早く、一刻でも早く音が止んでくれるようにと、指が諦めてくれるようにと、私は願う。

 (おそ)れに心を削られながら、一体どれくらいの時間を耐えただろう。

 不意に、それはぴたりと静まった。

 そのまま十秒。

 二十秒。

 三十秒。

 何も起きない。聞こえない。

 ほっと気を緩めかけた、その時。


「──茅子」


 机の中から、よく知った声が響いた。

 

「いるんでしょう、ねえ? そこにいるんでしょう? ねえ茅子。応えてよ。ねえ。ねぇ、ねぇってばぁ。かぁやぁこぉぉぉぉぅ」


 床を低く這うその声調は、明るくはきはきとした友人のそれとはあまりにかけ離れていて。

 私は両手で口を押さえ、またぼろぼろと涙を零す。


「……怒ってるの? そうだよね、怒ってるよね。手、痛かったよね。ごめん。ごめんねぇ? 昨日はあたし、ちょっと間違えちゃったんだ。ムキになっちゃったんだよ。だって大介のヤツ、いっつも茅子ばっかり見てるからさ。だからあたし、妬ましくて。それで、ついあんな事言っちゃったんだよ。茅子に八つ当たりしちゃったんだよ」


 机の中の千広は囁きながら、またがりがりと引き出しの内側を掻き毟る。

 早鐘のように鳴る心臓が、千広に聞こえませんようにとただ祈る。


「でも嘘じゃないよ。大介をあげるって言ったのは、嘘じゃない。本当だよ。茅子だって欲しがってたんだから、それで許してくれるでしょ? ね、だからここを開けてよ、茅子。謝るから。昨日の事、あたし謝るから。お願い、ここを開けてよ」


 彼女の言葉は、少しも理解できない、異国の言葉の連なりみたいだった。

 ただその裏にある執念だけが、妄念だけが、ひたひたと押し寄せて私の体を呪縛する。

 

「それでね、ちょっとだけ、ちょっとだけでいいから食べさせて。お腹が減ってるの。すごくお腹が減ってるのよぅ」


 (なだ)めて(すか)して哀訴(あいそ)して。千広の声は途切れなく繰り返される。

 ちょっとの衣擦(きぬず)れを立てるのも怖くて、耳を塞ぐ事もできずに私はそれを聞き続ける。


「茅子。ねぇ、茅子。これだけ言っても駄目なの? 許してくれないの? 開けてくれないの? ……それとももしかして、そこにはいないの?」


 永遠に続くかと思えた声が、ふっと惑いの色を帯びた。

 かりかりと机の中を掻く音も、心なしか勢いを減じたようだった。


「そっか。いないのか。そっかぁ……」


 応えがないのが答えとばかりに、千広がひとり頷く気配がする。

 掻き毟りもそれに連れ、確かに弱まり消えていく。


「寂しい。寂しいよ、カヤ」


 それまでとは異なる、今にも泣き出しそうな言葉を最後に、机の中は静かになった。

 と同時に、道行く人々の会話や自動車の排気音が、外の喧騒が私の耳に届き始める。まるで切り離されていた世界が再び繋がったみたいだった。

 詰めていた息をほうと吐き出し、私は恐怖とは違う涙をぽろぽろ落とす。

 また、間違えてしまったのかもしれないと思っていた。

 残されたあの一言は、きっと千広のものだった。

 ひょっとしたら彼女は、どうにか私に助けを求めに来たのかもしれない。私には今度こそ、何かができたのかもしれない。

 なのに私は、ひたすらに怯えるばかりだった。

 我が身可愛さで手を差し伸べさえしなかった。

 ベッドから降りて、机に向かう。引き出しをこちら側からそっと撫で、呟いた。


「……ごめんね、千広」


 その、瞬間だった。

 がたん、と大きく机が揺れた。誰かが中から殴りつけたみたいだった。


「やっぱり居たんだ。やっぱり居るんだ。意地悪。茅子の意地悪。もう許さないから。次は、絶対逃がさないから」


 それきり──今度こそそれきりで声は途絶えたけれど。

 ただ一瞬に見せつけられた悪意に、ただ一瞬で叩きつけられた敵意に。

 手足からは(たちま)ち力が抜けて、私は抜け殻のように、くたりと床にへたり込む。もう、身動(みじろ)ぎもできなかった。



 私は、それから学校へは行かなくなった。学校には行けなくなった。

 だってあそこで、千広は待っているに違いないから。あの狭くて小さな中空で、待ち構えているに違いないから。

 学友たちは今も教室で、机に向かって勉学に励んでいるのだろう。

 でも無理だ。

 私にはもう無理だ。

 二度とあんなものの前に、無防備に体を晒す気にはなれない。

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