第1章 第1話 血の母
第1話
中世ヨーロッパ。のちに『ルネサンス』と呼ばれる、可憐で華やかな芸術の時代。
世には画家や彫刻、建築、ダンスなどのキラびやかな装いがあふれる裏で――教会や領主、そして反勢力組織が、密かに血で血を洗うドロドロのしのぎ合いを繰り広げていた時代である。
故に、芸術家たちは牙を抜かれ、お上を刺激しない当たり障りのない絵や彫刻しか遺せない。表現への規制が、あまりにも強い時代でもあった。
これは、そんな暗黒の規制に(知らず知らずのうちに)中指を立て、のちに凄まじい頭角を現すことになる、とある「画家」と「彫刻家」の物語である。
◇
暗い。とても暗い。
遠くから照らされる、鉄格子越しのわずかな明かり。床は氷のように冷たく、狭い部屋の中には何もない。
「クソめ」
凍えた声で、私は1人ごちる。描きたいものを好きなように描いただけの私は、「異端」の烙印を押され、この暗黒の牢獄へと投獄されたのだ。
朝か夜かも分からなくなるほど時間が経った頃、壁の向こう、隣の房から「カリカリ、カリカリ」と何かを引っ掻くような、奇妙な音が響いてきた。
「おい、カリカリうるさいぞ!何をしてる?」
思わず声を荒らげると、壁の向こうから調子の良さそうな若い男の声が返ってきた。
「はっ!最後に自分がここにいた証を、刻んでるんだよ!ただ作品を作ってただけなのに、異端とか言われて投獄だぞ?バカらしい」
「奇遇だな。俺も同じだ」
「ははっ!あんたもかい。あんたは一体、何をしでかしたんだ?」
「……衣服の上からでも、女性の生々しい肉体の曲線が分かるように描いただけだ!」
「……それは捕まる」
若い男の呆れたような声に、私は一歩も引かずに言い返した。
「何が悪い!好きな事を好きなだけ描きたかったんだ!」
「この時代では無理だね。まっ!火あぶりになるまで、せいぜい絵でも描いてな」
男はそう言うと、またカリカリと音を立て始めた。その後、私が何を話しかけても、ただ削る乾いた音しか聞こえなかった。
食事も与えられず、ただ処刑を待つだけの暗闇。
何も道具はない。だが、描かずにはいられない。私は自らの指を強く噛みちぎり、そこから溢れ出る生々しい血を筆代わりにして、冷たい石壁に絵を描き始めた。
描いたのは、幼い頃に自分を包み込んでくれた、「最愛の母」の姿だった。
――それから、どれほどの時間が流れただろうか。
「おい……壁に何を書いた!?」
突然、牢獄の静寂を破って、看守の乱暴な怒鳴り声が響いた。何日もまともな食材を口にしていない私には、もう声をあげる気力も残っていなかった。
「おい!聞いているのか!?」
鉄格子を警棒で思い切り叩く音が、私の耳の奥まで耳障りに響く。私は力を振り絞り、掠れた声で、一言だけ呟いた。
「……愛」
本当は「愛する母の絵だ」と言いたかった。だが、それ以上の声が出ない。
「なっ……!」
看守は私の言葉を聞いた瞬間、なぜか恐怖に怯えたような声をあげた。鉄格子の隙間から見えた壁の絵が、まるで神聖な後光を放ち、自らの罪を裁くかのように見えたのかもしれない。看守は何を思ったのか、そのまま牢獄から一目散に走って逃げ去っていった。遠ざかる足音を聞きながら、私の意識は唐突に、深い闇へと落ちていった。
◇
次に目が覚めたとき、私の背中にあったのは冷たい石の床ではなかった。柔らかいベッドの上だった。
ぼやける視線を横に向けると、見知らぬ女性が私を覗き込んでいた。
「気づいた?あなた、本当に運がいいね」
「……なぜ、俺がベッドに?」
喉の渇きをこらえながら問いかけると、彼女は呆れたように、しかし優しく微笑んだ。
「自分がしたことも分からないの?牢獄の壁に、血で絵を書いたでしょ。それが、『聖母マリア』の姿にそっくりだって、街中で大騒ぎよ。奇跡の顕現だってね。あなたの異端疑惑は完全にひっくり返って取り消しになったのよ!」
「あの教会の強欲司教がさ、あんたたちの『奇跡の腕』をすっかり気に入って、これからの集金ビジネスに使い倒すために、わざわざうちの宿の一番いいベッドを貸し切りにしてたっぷり金を払って介護を依頼してきたんだよ。まったく、現金な連中さね」
自分の命が助かったという信じられない事実に、私は唖然とした。――と、そこでハッと我に返り、私は暗闇の独房で言葉を交わした『もう一人の異端者』の存在を思い出した。
「……隣の房に入ってた、あの若い男はどうなった?」
「はぁ……。あんたの反対側で寝てるよ」
「えっ!?」
慌てて反対側へ振り向くと、なんとあのカリカリ男が、別のベッドでこれ以上ないほど気持ちよさそうに泥のように眠っていやがった。
呆気にとられる私に、女性は笑いながら続けた。
「あの男も、あんたと同じさね。牢獄の砕けた壁の石を削って、聖母マリアの『像』を彫り上げたんだって。教会がね、こんな神聖な像を彫る者に異端などいるはずがないって判断したんだとさ」
同じ境遇。
同じタイミングでの、奇跡の生還。
私は、隣で呑気に大いびきをかいている若い男の寝顔を見つめながら、これから始まる奇妙な出会いに、ほんの少しだけ口元を緩めるのだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
画面下にある【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にポチッと染めて評価・応援していただけると、次の突貫工事(執筆)のめちゃくちゃ励みになります!
(次回のドロップも、楽しみにお待ちください!)




