第八十五話 話の続き
第八十五話 話の続き
翌朝、レインは拠点の一室にカイン、ルーク、ノエルを集めた。
ガルドたちには事情を説明していたが、今回は家族だけで話すことにした。父がどこまで自分を保っているのか分からず、何を話せるのかも分からない以上、大勢で囲む必要はないと考えたからだった。
「最初に確認しておく」
レインは三人を見る。
「父さんを復活させるわけじゃない。保存してある人格情報と記憶情報を、一時的に会話できる状態へ繋ぐだけだ。分からないことを聞いても答えられないかもしれないし、俺たちを認識できない可能性もある」
「分かってる」
カインが答えた。
ルークも頷く。
ノエルだけは少し緊張しているようだったが、それでも部屋を出ようとはしなかった。
レインは《世界継承機構》を開いた。
【継承領域内保存個体――選択】
【個体識別――父】
【人格情報――34%】
【記憶情報――21%】
【生命情報――保存】
【復元処理――禁止】
【情報補完――禁止】
【限定通信――開始可能】
ここで重要なのは、残っていないものを作らないことだった。
父らしい答えを世界継承機構が推測することも、欠損した記憶を周囲の人間から補うことも許可しない。今から話す相手は完全な父ではなく、消滅する直前まで残っていた父の一部でしかない。
それでも本人が残りたいと願ったものだった。
「接続する」
【保存個体意思確認――実行】
しばらく反応がなかった。
やがて。
【応答――あり】
【限定通信――承認】
部屋の中央に淡い光が集まった。
人間の肉体が形成されることはない。ただ、会話する相手を認識しやすくするために、保存されている外見情報の範囲だけで半透明の輪郭が表示される。
白衣を着た男。
レインたちの父。
男は目を開けた。
最初にレインを見る。
『……帰ったか』
レインは一瞬、言葉を失った。
境界の奥で別れた時と同じ声だった。
「ただいま」
男は僅かに笑った。
『そうか』
それだけだった。
しかし、その短いやり取りだけでレインには十分だった。
父の視線が隣へ動く。
カインを見る。
少し長い沈黙。
『カイン』
カインの表情が変わった。
「覚えてるんだ」
『全部ではない』
父は正直に答えた。
『お前を閉じ込めたことは覚えている。理由も……一部は残っている』
「じゃあ話の続きができるね」
『そうだな』
カインは父の正面へ立った。
以前なら怒りをぶつけていたかもしれない。
自分だけを封じ、存在そのものを消そうとした相手なのだから、許せなくて当然だった。
「僕は、まだ父さんを許してない」
『分かっている』
「でも、前よりは少し分かった。僕とレインを分けたこと自体は間違いじゃなかった。僕たちは最初から二人でいるべきだったから」
父は黙って聞いている。
「でも、その後で僕だけ閉じ込めたのは別だから」
『ああ』
「そこは一緒にしない」
『その通りだ』
言い訳はなかった。
観測者が怖かった。
ノエルの事件を繰り返すのが怖かった。
二人を同時に育てる方法が分からなかった。
理由はいくらでもあっただろう。
だが理由があったことと、正しかったことは同じではない。
『私は、お前を息子として見るより先に危険性を見た』
父が言った。
『あの時の私は、それを間違いだと認める余裕すらなかった』
カインはしばらく父を見つめていた。
「じゃあ、これから考えて」
『何をだ』
「僕がどんな人間なのか」
カインは少し笑った。
「父さん、僕のことほとんど知らないでしょ」
父も僅かに笑った。
『確かに』
「だから今すぐ許すかどうか決めない。父さんも、今すぐ消えないで」
『……分かった』
それは和解ではなかった。
けれど、以前とは違う。
関係を終わらせないという選択だった。
次に父の視線がルークへ向いた。
しかし、そこで止まった。
『……すまない』
ルークは表情を変えなかった。
「僕が誰か分からない?」
長い沈黙の後、父は答えた。
『名前が出ない』
レインは胸が痛んだ。
だが補わない。
それが父自身の希望だった。
ルークは少しだけ俯いたものの、やがて顔を上げた。
「ルーク」
父の目が動く。
「あなたの息子。レインの弟で、ノエルの兄」
『ルーク……』
父が名前を繰り返す。
何かを探しているようだった。
しかし、世界継承機構に変化はない。
記憶は戻らなかった。
『すまない』
「謝らなくていいよ」
ルークは静かに言った。
「忘れたくて忘れたんじゃないんでしょ」
『それでも、父親が息子を覚えていない』
「だったら、今覚えて」
父が顔を上げる。
「僕はルーク。今は《記録保持者》っていう変な能力を持ってて、兄さんが世界の外まで行くたびに記録を探させられてる」
「おい」
レインが思わず口を挟む。
ルークは無視した。
「それと、ノエルを見つけたのも僕。全部じゃないけど、兄さんたちが忘れてたものを少しずつ拾った」
父は黙って聞いていた。
『そうか』
「だから、これから知ればいい」
父の輪郭が僅かに揺れた。
感情反応なのか、保存情報の不安定化なのか分からない。
レインが状態を確認する。
【保存状態――安定】
問題はなかった。
そして最後に、父はノエルを見た。
ノエルも父を見る。
長い沈黙になった。
父の表情に明確な混乱が現れた。
『……誰だ』
レインは目を閉じそうになった。
予想していた。
ノエルの存在は世界そのものから消されていた時期が長い。父の残存記憶が僅か二十一%なら、そこにノエルが残っていなくても不思議ではない。
ノエルは少しだけレインを見る。
それから自分で父へ向き直った。
「ノエル」
『ノエル……』
「あなたの息子」
父の表情が止まった。
「レイン兄ちゃんとルーク兄ちゃんの弟」
ノエルはカインを見る。
少し考えてから付け加えた。
「それと、カイン兄ちゃんの弟でもあるみたい」
「みたいって何」
カインが不満そうに言う。
「まだ三日しか知らないから」
「まあ、それはそうだけど」
父は二人の会話を見ていた。
やがて。
『ノエル』
もう一度、名前を呼んだ。
だが記憶は戻らない。
それでもノエルは続けた。
「僕、一回いなくなったんだって」
父の輪郭が揺れた。
「でも帰ってきた」
ノエルは自分の胸へ手を当てる。
「全部覚えてない。父さんのことも、少ししか覚えてない」
『……そうか』
「だから同じだね」
父が僅かに目を見開いた。
ノエルは笑った。
「僕も父さんを全部覚えてない。父さんも僕を覚えてない。だったら、今からでいいんじゃない?」
誰も言葉を挟まなかった。
父は長い間ノエルを見つめていた。
そして、深く頭を下げた。
『すまなかった』
ノエルが首を傾げる。
「何が?」
『お前を守れなかった』
「覚えてないのに?」
『事実として聞いた。そして、お前が私の息子なら……私は謝らなければならない』
ノエルは少し困った顔をした。
「じゃあ、僕が思い出して怒りたくなったら、その時もう一回謝って」
父が顔を上げる。
「今は帰ってこられたから、それでいい」
『……分かった』
許したわけではない。
忘れたまま済ませたわけでもない。
今はまだ判断できないから、未来へ残した。
それで十分だった。
会話を始めてから二十分ほど経った頃、警告が表示された。
【限定通信負荷――上昇】
【保存情報劣化――なし】
【推奨――通信終了】
レインは父を見る。
「今日はここまでみたいだ」
『そうか』
父は四人を順番に見た。
『次もあるのか』
「父さんが望むなら」
レインが答える。
『なら、頼む』
カインが腕を組む。
「まだ話は終わってないからね」
『覚えている』
「次まで忘れないでよ」
『努力する』
「努力でどうにかなるの?」
『分からん』
カインが笑った。
父も笑った。
最後に父はノエルへ視線を向ける。
『ノエル』
「何?」
『次に話す時も、名前を教えてくれ』
ノエルは少し驚いた後、大きく頷いた。
「何回でも教えるよ」
父の輪郭が消えていく。
完全に消える直前、男は小さく言った。
『四人とも、生きていてくれてありがとう』
通信が終了した。
【限定通信――終了】
【保存状態――安定】
【人格情報――34%】
【記憶情報――21%】
数字は増えていない。
減ってもいない。
それでいい。
失われた父を取り戻したわけではなかった。
家族の記憶が奇跡的に蘇ったわけでもない。
ただ、残っている者同士で新しい会話を一つ作った。
レインは表示を閉じようとした。
その時だった。
《世界継承機構》の最深部で、これまで開いたことのない領域が一瞬だけ反応した。
【世界継承機構――完成状態確認】
【継承世界数――0】
【原初管理記録――照合条件成立】
レインの手が止まる。
さらに一行。
【未読記録――1】
カインも表示に気づいた。
「何、それ」
「分からない」
レインはすぐには開かなかった。
以前なら、その場で確認していただろう。
だが今は父との会話を終えたばかりだった。
急ぐ理由がないなら、急がなくていい。
「後で見る」
カインが驚いた顔をする。
「レインが?」
「何だよ」
「成長したね」
「お前に言われたくない」
ノエルが二人の間へ割り込む。
「お腹空いた」
「朝飯食っただろ」
「話してたら空いた」
「早すぎるだろ」
ルークが笑いながら部屋を出ていく。
レインも後を追った。
世界継承機構の奥には、まだ知らない記録が残っている。
Rainを最初に作った者。
二つの核を生み出した理由。
そして世界継承という仕組みそのものの始まり。
いつかは向き合わなければならない。
だが今は、その前にやることがあった。
「兄ちゃん、何か作って」
「何がいい?」
「肉」
「朝から?」
「魚は?」
廊下の向こうからエルの声が飛んできた。
「魚は嫌!」
全員が笑った。
四千年以上の謎も、世界の始まりも逃げはしない。
だから今日は、家族の話の続きをした後で、みんなの昼飯を作ればいい。
世界最強の後衛は、そうして初めて、自分の過去ではなく自分の時間を生き始めていた。
――第八十五話 了――




