第六十四話 二人とも連れて帰る
第六十四話 二人とも連れて帰る
「二人とも連れて帰る」
レインがそう言い切った直後にも、境界外生命情報保管区の崩壊は止まらず、それまで暗闇の中を埋め尽くしていた無数の光が、一つずつ静かに消え始めていた。足元に存在しているように感じられていた空間さえ時折大きく揺らぎ、少し離れた場所にいるノエルやアイリスの姿が霞むたび、レインは胸の奥を強く締めつけられるような感覚を覚えた。
視界には、保存領域の状態を示す表示が浮かんでいる。
【消失個体保護領域――安定率81%】
数字だけなら、まだ余裕があるようにも見える。しかしノアは周囲を注意深く観察した後、この崩壊は一定速度ではなく、保存情報が失われるほど残された領域への負荷が増し、そこからさらに崩壊が加速していると説明した。
「このままなら二十分も保たない可能性がある。二人とも助けたいという判断には賛成するが、今すぐ完全復元するのは無理だ。まず、この場所から二人の存在情報を退避させる方法を考える必要がある」
「ノエルとアイリスじゃ、戻すための条件が違うんだよな?」
「ああ。ノエルには帰る世界があるが、アイリスにはない。その差は大きい」
レインは改めて二人の情報を確認した。
ノエルはこの世界で生まれ、この世界で家族と暮らしていた人間であり、七歳の頃にレインとカインがまだ一つだった時、その暴走によって存在そのものを奪われてしまった。それでもレインとカインの内部には存在情報が五十%ずつ残され、ルークには失われた記録があり、さらにレオンが幼い頃から守ってきた世界記録の複製も存在するため、それらを繋げれば「ノエルという人間がこの世界に存在していた」という証明を再構築できる。
一方のアイリスは、千年以上前に滅びた別世界の存在だった。現在の世界には彼女を知る者も、彼女が生きていた記録も存在せず、仮に《レゾナンス》で肉体を再構築できたとしても、世界そのものから異物として排除される可能性がある。
「だったら、私を置いていけばいいよ」
アイリスは穏やかにそう言った。
「ノエルは兄弟なんでしょ。それに私は、Rainが二人のままここまで来てくれたことを確認できたから、それでもう十分だよ」
レインはすぐには答えず、彼女の表情を見つめた。千年以上前、アイリスはもう一人のRainを生かすため、自分だけが崩壊する世界へ残る道を選んだ。そして今もまた、ノエルを助けるためなら自分は残ってもいいと言っている。
それでは何も変わらない。
「アイリス、それは本当にお前が望んでることなのか?」
『え?』
「Rainのためでも、ノエルのためでもなく、お前自身がどうしたいかって聞いてる。俺たちが見てきた過去のRainは、誰かを助けるために自分を犠牲にして、一人で全部背負って、そのたびに次の時代へ問題を残してきた。俺も同じことをやりかけたし、カインと二人になってから、ようやく一人で全部やる必要はないって分かった。だから、お前にも同じ選び方をしてほしくない」
アイリスは答えず、自分の半透明になった手を見つめた。彼女にとって「誰かのためではなく、自分がどうしたいか」を考えること自体が、あまりにも久しぶりだったのかもしれない。
しばらくして、アイリスはゆっくり顔を上げた。
『今の世界を見てみたい』
「今の世界?」
『千年前とは全然違うんでしょ。空を見てみたいし、街を歩いてみたい。それから、私が名前を選んだ時に見たアイリスの花が、今の世界にもあるのか探してみたい』
レインが答えるより先に、後ろにいたユウトが口を挟んだ。
「なかったら探せばいいし、それでもなければ似た花を見つければいい。世界を救おうとしている連中が、花一つで諦める必要はないだろう」
「お前、たまに妙にいいこと言うよな」
「たまには余計だ」
二人のやり取りを聞いたアイリスが笑う。その笑顔を見たレインは、今度こそ迷わず頷いた。
「じゃあ決まりだ。アイリスも一緒に帰ろう」
その瞬間、彼女の情報が変化した。
【アイリス――自己存在意思確認】
【世界帰還意思――成立】
【世界承認――0%】
本人の意思は成立した。しかし、この世界からの承認が存在しない。
レインはその表示を見ながら考え、やがて一つの答えに辿り着いた。
「世界承認って、この世界に住んでる人たちが『ここにいてもいい』って認めれば成立するんじゃないのか?」
ノアは少し考えてから頷いた。
「世界を一つの人格と考える必要はない。人間、国家、歴史、記録などの集合によって、その存在が世界の一部として認識されるのなら、お前の考え方は間違っていない可能性が高い」
「だったら聞いてみよう」
最初に《広域後衛》で繋いだのは仲間たちだった。
ベルクにいるガルド、リリア、エマ、王都にいるセラ、ミア、アレン、ソラ、レイ、ルークへ事情を説明すると、反応は驚くほど早かった。ガルドは「本人が来たいなら連れて帰ればいい」と即答し、ソラは自分も一号ではなくソラとして生きることを選び、それを受け入れてもらったのだからアイリスにも同じ権利があると言った。
そしてルークは、少しも迷わなかった。
『ノエルと一緒に帰ってきてよ。アイリス姉ちゃんも』
『お姉ちゃん?』
アイリスが驚くと、ノエルが嬉しそうに笑った。
『僕より年上でしょ?』
『千年以上って数え方はやめてほしいな』
「そこは気にするんだ」
レインが笑うと、アイリスは少しだけ頬を膨らませた。
仲間だけでは世界承認は僅かしか増えなかったため、レオンとヴァルディオスの協力を得て、アルディス王国とグランディア帝国にも事情を伝えることになった。ただし強制はせず、アイリスという別世界の少女がこの世界で生きることを望んでいることを説明し、それを受け入れてもよいと思う者だけが意思を示す方式が取られた。
当然、反対する者もいた。未知の存在を危険だと考える者もいれば、世界崩壊が迫る中で見知らぬ少女を助ける必要があるのかと疑問を持つ者もいる。
それでもレインは、それでいいと思った。
全員に認められる必要などない。誰かに強制されるのではなく、それぞれが自分で考えて選ぶことに意味がある。
やがて表示が変化した。
【世界承認――19.7%】
【最低存在承認条件――達成】
【個体名:アイリス】
【現世界への仮定着資格――成立】
アイリスは長い間、その表示を見つめていた。
『私を知らない人たちが、それでも来てもいいって言ってくれたの?』
「全員じゃない。反対した人もいるよ」
『それでもいいの?』
「いいだろ。全員から好かれないと生きちゃいけないなら、俺だってこの世界にいられる自信ないし」
アイリスは小さく笑い、それから静かに涙を流した。
しかし、喜んでいる時間はなかった。
【保存領域安定率――41%】
《レゾナンス》の完成率はまだ63%で、レインの真Lvも80に過ぎない。今ここで二人を肉体ごと復元することはできない以上、崩壊する保存領域から存在情報だけでも退避させなければならなかった。
「《レゾナンス》へ移そう」
レインが提案すると、遠く離れたベルクのエマがすぐに反応した。
『二人分を一度に送るのは危険だよ。今の《レゾナンス》で全部受け止められる保証がない』
「だから直接送らない。俺とカインが間に入る」
ノアが表情を険しくする。
「自分たちを一時的な保存媒体にするつもりか?」
「俺がノエルを支えて、カインがアイリスを支える。その状態から二つの経路で《レゾナンス》へ渡す。一人で全部抱えたら昔と同じだけど、二人なら互いを止められる」
カインはレインの意図を理解すると、少しだけ笑った。
「君がノエルをまた喰いそうになったら、僕が止める」
「お前がアイリスを喰いそうになったら、俺が止める」
「攻撃できないのに?」
「支援で何とかする」
「本当にそれしかないね」
「それしかないんじゃなくて、それでいいんだよ」
二人は同時に能力を発動した。
レインが《世界接続》でノエルを受け止め、カインが《境界干渉》によってアイリスの存在を支えると、それぞれの中へ膨大な記憶が流れ込んでくる。
レインには、幼いノエルが庭を走る姿や、ルークと喧嘩して母親に叱られていた光景、そして七歳のあの日、自分を見上げて「兄ちゃん?」と呼んだ直後に消えてしまった弟の記憶が戻ってきた。
同時にカインには、千年以上前、崩壊する世界からRainを逃がし、自分だけが残ったアイリスの記憶が流れ込んでいた。最後に彼女が黒髪のRainへ向かって告げた「次は一緒に生きようね」という約束まで伝わってきた時、カインの頬を本人の意思とは関係なく涙が伝った。
「僕の記憶じゃないのに、忘れちゃいけないって分かる」
「俺も同じだよ」
二人は《相互支援》で互いの存在を確かめながら、ノエルとアイリスの情報を《レゾナンス》へ送り始めた。
ところが、遠隔支援残存率45%では情報量に耐えられず、転送効率は38%から上がらない。このまま強行すれば、二人の存在情報の一部が欠落する危険があった。
その時、《広域後衛》にこれまでとは逆方向の流れが生まれた。
アルディスとグランディアでアイリスを受け入れると選んだ人々、そしてノエルの帰還を願う仲間たちから、レインへ向かって支援が返ってきたのである。
【《連合支援》――逆方向接続確認】
【支援構造――一方向から相互型へ移行】
【《広域後衛》――深化】
【遠隔支援残存率――45%→61%】
「届く!」
エマの声と同時に、《レゾナンス》が二つの存在情報を受け取った。
【ノエル・アーク――保存成功】
【アイリス――保存成功】
【《レゾナンス》完成率――63%→71%】
崩壊する領域から二人の姿が消えたため、レインは一瞬だけ息を止めたが、すぐにエマから《レゾナンス》内部に二つの反応が存在しているという報告が届いた。
【保存個体――2】
【ノエル・アーク】
【アイリス】
【状態――世界帰還待機】
まだ肉体はなく、声も聞こえないため、完全に帰還したわけではない。それでも二人は、もう崩壊する終焉回廊の奥に取り残されてはいなかった。
レインは大きく息を吐き、隣にいるカインを見る。
「今度は、一人も置いてこなかったな」
カインは少しだけ考えてから頷いた。
「うん。千年前とは違う」
二人の背後では、役目を終えた境界外生命情報保管区が静かに崩れていく。
その中で、たった一つだけ消えない光が残っていることに、この時最初に気づいたのはノアだった。
「レイン、まだ終わっていない」
振り返った先に残されていたのは、ノエルでもアイリスでもなく、これまで見てきたどのRainの記録よりも古い一つの光だった。
その表面には、ただ一行だけ表示されていた。
【世界継承機構――原初記録】
レインとカインは顔を見合わせる。
Rainがなぜ生まれたのかという、これまで誰も辿り着けなかった最初の記録が、二人の前で静かに開こうとしていた。
――第六十四話 了――




