後編
ベラは木製の小さなテーブルで一人、朝食を口に運んでいた。ブオナの座るべき椅子には誰もいない。いつも張り切って大量に作り過ぎ、ブオナに笑われてしまうのだが、今朝は味の薄い豆のスープと、3日目の固いパンだけだ。
パンを小さく契り、スープに浸して、口へと運ぶ。製作期のブオナの工房は物であふれてしまうため、このダイニングにさえ、画材たちは侵食してきている。
昨日王城から持ち帰った最終部分の完成予想下絵を眺めながら、塩の味しかしないパンを飲み下した。確かに、この絵は素晴らしい。水泡を散らし、金鍵を掲げる女神は、悪戯をする子供のように楽しげに、異界への扉から人間を導いている。女神のいる森は暗く、初めてこの世界に足を踏み入れた人間たちは、怯えを隠しきれてはいないが、しかし同時に希望に満ちた眼で、辺りを見渡していた。
この部分は色調が暗い。輝く神の世界との差をつける、という狙いあるのだが……。
ベラはこの闇色に、少し物足りなさを感じていた。
人の目は、光の中に複雑な階調を見出す事に優れている。その事は逆に、闇色を区別する能力に乏しい、とも言えた。他の人間に比べ色彩能力に長けているブオナでさえ、描ける闇色の絶対数が少ない。
人間の為の絵なのだから、それでいい。そう思いながらも、あとほんの少し足りない色調に、引っ掛かりを覚えていた。
「……やはり、ブオナ様が戻られたら、闇色について話してみましょう。」
ブオナ様が戻られたら。
ベラは昨日の出来事を思いだし、スプーンを置いた。物思いに耽りながら食べていた不味いスープは、既に冷えきっていて、さらに味を悪くしている。
ブオナを襲ったのは、ベラ自身の魔力だった。命こそは助かったが、いつも優しく自分を護ってくれる、大好きなブオナを足場から叩き落としたのは、ベラだ。
自責の念が胸の奥をぐずぐずに掻き回し、込み上げる吐き気にスープを戻しかけ、思わず口に手を当てる。涙はもう出ない。昨夜、ベッドで泣きつくし、枯れてしまった。
口に当てていた手を静かにひろげ、眺めた。手の甲を黒い鱗が覆い、丘部分には灰色の柔らかな肉がついている。力をこめれば、紅く長い鉤爪を出すことも出来る。
人間とは、違いすぎる。
『人の外見になる、とかはどうだ ?……他のナーガが どのように生きているか、知りたくはないか?』
昨日の魔導師の言葉が甦る。人になり、ここで暮らす。または、ナーガの集落で仲間と暮らす。おそらく、それがもっとも賢い生き方なのだろう。しかし、ベラは頭をぶんぶんと振った。あの魔導師のいいなりになる事だけは、絶対に嫌だ。
ぐるぐると思考は足踏みをし、抜けられない沼に捕らわれた。
「画家、ブオエンティーナの工房はここですか?」
その時、石壁の室内に低い声が響き、ベラは我にかえった。ショールを羽織り、急いで玄関口へと向かう。ブオナが目を覚ました、という知らせかもしれない。
玄関にはやはり、昨日見た白い制服の髪の長い男が立っていた。
「老画家が、意識を取り戻しました。ザルバ様が、呼んでこい、と。
すぐ、支度をしなさい。城に行きます。」
男は丁寧な口調で、しかし強引に言った。
「今、朝食を食べておりました。すぐ、片付けて支度をいたしますので、中でお待ちください。」
「いや、ここで結構。……ところで、何を食べていたのですか?」
「パンとスープですが。」
「む。……なんの、スープです?」
おかしな事を聞く男だ。スープの種類によって、城への入場が制限されたりするのだろうか?
ベラはそう考え、慎重に答えた。
「玉ねぎと、ひよこ豆を煮込んだ、塩味のスープですが、何か問題でも……?」
「いやいやいや!特に問題ないですよ!
豆のスープですね?豆の。」
「はあ……?」
まあいい。早くブオナと会う支度をしなくては。ベラは急いで室内に戻った。
玄関では、白い制服の魔導師、トーラが、なにやら安堵したような表情で、扉にもたれかかっていた。
白い靄の中を漂っていた身体に、じわりと意識が帰っていく。ふわふわとした暖かな寝台の感触に、今いる場所が自宅のベッドではない、と気がつかされた。そうか、確かベアリーチェに筆を入れている最中に、足場が崩れたのだ。なんと、画家らしい最後だろう。ブオナは、小さく唇を震わせ、声を出さず笑った。
その笑いに応えるように、滑らかな黒曜石のようにひんやりとした何かが、ブオナの指先をギュッと握ったのがわかった。
これは……ベラか!?
自分は墜落し、死んだわけではない、そう気がつき、急いでベラを抱き締めようと、目を開こうとした。しかし、睫毛が互いに硬く貼り付きあい目が開かない。すると、暖かく湿った布が目にあてがわれ、目脂を優しくぬぐいとった。固い目脂の束縛が溶かれ、瞼が少し軽くなる。
パリパリとこびりついた目脂を剥がしながら、ゆっくりと目を開いたが、目の前に薄黄色の膜が貼られており、視界を妨げていた。数回瞬きを繰り返すとその膜はたわみ、暖かい布にぬぐいさられた。
ようやく目脂が取りきられ、またブオナは慎重に目に力を込めた。しかし、瞼の隙間から刺し入る白い光は激痛に変わった。
白い光の中に見えた黒い輪郭はベラだったのだろうか。うめき声をあげ、ブオナは再び目を閉ざす。そのまま、ブオナの意識は微睡みの中へと再び潜っていった。
王城内手当て室の奥にある小部屋の中、一人用の豪華な寝台の上、ブオナは再び眠りについているようだ。小部屋、とはいえ、ブオナの作業部屋が3つは入りそうなほど広かったが。
「身体は無傷だ。しかし鉛の粉末が目に大量に入ってしまっている。絵を描けるほどの視力は戻らないだろう。」
黒衣の魔導師、ザルバは簡潔に言った。室内は人払いがされ、ザルバとナーガの娘ベラ、ザルバの部下のトーラ、それと老画家ブオナの4人だけになっている。
ベラはブオナの手を握ったまま、項垂れ、言った。
「目は、魔法では治らないのでしょうか。」
「……これは、事故による盲というより、老衰による弱視に近い状態だ。おそらく以前からだいぶ視力をそこなってきていたのだろう。
すでに魔法による治療は行ったが、絵を描くのに充分な視力には戻らなかった。
しかし、後数ヵ月あなたが横に立ち、平穏に暮らす分には、問題が無いくらいまでは治したつもりだ。
……昨日も言ったが、死ぬ間際くらい安らかに苦しまず過ごす方があなたたちにとって、幸せではないのか?絵が描けなくなることへの無念があるのなら、その感情を消し去ることはできるぞ。
まだ、叶えられる願いは二つ、残っている。」
ザルバはそう言うと、フードを目深にかぶり直した。
「魔導師様。私の目を、ブオナに渡すことは出来ないでしょうか。」
ベラがそう言うと、ザルバは小さく息を吐き、言った。
「……出来る。
目を渡すと言うだろうとは思っていたが。
しかし、俺にはそれは、よい手段だとは到底思えない。
あなたは、老画家への罪の意識を自己犠牲によってまぎらわせようとしてはいないか?」
刺すような言葉を、ベラは胸に手をあて、反芻した。確かに、罪の意識はあったが、これは自己犠牲ではない。
「違います。目を渡すのは必然の事。あの絵は完成しなくてはならない。」
ザルバは、ベラからブオナに目を落とし、言った。
「何故、老画家にこれ以上の肉体的苦痛を与えてまで完成させる必要が?彼を芸術の生け贄にするつもりか?」
「私には、芸術が何かは未だわかりませんが……産声をあげようとしている子供を、腹が痛い、という理由で殺す親はおりません。
もし、子供が助かる術があるのなら、苦痛があろうがなかろうが、それを選択しなくてはならないのです。
私には子供はおりませんが、もう何十年もブオナと共に絵画や彫刻を世に産み出してまいりました。
今、産まれようとしている新しい子供を、見殺しにする事はできないのです。」
「……それは、傑作が産まれようとしているからか?駄作であれば、見殺しにできるのか?」
ザルバの問いに、ベラは哀しげに笑い、答えた。
「出来のいい子供であろうが困った子供であろうが、きちんと産み出してあげたいのが親の心でしょう?」
ーー俺は傑作として作られたが、俺の母親も腹を痛めたのだろうか。母の顔など、見たこともないのだが。
ザルバはそう思ったが口には出せなかった。
しばらくザルバは思案し、ベラに向き直って言った。
「……では、こうするのはどうだろう。
何も、あなたの美しい金の瞳を老画家に渡す必要はない。
ここにいる俺の部下、トーラの目を代わりに差し出そう。奴なら魔導師だ。目くらい見えなくたってどうとでもなる。」
「はあああああ!?何でそうなるんですか!?」
突然話をふられたトーラは、大慌てでそう叫んだ。ベラはその様子を見て、少しだけ気を和ませ、答えた。
「それはとてもありがたい申し出ですが……より良いものを作るためにも、私の、ナーガの目でなくてはならないのです。また、私たちナーガは、目に頼らずとも物の位置くらいなら感覚器に捉え事ができますから。」
「そうか……。」
胸を撫で下ろすトーラを尻目に、ザルバは未だブオナの横に座り手を握り続けているベラに膝まずき、黒衣のフードを外して自らの顔を曝す。あまりにも幼い魔導師の素顔に、ベラは絶句した。
ザルバは右手を伸ばし、ベラの黒鱗の頬に触れた。
「……急に目の色が入れ替わると、老画家も察して目を戻そうとするかもしれない。他の助手や、知人たちも戸惑うに違いない。
見た目だけは今のままでいれるよう、幻術をかけておこう。」
ザルバの言葉に、ベラは心の底からの笑顔を浮かべた。
「ありがとうございます。魔導師様。」
「……いや、俺の為でもあるんだ。
では二つ目の願いを叶えよう。これであと叶えられる願いは一つだ。」
ザルバは幼い顔を再びフードの奥に隠した。そして、指先を軽く振ると、ベラの目に激痛が走り、世界の輪郭は強い光によって曖昧に溶かされた。
翌日からブオナは再び王城に通い、天井画の製作を再開した。
ナーガ族の人間族には無い感覚器は、物の位置と距離を立体的に計る事ができる。
ベラはその感覚器を研ぎ澄まし、ブオナの動きを捉えながら、記憶に残る完成図案に照らし合わせ、助手たちに顔料を用意させた。さすがに下絵の転写は出来なかったが、そこは別の作業で忙しいふりをして誤魔化した。目を交換したという事を、ブオナに気付かれたくなかったからだ。
毎日着々と、一ヶ所づつ絵が埋められていく。ベラには壁に何が描かれているのか、ほぼ見えなかったが、ブオナのいる位置から完成度合いを理解し、順調に出来上がっていく様子を感じていた。
数週間後の夕刻、とうとう最後の一筆を終え、ブオナは足場から降りた。ぐるりと部屋全体を眺めた後、駆け寄ってきたベラの頭を撫で、優しく見つめ、静かに言った。
「……後は、金箔と瑠璃青だけだ。
少し、用があるので先に家に戻っていてもらえるか?」
「わかりました。あと、仕上げ作業だけなのですね。」
ベラにはもう絵を見ることは出来なかったが、薄ぼんやりと滲む彩りの中に、完成された天井画がくっきりと見えたように感じた。そしてベラは、丁寧に道具や余った顔料を手入れし、間違えないように注意しながらゆっくりと箱にしまった。白い制服の魔導師が工房まで送る、とベラに申し出て、共に王城魔法陣室を出た。
「……老画家よ。もう、時間がないのだな。」
急に静まりかえった室内に、抑揚の無い静かな声が響く。ブオナは、ベラの出ていった扉を見つめたまま、しっかりと頷き、言った。
「魔導師殿。私の願いを聞いて欲しい。」
その日の夜遅く、城からの使いに送られブオナは帰ってきた。
大変疲れた様子で食事もとらず、風呂にも入らずに、すぐベッドに横になる。ベラは心配げに枕元の席へと腰掛け、老画家のゴツゴツした手を擦った。
「……あの森で、おまえと初めて会った時の事は、未だに夢に見る。」
やがて、ブオナのいつもの昔語りが始まり、ベラは少し安心して、ブオナの言葉に耳を傾けた。
「薄暗い森の中、わしは強がってはいたが、本当は恐ろしくて仕方がなかったのだ。踏み出す度に響く自らの足音でさえ、わしを害する見えない脅威のように感じられたのだ。
しかし、そこで美しい金の瞳を輝かせるおまえに出会った。
おまえはその金の瞳を鍵に、わしの新たな世界への扉を開いてくれた。お前こそ、わしにとっての女神だったよ。」
ブオナは目を閉じたまま、小さく微笑んだ。
「今思えば、わしが18になり、工房を作り、お前を呼びにいったとき、ちゃんと言えば良かったのだ。
お前の見た目が子供のままだ、という事くらい、気にする必要はなかった。
見た目と同じで中身も子供だろうと、勝手に決め付け、そのままつい最近まで、信じきれていなかった。」
ブオナは頭を傾かせ、ベラを見つめた。そして、ベラの手を自分の顔へと誘導し、頬に触れさせた。
「ずっと、愛していた。
そして、ずっと妻になって欲しかった。」
ブオナの頬に当てられたベラの指に口の動きが伝わる。ブオナはその指先を軽く引きよせ、口づけた。ブオナの唇は、乾いて冷たかった。
「……今から妻にしては頂けませんか?」
ベラが震える声で言った。
「もう、遅い。なにも死に行く老人の妻に、今更なる必要はない。
お前は……ベラは、まだまだ何百年も生きる。そしていずれまた、誰かと恋に落ちるだろう。ずっと、それは恐ろしい事だと思っていた。しかし、こうなってみると、それは救いなのだな。」
「他の人を愛するつもりなどありません!」
ブオナはベラの指を握る手に弱々しく力を込めた。
「ありがとう、ベラ。
最後の時をこうやって過ごせたことを幸せに思うよ。
それと、最後に頼む。
私たちの末の子供、あの鮮画を、仕上げてやってくれ。」
ーーもう、私には絵は描けない。
ベラはそう答えようとしたが、喉から漏れた嗚咽が邪魔をし、言葉にならなかった。
「……ベラ、大丈夫だ。
『悪い魔法使い』が、明日の朝、願いを叶えてくれる。」
ブオナは悪戯をするように笑い、そして、目を閉じた。
その夜、『悪い魔法使い』ーーザルバは再び、屋上の小さな庭にある結界の穴から空を眺めていた。先日とは違い、空はよく晴れていて、特別大きく輝く金の月と、無数の星が瞬いていた。空気はぴりぴりと刺すように冷たく、吐く息は湯気のように白かった。
ぶるり、と身を震わせ、部屋着のままここに来たことを悔やんだが、しかし、意識を尖らせ、睨むように月を見詰めた。
キンッ
と、月が震えた。
それを確認したザルバはフードをしっかりとかぶり直し、祈るような仕草をした後、屋上の小さな庭から自室へと帰っていった。
もとより汚い部屋の、積み重なった衣類の山を崩し、数年前の地層から白竜魔導師の白い制服を探し当てたのは、もう、夜も終わろうとする時間だった。服を探し当てるだけで予定よりだいぶ時間が過ぎてしまったことに舌打ちをし、ザルバは白い制服に袖を通した。
あつらえる際に羽織らされたきりの制服は、運良く目立ったシワがついていなかった為、そのまま着て問題はなさそうだ。制服にあわせ、鏡を見ながら髪を整える。
15の頃に成長を止めてしまったきりの幼い顔は変えることはできないが、もともと殆ど、人前に顔を晒していない。さらに、すれ違う誰もが頭を下げるこの制服を着てさえいれば、黒衣の魔導師ザルバだとは誰も気がつかないだろう。
トーラのいるべき隣室には人の気配がない。ーー面倒だな、と、思いながら腕にいつもの黒衣をひっかけ、静かに自室を出た。
警備兵に一切とがめられることなく、すんなりと王の門を潜り、中庭を抜け、まだ朝靄に包まれている石畳をカツカツと歩き、足を止めた。分厚い結界壁が、おそらく王城出口の鉄柵門を中心に配備され、ザルバを待ち構えている。
「……想定通りだが、本当に、立派なストーカーっぷりだな。」
この結界を作ったものより弱い魔力のものを弾く結界。つまり、ザルバ以外は通ることが赦されていないこの結界は、外の脅威から身を護る、というよりも、中に脅威を閉じ込める、という性質のものだった。
結界に右手を当て、印をなぞる。すると、ぶわりと穴が開き、ザルバを結界内へと誘い込んだ。
あえて足音を高く鳴らし、美しい石畳の庭を歩くと、やがて霧の向こうからうっすらと黒い影があらわれた。その影の後ろの地面には高らかに輝く巨大な魔法陣が描かれ、魔法の発動を待つばかりになっていた。
ザルバは軽く眉をしかめ、言った。
「まったく、大人げないな。ずいぶんと大袈裟な魔法陣じゃないか。」
すると、対する人物、白竜魔導師副長トーラは、青く光る剣をザルバに向け、言った。
「こうでもしないと、ザルバ様は止められないですからね。」
「おまえ、確か朝は苦手だったんじゃなかったか?」
「……一晩中、待ってましたから。」
「ご苦労。なにしろ服がみつからなくてな。」
ザルバは困った、というような表情をし、顎に手を当てた。実際、トーラは強い。魔力に関してはザルバには全く敵わないが、ザルバを護る為に鍛え上げられた剣術と、すでに発動寸前の『爆炎』の魔法陣とを使用すれば、なんなくザルバを圧倒できるだろう。
ただ、トーラはザルバに、限りなく甘い。
「ザルバ様、あのナーガの元へ行くことはなりません。3つ目の願いを叶え、指輪を渡す、それだけは阻止しなくてはなりませんから。」
「ははっ、なんだ、その事か。」
ザルバはまるで、何故トーラが止めに来ていたのか、全く解らなかった、とでも言いたげに笑った。
「安心するがいい。ほら、指輪の呪いはすでに書き換えてある。まだお互いを深く知る前に隷属というのは、さすがに性急だからな。」
ザルバはポケットから二つの指輪を取りだし、トーラに投げて渡した。トーラは剣をザルバに向けたまま、左手でそれらを受け取り、しげしげと眺めた。
「確かに、呪いが書き換えられていますね。」
「それに、それを今日すぐ渡すつもりもない。まあ、指輪を渡し、ナーガの娘が指に填めたとして、お前たちの気に入らない内容だったなら、私やナーガの指を切り落とせば済む話ではないか。」
どんな呪いに書き換えられたのか、読み取ろうとしているのだろう。トーラは左手の中の指輪を目を細めて眺めている。
「さすがに印を結ぶザルバ様の指を切ることは出来ませんが……しかし、それはそれとして、やはりザルバ様を結界の外に出すことは望ましくありません。なにより、お身体に障ります。
もしどうしても行くなら、私がお供いたします。」
トーラはそう言いながら、わざと複雑に書き換えてある呪いの内容を読み解くため、指輪を上にかざし、魔力を込めようとした。構えていた剣の切っ先が下がり、ザルバから外れた。
それを合図にするように、ザルバが動く。
小さな身体を精一杯伸ばし、指輪をトーラから奪い返そうとする。当然、それを予想済みのトーラは身を翻し、ザルバを避けた。
ザルバの身体がバランスを崩し、前に倒れこむ。とっさにトーラは手を伸ばし、ザルバを支えようとしたが、ザルバはクスリと笑い、身体を捻ってその手を避け、魔法陣の描かれた地面に両手をついた。
ゴオオォォッ!!
トーラの後ろで発動命令を待っていた『爆炎』の魔法陣が、ザルバによって起動させられ、ザルバの魔力を吸い弾けるように膨張した。
「っな!!」
魔法陣はザルバから吸収した魔力を一度体内に取り込み、唸るような声をあげ、そして魔力を爆炎に変えて一気に吐き出した。
ーーーーーーッッ!!
耳の許容値を軽く越えるような轟音が響いた、わけではなかった。
爆炎は無音のまま、石畳を巻き上げ流星群のように地面にぶち当てた。幾つかの石畳は炎につつまれ、そのままザルバとトーラに襲いかかったが、何かに弾き飛ばされ、二人を避けて地面に落ちた。
ザルバが両手を上げ、二人分の小さな結界を瞬時に作り上げていたからだ。小さな結界は、トーラの巨大な結界に閉じ込められた爆炎の、熱と音、それから石畳の破片から二人を遮断した。
しばらくたち、『爆炎』の魔法がおさまり、舞い上がっていた全ての石畳や樹木が地面に落ち、突き刺さった。
「はあ……ザルバ様、一体何でこんなことを……」
疲れた顔でトーラがザルバを見ると、ザルバはとても嬉しそうに笑い、言った。
「みてみろ、王の自慢の石畳が酷い有り様だ。あと数時間したら、王城も目を醒ますだろう。
そしたら……見ものだな、あの飄々とした王が怒りに顔を歪ませるかも知れんぞ。」
「ザルバ様!あなたは!!」
トーラはザルバの思惑を察し、嵌められたことにようやく気がついた。
「なんだ?おまえは『ザルバの後始末係』だろ?
まあ、白竜魔導師総出でかかれば、どうにかなるんじゃないか?この惨状も。
……さ、これは返せ。」
ザルバはトーラから指輪を奪い、辺り一面ぐちゃぐちゃに壊れた石畳を踏み越え、走り抜けながら、鉄柵門を潜って城下町へと降りた。
そして、物影に隠れ、いつもの黒衣を制服の上から被ると、小さな声で呟いた。
「……女の家に行くのに保護者同伴だなんて、嫌に決まってるだろうが。」
そして小さな紙に描かれた地図を取りだし、画家の工房へと急ぎ足で向かった。
狭く小さな部屋の寝台に、老画家の躯が横たわっている。その枕元のいつもの椅子にベラは腰掛けたままうとうとと、眠りはじめていた。
人はナーガより先に死んでしまう、という当然の事実を改めて実感し、人の世界で生きることを止める幾つかの方々が夢うつつに頭を過る。
「ナーガであることを、辞めるか?」
男の声が頭に響いた。ブオナが『悪い魔法使い』と呼んでいた、あの魔導師の声だ。そこにいるのか、と思ったが、ベラは目を醒ます事が出来なかった。
心を夢の中に閉じ込めたまま、首を横にふった。
「では、ナーガの世で暮らすことを求めるのか?」
ベラは再び首を横にふる。ベラの最後の願いはそれではない。
「……わかっている。あなたの願いはあの鮮画の完成なのだろう?
しかし、その願いを叶えてどうするつもりだ?叶えたところで、あなたには何も残らない。」
勿論、そんなことは判っている。ベラは首を縦にふった。
「では、『悪い魔法使い』が、願いを叶えてやろう。……あの鮮画の完成までの全ての障害を取り除こう。契約は、完了だ。完成次第、私の望みを叶えてもらう。」
ベラは今自分が現実の世界にいるのか、夢の世界にいるのか、わからなくなっていた。魔法使いの抑揚の薄い声が、静かに耳に入ってくる。
「……これは昨夜、老画家から預かったお前の目だ。老画家の願いは、ナーガへの目の返却だ。二重契約のようでもあるが、約束だ、後程あなたから、老画家からの願いの代償も戴こう。」
「……ブオナは、知っていたのですか?」
ベラは夢の中、真っ暗な空間に浮かぶ『悪い魔法使い』に向かって尋ねた。
「あの会話は全て、聴こえていたそうだよ。」
『悪い魔法使い』はそう言うと、闇に溶け、消えた。ベラはそのまま、深い眠りへと、落ちていった。
数日後、老画家の葬儀も落ち着き、ベラは鮮画の仕上げを行うために王城に向かった。長命の天才、ブオナの作品は多岐にわたり、街のいたるところに残されている。
それは彫刻を飾った噴水であり、芸術を愛する貴族の屋敷であり、王城に続く巨大で勇ましい橋であり、それらは民が充分に豊かで王の治世が長くうまくいっているという証拠でもあった。ベラにはブオナの作品全てに思い入れがあり、その全てが愛しかった。
すでに馴染みになり始めた鉄柵門の兵に挨拶をし、門をくぐる。美しく整えられた石畳には薄氷が張り、歩みを進めるたびにパリパリと音をたてた。
王の中庭を迂回し、通用門から王城へと入る。城の中心部にある転移魔法陣室へは使用人通路だけでなく貴族や魔導師たちの通る回廊を通らなくてはならない。そして、それら回廊にはブオナの遺した作品たちも飾られており、ベラはそれを誇りに思った。
転移魔法陣室の前では三人の温厚な助手たちがベラを待っていた。この助手たちもブオナから目の件は聞いていて、さりげなく目の見えなくなったベラを助けてくれていたらしい。三人の助手が楽しげに、まるでエスコートするかのように転移魔法陣室へとつながる扉を開いた。
ベラの金の瞳に、正面奥祭壇上に描かれた、最後の鮮画が飛び込んできた。
助手たちがやったのだろう、足場は仮組だけ残して撤去され、最終部分の絵全体が見渡せるようになっている。
完成した鮮画は、ベラの知る、完成予想下絵とは大幅に違う絵柄になっていた。
金の鍵を掲げ持ち、扉を開く女神ベアリーチェの背後に描かれた闇色は深く、それは正しく、ベラとブオナの出会った森の様相だった。ベアリーチェに手をひかれ、森の中に迷い混んだ異界の少年は、希望にみちあふれており、そして、出会った頃のブオナそのものの姿をしていた。
ベラは驚いてブオナの書いた金箔指示図を見た。すると、ベアリーチェの目を、金箔で飾るよう指示されていた事に気がついた。
「……ブオナ、様……。」
ベラは何かに気がついたかのように、ぐるりと室内全体の鮮画を見渡した。
この鮮画は、ただの神画ではない。あらゆる場面にベラにしかわからない記号が入れ込まれ、ブオナとベラの生涯が表現されている。そして、その全てが楽しげに、希望を抱いたものだった。
「こんなイタズラ、しちゃダメじゃないですか……。これでは、私はあなたの後を追うことが出来ない。」
ベラはそう呟いて笑った。この鮮画を仕上げ、そして母として護らなくてはならない。ベラは手元の金箔指示図に目を落とす。何しろこれだけ金箔と瑠璃青をふんだんに使うのだ、完成後の手入れも一筋縄ではいかないだろう。
ベラは助手たちに声をかける。
「では、仕上げ作業を始めます。」
部分ごとに仕上げを終えた鮮画は、順次足場を取り去られ、荘厳な全貌を見せはじめる。転移魔法陣室が完成が近づくのに比例し、その魔力を増強する性質が強まっていくのをトーラは実感していた。
ザルバは『魔法陣室が完成せず、部屋の力が借りられなくなっても構わない』と言い切っていたが、そういう訳にはいかない。ザルバの寿命はとっくに尽きているのだ。いつ、ザルバのスペアであるトーラに、役割がまわってきてもおかしくはない。
その事を考えると、トーラの頭は重くなった。今、目の前でナーガを熱く見つめるこの上司、ザルバは、歴代の魔導師長では有り得ない程の魔力量と、才能を誇り、魔法の事に関してだけは灰汁の強い魔導師どもを黙らせるのに充分な実力者だった。それがもし、トーラに変わったなら、面倒な連中がぐちぐちと嫌がらせをしてくるだろうことは、想像に難くない。おそらく、いくつかの派閥が生まれ、魔導師が分裂するだろう。
ナーガが手際よく金箔と、それを引き立てる瑠璃青で飾りつけた鮮画は、キラキラと輝き、厳めしく美しい。おそらく、まもなく、全ての壁面が仕上がる。
ザルバの指輪にこめた呪いが何なのか、結局判らなかったが、内容によってはナーガを殺さざるを得ない。それを行ってザルバの不興を買う事はもちろん、あの見かけによらず善良で、むしろ讃えるべき功労者であるナーガを手にかける、という事自体、心が重かった。
ーーせめて、ナーガが人間のスープを食べるバケモノでいてくれたなら、楽だったのだろうな。
トーラは青く輝くドーム型の空を見上げた。天井に描かれたこちらをのぞきこむ神と目が合い、長となるには甘すぎる自分に溜め息を吐いた。
しばらくして、ベラが足場から降り、道具を片付け助手たちにそれらを渡したあと、厳かにザルバの元へと歩いてきた。
「絵が全て、完成いたしました。
『悪い魔法使い』様、色々と、ありがとうございました。」
ベラが膝を折り、ザルバに正式な礼をし、顔を下げたまま、そう言った。
「うむ……頭は下げなくていい。次はこちらの願いを叶える番だ。」
ザルバが言うと、ベラは顔を上げた。その金の瞳は、覚悟を決めたように凛々しく輝いていた。
「私が叶える願いは、ブオナ様の分と合わせて、二つですね。」
ベラがそう言うと、ザルバは静かに頷いた。
「あれ!?いつの間に二つに増えてるんですか!?」
「……トーラ、お前の見ていない間に、だ。横から口を挟むな。
では、最初に、老画家の分だ。内容に関してはやつの了承もとってある。」
何かを言いたげに口をぱかぱかしているトーラを置きざりに、ザルバは話を続ける。そしてポケットから一対の指輪を取りだし、一つを自分の右手の人差し指に填め、ベラに見せた。
「ナーガのお嬢さん、この指に、指輪を。」
そう言って、ベラに指輪を渡す。ベラは訝しげに瞳に翳し、そして、右手の人差し指に填めた。
と、ベラの心臓がドクンと大きく震えた。心臓が握りつぶされるように痛み、その場に膝をつき、声にならない呻きをあげる。そしてザルバも、苦し気に心臓を押さえ、顔を歪めた。禍々しい呪いの魔力が辺りを支配する。
「……意外、と、これは、キツイなっ。」
ベラに続き、ザルバも膝を折りしゃがみこんだ。すぐさまトーラが駆け寄ったが、それを手で制し、ザルバは言った。
「……指輪の呪いは、『魂の束縛』。ただし、主はナーガ、俺が従の一方的なものだ。」
「ザルバ様、それはっ!」
『魂の束縛』、それは屍人などの失われた命を肉体に縛り付ける為の呪い。主の魂が尽きるまで、屍人の魂は肉体に結びつけられる。
「つまりは……こういう事だ。」
ザルバは立ち上がり、未だ苦し気に呻いているベラの手を取ると、その手のひらにある灰色の柔らかい丘に小刀を突き立てた。
赤黒い血がうっすらと手を伝う。と、ザルバがトーラに自分の手のひらを見せた。そこにはベラの手についたのと全く同じ傷がつけられ、血が滴り落ちていた。
「例えば、誰かがナーガの指や首を切り落としたなら、俺の指や首が切り落とされる。そういう呪いだ。
その代わり、俺は、ナーガが生き続ける限り、死なない。ナーガと共にゆるりと歳を取り、生きることができる。」
「……だから、右手の人差し指に、填めたんですね。」
指で印を結ぶ魔導師にとって、右手の人差し指は無くすことの出来ない指だ。トーラが呪いを消すためにベラの指を落とせば、ザルバは印を結べなくなる。
ザルバは『悪い魔法使い』の名に相応しい、そんな表情を作って笑った。
「……ちなみに、ナーガの寿命は千年以上、だそうだ。」
「ザ、ザルバ様!!あなた、そんなに長く世に君臨するつもりなんですか!?
なんて、迷惑な人だ!!」
「……やかましい。」
別に、君臨するために長生きしたいなんて、言ってないだろうが、と、ザルバは呟いた。
そして、ようやくベラの心臓が暴れるのを止め、ベラは身体のふらつきを庇いながらゆっくりと立ち上がった。
それを確認し、ザルバは言う。
「今より、俺の生き死には、ナーガのお嬢さんの握るものとなった。あなたはこの国でもっとも護られる存在の一つ、となったわけだ。」
ベラはよくわからない、というように首を傾げた。
「では、次の願いを叶えてもらおう。これはあなたの願いの分だ。」
「……はい、何なりと。」
ザルバはベラをしばらくじっと見つめ、そして意を決したように、言った。
「……ナーガのお嬢さん、あなたの名前を教えてくれないか。……いつも、聞きそびれるんだ。」
「……ベラ、ですが。えっと。願いってそれですか?」
「ああ。」
ベラが呆れたような笑顔を浮かべた。
ーーそれでいい。まだ千年もの時間があるのだから。ゆっくり口説き落とそう。
「まずは、友達から、だ。」
『悪い魔法使い』は、その幼い顔をフードから出し、優しく笑った。