第36話(最終話):終わらないディール、あるいは特級交渉人の新たなる市場
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神の特権が全宇宙へと解禁され、あらゆる世界の住人が対等に富を築けるようになった新時代の幕開け。ルード王国の王宮テラスからは、黄金のマナが優しく降り注ぐ王都の美しい夜景が一望できた。ハチミツ本位制という盤石なインフラを手に入れた王国は、もはや飢えや貧困とは無縁の、多元宇宙で最も豊かで幸福な『神級経済圏』としての安定を謳歌していた。
だが、その誰もが勝ち取った平和なハッピーエンドの夜に、レオン・ヴァルハイトだけは、手元にある最高経済議会のパスポート端末に浮かび上がった不気味な『漆黒のエラーコード』を冷徹に見つめていた。
画面の奥でパチパチと点滅している文字列は、経済的なデフォルトや破産を告げるものではなかった。全宇宙の富が民主化され、神の中央銀行のシステムがオープンソース化されたその瞬間に、神の数式すらも予測できなかった『未知の超概念』が、市場の最深部で静かに産声を上げていたのだ。
「レオン社長。そのエラーログの解析が、ただいま完了いたしました」
無機質で、しかしどこか楽しげな少女の声が、レオンの背後から響いた。
振り返ると、そこにはルード王国の支給した仕立ての良い小さな事務服を身に纏い、手元でホログラムの演算データを弄んでいる元絶対神――最高技術顧問のプライマリーが立っていた。彼女はレオンの「部下」として再雇用されてからというもの、徹夜のシステム構築という過酷な労働環境にも一切文句を言わず、むしろ人類の経済活動という不確実なサンプルを貪欲に学習し続けていた。
「神様。随分と景気の悪い色のコードを吐き出してくれたじゃないか。俺たちのハチミツ本位制のシステムに、何か重大な設計ミス(脆弱性)でもあったか?」
レオンは端末をプライマリーへと向け、くっと口元を吊り上げた。
「いいえ。システムは完璧です。……ですが、完璧であるがゆえに、あなたが全宇宙のすべての人々に『取引の自由(富の民主化)』を与えた結果、神の帳簿には決して記載されることのなかった、最も合理的で、最も凶悪な資本が市場へと一斉に流入し始めました。――それは、生命たちの純粋な【感情の流動性】です」
プライマリーの銀河が渦巻く瞳が、淡い黄金色の光を放ちながら、エラーの正体を語り始めた。
これまでの最高経済議会は、数字や資源、目に見える資産だけで世界を管理していた。しかし、レオンが市場をすべての生命へと開放したことで、全宇宙の商人や国民たちの「願い」「嫉妬」「愛着」「恐怖」といった、数式では決して測れない生の感情そのものが、市場の価格を決定する最大の『隠れた資産(のれん代)』として直接チャートを動かし始めたのだ。人の心がそのまま巨大な経済の波となって、全宇宙のルールを内側から書き換えていく、神すらも計算できない真の不確実性の到来だった。
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「感情の流動性、ねえ……。つまり、これからは数字の正しさ(ロジック)だけじゃなく、人の心の移り変わり(センチメント)そのものが、宇宙で一番価値のある『お宝』になるってわけか」
レオンは顎に手を当て、テラスの柵に寄りかかりながら、むしろその未知の難題を歓迎するように獰猛に微笑んだ。
レオンの隣には、夜風に美しい金髪をなびかせた商工総裁――リーゼロッテが、煌びやかな夜会ドレスの裾を揺らしながらゆっくりと歩み寄ってきた。彼女の胸元には、かつて神から奪い取った『黄金の鍵』が、ルード王国の新たな最高経営権の象徴として、誇らしげにペンダントとなって輝いている。
「本当に、あんたという人は……。世界を救って神様まで自分の部下にしたっていうのに、まだそんな、全宇宙の生命の心を相手にした新しい大博打の種を見つけて喜んでいるのね」
リーゼロッテは呆れたように、しかしその美しい瞳には、レオンへの絶対的な信頼と、これから始まる新しい時代への尽きないワクワク感が溢れていた。
「お嬢様。神々が管理していた退屈なチェス盤(市場)は終わったんだ。これからは、誰かの悲しみや喜びが、一瞬で一国の通貨価値をひっくり返すような、最高にイカれた『本当の自由市場』が始まる。……これほどエキサイティングで、買い叩きがいのある戦場が他にあると思うか?」
「ふふ、そうね。どんなに市場が複雑になろうとも、私の隣には宇宙一の特級交渉人(悪魔)がついているんですもの。ルード王国の商工会は、これから全宇宙の『感情』すらもハチミツに変えて、すべてを買い尽くしてみせますわ!」
リーゼロッテが凛とした笑みを浮かべ、レオンの隣で夜空を見上げたその時、テラスの扉が乱暴に開け放たれ、騒がしい仲間たちの声が夜の静寂を破った。
「おーい! レオン、お嬢様! 主賓の二人がこんなところでサボってちゃ困るよ! ルード王国の建国以来最大の『新市場設立記念パーティ』が、下で大盛り上がりなんだからさ!」
ジャンクバイクのヘルメットを小脇に抱えたルチアが、上等なタキシードを不器用に崩して着こなしながら、大声で手招きをしていた。その奥からは、新しい精霊装甲の設計図を大事そうに抱えたミュリンと、王国のハチミツを贅沢に使った新作の精霊お菓子を両手にお盆に乗せたクロエが、顔を真っ赤にしながらひょこりと顔を出していた。
「レオンさん、リーゼロッテ様! 原始惑星ギガントの巨獣たちのリーダーからも、新しい分散型ネットワークを通じて、ルード王国との『永久労働協定』の調印式の準備ができたって、お祝いのメッセージが届いています!」
「私の精霊魔法とミュリンの技術を組み合わせた『環境再生スコア(ESG)』の特許も、全宇宙の取引所に正式に登録されたよ! これで、もう誰も私たちの星や故郷を、一方的に売り叩くことなんてできないね!」
ミュリンとクロエが、自分たちの勝ち取った現場の成果を嬉しそうに報告する。
カトリーヌやバロンといった千倍の資本を持つ神々に、現場の知恵と法的ハメ技だけで立ち向かい、完全勝利を収めた仲間たち。彼女たちの顔には、かつて公社の搾取に怯えていた頃の影は微塵もなく、自らの手で未来の価値(のれん代)を創造する、立派な『一足先の投資家』たちの顔へと進化を遂げていた。
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「よし、行くか。――最高技術顧問、お前も明日からの『全宇宙感情市場』のシステム構築に向けて、今夜くらいは最高級のハチミツ酒で流動性を補給しておけよ」
レオンが歩き出しながら、後ろに控える少女の頭を無造作に撫でた。
プライマリーは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせたが、やがて、その小さな顔に人間らしい微笑みを浮かべ、静かに頭を下げた。
『御意、レオン社長。私の無限の演算能力は、これより永遠に、あなたたちのルード王国経済圏の利益のために捧げましょう』
テラスから広間へと続く扉を開けると、そこには、全宇宙から集まった数千の種族の商人たち、そしてホログラム越しにグラスを掲げるレディ・オセアニアの艶やかな笑顔が広がっていた。
彼らが歩むこれからの未来には、もはや絶対的な支配者も、不条理なルールを押し付ける神も存在しない。あるのは、誰も予測のつかない激しい感情のチャートと、それらすべてを対等なテーブルの上で捌き切る、終わりのない経済交渉の日々だけだ。
「さあ、全宇宙の株主ども。俺たちの新しいディールの時間だ」
レオン・ヴァルハイトはリーゼロッテの手をエスコートするように固く握りしめ、数万の世界の富が渦巻く光の海へと、堂々たる足取りで踏み出していった。
神をも雇用し、全宇宙の富をオープンソース化して買い叩いた特級交渉人。
人の心の移り変わりすらも新たな『金融商品』へと変貌させていく、人類の歴史上、誰も見たことのない前代未聞の【第ニステージ(感情の交渉戦争)】の幕が、今ここに、最高に不敵な音を立てて上がり始める――。




