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「あれは……違うね」
「やっぱり……」
「まあ、人間にとったら厄介なものであることには変わりはないんだろうけどね」
やれやれ、といった顔でひとつ溜め息を吐いた銀子。田中と堀井はそんな銀子と蒼司のやり取りにぎょっとした顔となる。
「ち、違うとはどういうことですか⁉ このマンションで起きていることの原因ではないのですか⁉」
明らかに異常とも思える状態の住人が目の前にいるというのに、「違う」と言う銀子と蒼司。そんなふたりの様子に田中は酷く困惑した。
「いえ、まあ……今現在起こっていること自体の原因はあの方でしょう。田中さんには視えているかは分かりませんが、あの方の後ろに纏わり付いているもの……あれは縊鬼です」
「くびれおに?」
田中と堀井は蒼司を見詰め、聞き慣れない言葉に怪訝な顔をする。
「縊鬼とは……鬼の一種ですね。人に取り憑いて首を括らせるとされる妖怪のことです」
「よ、妖怪⁉」
田中は大きく目を見開き驚愕の顔。それと同時に一気に顔は蒼褪め、怯えた目で住人の男を見たかと思うと、背後で蠢く黒い影がなにやら揺らめき立つ。ぞわりと背筋が凍る。田中は蒼褪めたまま蒼司と男を交互に見た。
「えぇ。元々は生きた人間で、水死者や首吊りをした者の霊と言われています。縊鬼は自分と同じ死に方をした者を求めるために、生者に憑依して自殺に追い込むと言われていて、縊鬼に憑かれた者は、夢うつつの状態になり縊鬼の言葉に従って首を括ろうとします」
「そ、それってあの方を死に追いやろうとしているということですか⁉」
「そうですね」
悲痛な顔をするでもなく、極めて冷静になんの感情もないかのように言葉を発する蒼司の姿に堀井は怪訝な顔をする。
「あれが今回の件の原因じゃないのか? 違うってのはどういう意味だ?」
こんな話をしている間も、徐々に男はこちらに近付いて来ている。いつも冷静に物事を判断する堀井ですらも、若干の焦りと恐怖を覚える。しかし、蒼司と銀子は相変わらず慌てる様子は一切ない。そんなふたりに堀井は苛立ちすら覚える。
「あの黒い影……あれはもうあの方にほとんど憑いてはいない……」
言葉を続けようとした蒼司を制止するように銀子が蒼司の前に腕を伸ばした。男に纏わり付いていた縊鬼が蒼司たちの存在に気付いたのだ。敵意と思えるほどの重い気配を一気に放ち、堀井と田中は金縛りのように動けなくなった。銀子は蒼司を庇うように前へと立ち塞がり腕を振り下ろす。ばさりと着物の袖が揺れる音が響き、それと同時に重苦しかった空気が一気に霧散する。そのことに苛立ちを覚えたのか縊鬼が咆哮とも思える声を上げた。
『ジャマヲスルナァア‼ コレハワタシノモノダ‼ コレハワタシノモノダ‼ ジャマヲスルヤツハユルサナイ‼』
縊鬼が巨大化するように大きく姿を伸ばすと、なぜかその男はじろりと蒼司たちを睨み、駆け寄って来た。焦点の合わない目。まるで操られているように迫り来る男は、訳の分からない奇声を発しながら突進してくる。
「蒼司、下がれ。珠子ときなこは蒼司の傍にいな」
銀子は蒼司たちにそう言葉を投げ掛けたかと思うと、大きく腕を振るった。その瞬間強い風が吹きすさび、突進してきた男を吹き飛ばす。地面へと転がった男は、しかし、痛みすら感じないのかすぐさま立ち上がり、再び奇声を上げ突進してくる。珠子は男の様子に目を見開き、蒼司の着物を掴んだ。きなこは銀子のように大きく風を巻き上げたかと思うと、巨大化した。巨大化したきなこは堀井や田中にも認識することが可能となり、ふたりは驚愕の顔となる。蒼司の背よりも大きくなったきなこの尻尾は二又に分かれていた――きなこは猫又だ。普段は小さな普通の猫と変わらない。それはきなこが元々は普通の飼い猫だったから――
きなこは飼い猫だった。今から数百年ほど前に飼い猫として、金持ちの優しい娘に飼われていた。しかし、娘が病で亡くなり、娘の両親はきなこを飼い続けることはなかった――きなこは捨てられた。
きなこは優しかった娘を忘れられず未練を残し、娘の住んでいた屋敷にこっそり居ついていたが、ある日大雨のなか、屋敷の床下でひっそりと死んだ。たった一匹で、誰に惜しまれるでもなく――
それでもきなこは屋敷から離れられなかった。それだけ娘のことを想っていたから。だからこそ未練が残りそこから動くことが出来なかった。それは魂だけになっても同じだった。死んだあと、肉体はなくなり魂だけになったとしても、時代が過ぎ屋敷がなくなったとしても、きなこはそこから離れることが出来なかった。
屋敷すらなく、なにもない空き地だとしても、ずっと動くことが出来ないきなこの魂はいつしか妖力を持ち始め、あやかしとなった。あやかしとなったきなこは自由の身となった。しかし、それでもきなこはその場から離れようとはしなかった。
時は過ぎ、街の様相も変わり、きなこがいる土地も開発が始まり元の屋敷の面影などなにもない、全く違うものが建てられようとしていた。そんな場所にひとりぼっちでポツンと佇み、寂しそうに開発を見詰めていたきなこを蒼司が見付けた――『一緒に帰ろう、彌勒堂へ』――きなこは蒼司の言葉にひとつ頷き、ただ一度だけ、娘と過ごした土地へと振り向くと蒼司と共に歩み始めたのだった――それ以来きなこは蒼司の傍にいる。
きなこは蒼司を守るように身体を蒼司に摺り寄せた。大きく鳴き声を上げると、きなこの身体からは強い妖気が放たれ、蒼司の周りを取り囲もうとしていた縊鬼の気配を掻き消す。
『ジャマヲスルナ‼ ジャマヲスルナ‼』
「いやだ……ひとりはいやだ……」
縊鬼と男の声が重なる。蒼司はその言葉にピクリと反応したが、重なり合う言葉に上手く聞き取れない。なにか大事な言葉を言った気がするのに――
「あれはもう正気を失っているね」
銀子は「面倒だ」とばかりに溜め息を吐いた。そして真っ直ぐに男と縊鬼を見据える。
「さて、どうするかね」




