前世 [二]
「そなたの……名は?」
精一杯の力を振り絞って唇から零れた言葉は、そのようなものであった。一瞬秋と、そして伊織と呼ばれた若武者を見詰めた右京たるその者は、悠仁采の傍らに侍り、彼の手に触れ、やがて目を伏せたまま優しく呟いた。
「橘──橘 右京と申します、おじじ様。堺の大名館、橘家の嫡男に当たる者。父の代に織田家に滅ぼされ、今では狩人として身を立てている遊び人でございます」
右京は言い終わるや途端手を離し、床についていた膝を軽く上げ立ち上がった。
──橘 左近。
既に忘れ去られた我が名を思い浮かべる。
明らかにこの青年は悠仁采が弟、右近の孫に間違いなかった。頭上で結った髪をうなじの辺りで纏め、狩人の姿から身を左近の物と移せば、その外見は若き日の悠仁采と何ら変わりはないであろう。それほどまでにこの右京は、左近と、そして双子の弟 右近に似ているのだ。
「そこまで言わずとも……」
依然壁に寄り掛かったまま、伊織は不服そうな顔で右京を見詰めた。万が一、悠仁采が織田配下の者であったなら、彼を逃がしはしないであろう。そうとでも言いたそうに。
「いいえ、見ていれば分かるのです、伊織様。おじじ様は織田家の方ではない。もちろん伊織様もそのことにはお気付きでしょう。もし織田家の方だとしても、私は、私を切り殺すようなお方ではないと思うのです」
傍らに秋の寄り添う右京の表情は、淀みなどない笑みを浮かべ、悠仁采へと向けて真っ直ぐに貫かれていた。
おそらくは、彼自身気付かない血の繋がりを嗅ぎ取ったのだ。
遠い遠い昔。月葉と共に過ごした悠仁采の姿が目の前にあった。──と同時に、笑顔を刻んだ月葉の姿さえもが。小川の流れは時間すら戻すことが出来るのであろうか。今此処に居るのは以前の二人に相違ない。
そして流れは更に遡り、悠仁采の込み上げてきそうな涙の向こうには、我が弟右近の姿も映った。父に愛された人形たる弟──。しかし存在する右近の孫は人形ではなく、野生の中で鍛えられた左近の姿でもある。
「橘 右近殿はどうなされた……」
早くも耐え難き涙に頬を温めた悠仁采の、唯一の言葉であった。
この数年来、涙というものの存在したことなどある筈もない。織田への憎しみの炎は疾うに涙を干上がらせ、また、泣く間など有り得なかったのだから。
右京はと云えば彼は彼で、頬を伝う涙の訳と祖父の名に、驚きを示さずにはいられなかった。が、不審を帯びる疑惑を抱いた訳でもない。
「祖父を御存知でしたか……。祖父は私の生まれる以前に病に倒れました。故に名の他には何も──」
「そうか──」
知らず知らず口から出た言葉に、安堵の意がこもっていたことは誰も気付かなかった。右京が右近の生前の姿を知っていたならば、彼自身悠仁采の様子に目を疑ったことだろう。ましてや、あの報妙宗操る八雲であることを気取られてはならぬのだ。
「おじじ様、おじじ様は一体どなたなのですか? 右京様のおじじ様を知り、私のおばば様さえ知っているご様子だった……おじじ様は一体……!」
「秋、怪我人を困らせてはいけない」
半ば混乱し我を忘れた秋を、伊織は冷静にあしらった。しかしやがて壁より進み出で、この機会を利用せんとばかりに、
「じじ殿、秋をお許しください。なにぶん未だ子供なのです。……じじ殿のその傷、さぞや訳ありとお見受け致しました故、今は未だ深くはお聞きせずにおきましょう。──が、こちらは救った身、せめて御名だけでもお教えいただきたい」
と、先程秋が問うた事柄を繰り返した。
此処まで言われては、悠仁采も名を明かさずにはいられない。しかし悠仁采の名を言えば八雲を、左近の名を告げれば橘を悟られるのは時間の問題である。
「わしは一度死んだも同然。死ぬ以前のことを話すつもりはない。だが、名は言わねばなるまい」
悠仁采は一呼吸置き、頭の中で名についての思考を巡らせた。それはほんの数秒のことである。息を吸い込んだ虚空の時間。
「我が名は、佐伯 朱里。右近殿とは以前会うたことがあった。そなたのご祖母については、人違いであると思うが……」
朱里とは配下であった魔妖五人衆の一人 瞳炎の父、あの少女の面をした小姓の名である。言葉半ばにして途切れた悠仁采の視線は過去を浮かべていたが、向けた先には秋が居ることを彼も承知の上であった。
もう何十年という間、嗤い以外の笑みを忘れた悠仁采には、秋に微笑みかけることは出来ない。苦し紛れの苦笑いであったが、秋にはそれが伝わったのか、翳りのない笑みを返してくれた。
右近について隠したのは、八雲 悠仁采という名が邪魔をしたのであろう。彼自身そのことに気付いたのは言葉の出た後であったが、それは正解であったのかも知れない。
正義──。
信念とされてきた彼の事業は正義とならぬまま、悪として終わってしまった。終わった? いや、もう終わったのだろう。彼には再び事を起こすだけの力はない。
あの日。葉隠の忍者に倒されたあの日──未だ時はそれほど経たず、あの日とは今日であるかも知れないが──彼の人生は悪で終わったのだ。そして善という矢は織田を射た。
悪と決められた今、八雲の名は知られぬまま消されなくてはならない。右京の祖父の兄が悪人であってはならない。そんな想いが口を衝いて出たのかも知れない。
「朱里殿、と申されましたな。我ら城へ戻る時刻となりました故、これにて失礼致しますが、明朝にはまた戻って参ります。それまでは右京殿に従い、良く養生してください。あなた様は深く傷を受けられた……完治までには時が掛かるでしょう。ですからその身、しばらく我らにお預け願いたい」
遠からずも力のある、伊織の達観した言葉であった。
三人の若者達の優しい微笑みに包まれた悠仁采はしかし、既に帰り支度を始めた伊織と秋の背に礼さえも言えず、ただ惑いをぶつけた。
「何故にそなた達は、そこまでしてわしを助ける」
戸口を開きかけた手首そのままに、秋が振り向きざまに云う。
「この森を訪れた方を、放っておくような義理はないのです」
──と。
「右京様、おじじ様を宜しくお願い致します」
「姫も気を付けて……」
呆然とする悠仁采を残して、そのような会話のやり取りの後、二人は森の奥へと消えていった。
頭上には満天の星を戴き──。




