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伝わりますか  作者: 朧 月夜
【弐】弟切草の想い出
9/18

 前世 [二]

「そなたの……名は?」


 精一杯の力を振り絞って唇から零れた言葉は、そのようなものであった。一瞬秋と、そして伊織と呼ばれた若武者を見詰めた右京たるその者は、悠仁采の傍らに侍り、彼の手に触れ、やがて目を伏せたまま優しく呟いた。


「橘──橘 右京と申します、おじじ様。堺の大名館、橘家の嫡男に当たる者。父の代に織田家に滅ぼされ、今では狩人として身を立てている遊び人でございます」


 右京は言い終わるや途端手を離し、(とこ)についていた膝を軽く上げ立ち上がった。


 ──橘 左近。


 既に忘れ去られた我が名を思い浮かべる。


 明らかにこの青年は悠仁采が弟、右近の孫に間違いなかった。頭上で結った髪をうなじの辺りで(まと)め、狩人の姿から身を左近の物と移せば、その外見は若き日の悠仁采と何ら変わりはないであろう。それほどまでにこの右京は、左近と、そして双子の弟 右近に似ているのだ。


「そこまで言わずとも……」


 依然壁に寄り掛かったまま、伊織は不服そうな顔で右京を見詰めた。万が一、悠仁采が織田配下の者であったなら、彼を逃がしはしないであろう。そうとでも言いたそうに。


「いいえ、見ていれば分かるのです、伊織様。おじじ様は織田家の方ではない。もちろん伊織様もそのことにはお気付きでしょう。もし織田家の方だとしても、私は、私を切り殺すようなお方ではないと思うのです」


 傍らに秋の寄り添う右京の表情は、淀みなどない笑みを浮かべ、悠仁采へと向けて真っ直ぐに貫かれていた。

 おそらくは、彼自身気付かない血の繋がりを嗅ぎ取ったのだ。


 遠い遠い昔。月葉と共に過ごした悠仁采の姿が目の前にあった。──と同時に、笑顔を刻んだ月葉の姿さえもが。小川の流れは時間すら戻すことが出来るのであろうか。今此処に居るのは以前の二人に相違ない。


 そして流れは更に(さかのぼ)り、悠仁采の込み上げてきそうな涙の向こうには、我が弟右近の姿も映った。父に愛された人形たる弟──。しかし存在する右近の孫は人形ではなく、野生の中で鍛えられた左近の姿でもある。


「橘 右近殿はどうなされた……」


 早くも耐え難き涙に頬を温めた悠仁采の、唯一の言葉であった。

 この数年来、涙というものの存在したことなどある筈もない。織田への憎しみの炎は()うに涙を干上がらせ、また、泣く間など有り得なかったのだから。


 右京はと云えば彼は彼で、頬を伝う涙の訳と祖父の名に、驚きを示さずにはいられなかった。が、不審を帯びる疑惑を抱いた訳でもない。


「祖父を御存知でしたか……。祖父は私の生まれる以前に病に倒れました。故に名の他には何も──」

「そうか──」


 知らず知らず口から出た言葉に、安堵の意がこもっていたことは誰も気付かなかった。右京が右近の生前の姿を知っていたならば、彼自身悠仁采の様子に目を疑ったことだろう。ましてや、あの報妙宗操る八雲であることを気取(けど)られてはならぬのだ。


「おじじ様、おじじ様は一体どなたなのですか? 右京様のおじじ様を知り、私のおばば様さえ知っているご様子だった……おじじ様は一体……!」

「秋、怪我人を困らせてはいけない」


 半ば混乱し我を忘れた秋を、伊織は冷静にあしらった。しかしやがて壁より進み出で、この機会を利用せんとばかりに、


「じじ殿、秋をお許しください。なにぶん未だ子供なのです。……じじ殿のその傷、さぞや訳ありとお見受け致しました故、今は未だ深くはお聞きせずにおきましょう。──が、こちらは救った身、せめて御名だけでもお教えいただきたい」


 と、先程秋が問うた事柄を繰り返した。

 此処まで言われては、悠仁采も名を明かさずにはいられない。しかし悠仁采の名を言えば八雲を、左近の名を告げれば橘を悟られるのは時間の問題である。


「わしは一度死んだも同然。死ぬ以前のことを話すつもりはない。だが、名は言わねばなるまい」


 悠仁采は一呼吸置き、頭の中で名についての思考を巡らせた。それはほんの数秒のことである。息を吸い込んだ虚空の時間。


「我が名は、佐伯(さえき) 朱里(しゅり)。右近殿とは以前会うたことがあった。そなたのご祖母については、人違いであると思うが……」


 朱里とは配下であった魔妖五人衆の一人 瞳炎(どうえん)の父、あの少女の(おもて)をした小姓の名である。言葉半ばにして途切れた悠仁采の視線は過去を浮かべていたが、向けた先には秋が居ることを彼も承知の上であった。

 もう何十年という間、(わら)い以外の笑みを忘れた悠仁采には、秋に微笑みかけることは出来ない。苦し紛れの苦笑いであったが、秋にはそれが伝わったのか、(かげ)りのない笑みを返してくれた。


 右近について隠したのは、八雲 悠仁采という名が邪魔をしたのであろう。彼自身そのことに気付いたのは言葉の出た後であったが、それは正解であったのかも知れない。


 正義──。


 信念とされてきた彼の事業は正義とならぬまま、悪として終わってしまった。終わった? いや、もう終わったのだろう。彼には再び事を起こすだけの力はない。

 あの日。葉隠の忍者に倒されたあの日──未だ時はそれほど経たず、あの日とは今日であるかも知れないが──彼の人生は悪で終わったのだ。そして善という矢は織田を射た。

 悪と決められた今、八雲の名は知られぬまま消されなくてはならない。右京の祖父の兄が悪人であってはならない。そんな想いが口を衝いて出たのかも知れない。


「朱里殿、と申されましたな。我ら城へ戻る時刻となりました故、これにて失礼致しますが、明朝にはまた戻って参ります。それまでは右京殿に従い、良く養生してください。あなた様は深く傷を受けられた……完治までには時が掛かるでしょう。ですからその身、しばらく我らにお預け願いたい」


 遠からずも力のある、伊織の達観した言葉であった。

 三人の若者達の優しい微笑みに包まれた悠仁采はしかし、既に帰り支度を始めた伊織と秋の背に礼さえも言えず、ただ惑いをぶつけた。


「何故にそなた達は、そこまでしてわしを助ける」


 戸口を開きかけた手首そのままに、秋が振り向きざまに云う。


「この森を訪れた方を、放っておくような義理はないのです」


 ──と。


「右京様、おじじ様を宜しくお願い致します」

「姫も気を付けて……」


 呆然とする悠仁采を残して、そのような会話のやり取りの後、二人は森の奥へと消えていった。

 頭上には満天の星を戴き──。




挿絵(By みてみん)




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