第43話「暗闇のなかで」
俺たちに突進を避けられた巨大猪はどんどん離れていくが止まろうとはしない。やはりそのまま旋回して戻ってくるつもりだろう。俺の隣に立っているココハが両手を前に突き出して目を瞑っている。こんな状況で目を閉じるなんて自殺行為なのに、それでも……彼女だからこそできることがある。
「…追い風!」
その精霊魔法をココハはそう呼んだ。そっと静かにゆっくりと背中から風を感じた。それは瞬く間に勢いを増していく。まるで突風でも吹いたように風圧を背中に受ける。巨大猪は旋回してこちらを向いたが、あまりの風の勢いで満足に進めないようだ。俺たちには追い風だが、今のやつにとっては向かい風になっているんだ。
「…ルミル!」
「いくわよ! 襲撃!」
ルミルが我流閃技の名前を叫んだのは初めてかもしれない。弓から放たれた矢はココハの風に乗ってどんどん加速していく。普段なら失速し始める距離に到達しても衰えることはない。飛距離は伸びていき、とうとう巨大猪の額にまで到達した。矢は弾かれることなくやつの頭蓋を抉っていく。
「ボギャァァァアアアアアア!」
右目を奪うことはできなかったが、巨大猪の動きを止めることはできた。次は……あいつの出番だ。
「急速前進!!」
ジェニオが前方に跳躍し、巨大猪の元へと駆けていく。
速い。速すぎて自らの足で躓いてしまうのではないかと思ってしまうほどだ。でも、そんなことにはならない。ココハの風はジェニオを優しく誘うように背中を押していく。もう巨大猪は目前だ。ジェニオは長槍を構える。
「くらえぇぇぇええええええ!!」
右の前脚、その付け根に向かって長槍を突き立てる。勢いがありすぎてジェニオは長槍から手を離してそのまま駆け抜けて行ってしまった。だが、残った長槍は胴まで貫通しており、ダメージとしてはとても大きなものだと期待できる。巨大猪は完全に停止し、前脚を折って地面に体重を預けてしまう。それを見届けたように静かに風は止んでいった。
「チャンスだ! ここで仕留める!」
俺は迷いなく駆け出した。ブレンとマキアはまだ動けそうにないし、ジェニオは武器を手放してしまっている。ココハは連続で魔法を使っているし、巨大猪の元へ行くには全力疾走をしても時間がかかるだろう。俺が行くしかない。
「ルミル! 援護して!」
「分かったわ!」
二人で距離を詰めていく。たぶんココハも付いて来ているとは思うが、もう無茶はさせられない。俺はマントを素早く脱いで左手で持つ。巨大猪は俺に気づいて立ち上がろうとしている。やめてくれ……もう動かないでくれ。そう願うしかない。
「させない!」
ルミルの矢が飛んでくるが皮膚は硬く刺さりはしない。ココハの新しい精霊魔法とルミルの我流閃技を合わせてようやく貫通できるくらいだ。狙うなら急所である首元の血管だろう。あれは皮膚から浮き上がるように通っているから俺の剣でも斬れるんだ。しかし、ルミルの位置から毛皮の下の血管を探すのは不可能だろう。
他に狙えるとしたら、やはり目か。やつの左目には先ほど刺さった矢がまだ残っている。同じように右目を塞いでしまえば、完全に視界を奪うことができる。ルミルの矢がダメでも、俺のマントでそれを覆ってしまえばいい。
「レイト! これでラスト!」
ルミルの矢が尽きる。
俺はもう巨大猪の前にいるが構わず射ってくるだろう。風を切る音がして俺の頭の横を矢が通過していく。でも怖くはない。ルミルは俺に絶対に当てないという確信があった。走るのを止めない。矢は吸い込まれるようにやつの右目へと向かっていく。これはさっきと同じだ。直撃する!
……しかし、やつは瞼を閉じて矢を弾いてしまう。相手も馬鹿ではない。同じ手は通用しないようだ。
「ボオォォォォオオオオオオ!」
突然の咆哮に俺は巨大猪の前で足を止めてしまった。恐怖心に襲われる。もう太陽の光もほとんど見えない。こいつを早く倒さないと! でも、今は逃げないと確実に死がそこにはある。俺はマントから手を離して剣を構えている。
「おい! 突っ立ってんじゃねえ! 死ぬぞ!!」
「レ、レイトくん……!」
「レイト!」
「避けなさい!」
「…レイトくん!」
みんなが俺の名前を呼んでいる。巨大猪は立ち上がると、そのまま上体を起こして前脚を浮かせた。俺は剣を構えたまま微動だにしない。巨大猪が踏みつけると俺は押し潰されるように煙となって消滅した。
「…いやぁぁぁああああ!」
ココハの悲鳴が聞こえる。
他のみんなも俺の名前を呼んだり、絶句していたりもする。巨大猪は何が起きたのか理解していないのか、暗闇で見えなくなっているのか、その場でじっとしている。
俺は……俺が巨大猪に潰されるのをやつの側面から見ていた。あれがどういうことなのか、何が起こったのかなんて俺にも分からない。死を感じた瞬間にすぐに移動してやつの視界の外へと逃げたからだ。敵も味方も、誰もが俺の存在を見失った。闇夜と、もう一人の俺の存在によって。
剣を構える。だが、やつの首元の血管は見えない。暗すぎるんだ。このチャンスを逃すわけにはいかない。一度きりだ……二度目はない。一か八かで斬ってみるか?
バシューン……と遠くから何かが打ち上げられた。それは、パァン! と破裂音を響かせると、辺りは昼間になったように明るくなった。そういう魔法なのか、はたまたそういう道具があるのか。どちらにしても、誰かが放ったものだろう。とにかく俺にとっては好機だ。今ならやつの首元がよく見える。通常個体の猪よりも大きいんだ。血管なんてすぐに見つかる。
「見つけた! ここだ!」
巨体すぎて斬り上げるには届かない。俺はその太い血管に向かって剣を突き立てるように手を伸ばした。勢いよく血が吹き出てきた。
「ボギャァァァァアアアアアアアア!」
巨大猪は断末魔のような鳴き声を上げるとそっと倒れ込んでいく。
それに合わせるように辺りを照らしていた明かりも消えていった。暗闇の中で、ズドォォォン……という音だけが響いた。
「ははは……やったのか? 俺たち」
ものすごい脱力感に襲われて、俺はその場に座り込んだ。
疲れた。でも、生きている。それがとても嬉しかった。再び明かりとなる光が打ち上げられる。どうやら街の方から誰かが向かって来ているようだ。一人二人ではない。結構な人数だ。
「…レイト、くん?」
ココハの声が聞こえたので俺は彼女の方を向いた。
ココハも地面に座り込んでいた。涙を拭っているのか、目の下に指を添わせているみたいだ。
「ココハ、大丈夫? もう怖くないから」
そう言ってから周りを見渡す。
ココハの近くにはルミルが立っており、左側の少し離れた場所からジェニオが歩いてくるのが見える。右側からはマキアが駆け寄って来ている。その後ろにはブレンが立ち上がろうとしているのが見えた。みんな無事だ。
「レイト! 怪我は!?」
マキアが心配してくれる。それが神官の仕事なのは分かっている。でもそれは、俺が生きている証拠だ。何度でも噛み締めたい。俺は……生きているんだ。
「大丈夫みたい。怪我はしてないけど、ちょっと疲れたかな。自分で消耗した体力は回復できないんだっけ?」
「少しだけなら……楽にはなると思う」
そう言ってマキアは俺の肩に触れた。
「我は唄う、光よ、かの者に癒しを……治癒」
思い返してみれば、マキアの治癒魔法を受けるのは初めてだった。疲労をも回復できるというそれは、体の中心から温かくなり、体の表面は光に包まれるかのようだった。
「レイト! おめえ、死んでたはずだろ……どうなってんだ?」
「生きてるよ、俺は」
「で、でも、ボクには踏みつけられたように……見えたけど」
ブレンも疲れているだろうに、俺たちの所まで来てくれた。
「あたしにもそう見えたわ」
「ははは、あれね……俺にも見えたよ。でも何だったのか、自分でもよく分かんなくて」
「なんだよおめえ……分身の術かよ? ビックリさせんじゃねーよ!!」
「悪い。でも、ジェニオに心配されるとは思わなかったな」
「ああ? うっせーよ! 別に心配なんかしてねーわ!!」
「…よかった、無事で……よかった」
ココハが泣き出してしまった。それでも、俺たちは誰一人悲しんではいない。
「おーい! 無事かー?」
誰かの声が聞こえる。
もしかしたら、街から救助に来てくれたのだろうか。帰れるんだな、俺たちは。冒険者たちの街……ルトナへ。




