04(終)
扉が閉まる直前に聞こえた彼の声は、どこまでも穏やかで、慈愛に満ちていて。
それなのに、泣きたくなるほど甘やかで。
けれど。
目を見開いて振り返った私の目の前で、そのドアはパタン、と小さな音を立てて閉ざされる。
ドアが閉まるまでのわずかな時間、その隙間から見えた彼の姿は。
見慣れた、傲岸な印象を与える笑みに、わずかに寂しげな色を載せて、――だけど。
決して揺らぐことのない、鋼鉄を思わせる意思を秘めた、強い強い眼差しをしていた。
彼は、彼の意思が通る限り、もう二度と私に会わないだろう。
それが分かったから、私も彼に会おうとはしなかった――彼が、帰らぬ人となる、その日まで。
*
彼を見送って、しばらくして。
私は彼の弟に、彼の写真を強請った。
私がどんなに彼に懐いていたか、ある意味それを一番間近で見ていた彼の弟は、仕方なさげに笑って、私に写真を選ばせてくれた。
彼と、彼の弟は、とても仲の良い兄弟で。
一見それほど似ていないように見える彼ら兄弟は、実のところ、とてもよく似ている。
だから、彼の弟の傍にいると、彼のことを感じられる気がして、私は、その空気がとても、好きだった。
――それでも、私が彼に抱いた感情を、彼の弟に向けることはありえないけれど。
彼の弟も、そのことをよく分かっているらしく、私の好きにさせてくれている。
つい最近、私は高等学校を卒業した。
彼がいなくなったのは、私が十歳の時だった。今は、十八歳。
けれども、二十八歳でいなくなってしまった彼にはまだ、追いつけない。
学校の式典を、ノルマのようにこなして帰ろうとする私に、同級生が声をかけてくれた。
「そんなに急いで、あの彼氏が待ってるんだ?」
分かりやすいからかいの言葉は、けれども、ある意味ではとても分かりにくかった。
「…あの彼氏?」
私に特定の相手がいたことはない。
どんな相手も、私の中で彼以上の存在にはなれないと知っているから、恋人を作ろうと思ったこともなかった。
そんな私の困惑を、照れと誤魔化しだと思ったのか。
相手は分かっている、というように頷いて。
「誤魔化さなくたっていいじゃん。いっつも彼氏の写真、持ち歩いて事あるごとに眺めてるでしょ? ちゃあんと知ってるんだからね!」
茶目っ気たっぷりに片目をつぶる、というおまけつきで教えてくれた。
「――えっ、」
言われたことの内容に、思わず思考が停止する。
それでもどこかで冷静に、なるほど、と呟く自分もいた。
彼が故人であることを、私はわざわざ級友たちに告げたりはしなかった。
当然だ、そんなこと、言いふらすようなことでもなんでもない。
そして、私は彼の写真を手に入れてから、ほとんど常に肌身離さず身に着けていた。
現に今も、制服の胸ポケットに収まった手帳に、大事に大事に挟んである。
今となってはもう、お守り、のようなものだ。
――少しでも、彼が傍にいると感じたくて。
けれども、彼と私の関係を知らず、私が彼の写真を持ち歩いているという、それだけの事実を見れば。
確かに、級友が指摘したように見える、のかもしれなかった。
「ちらっと見ただけだけどさ。すっごいカッコいいよね! 大人のオトコ、って感じで! 軍人さんなの?」
「え、あ――ううん、軍学校は出た、んだけど。体を壊して――軍には、行かなかったの」
「そうなんだ? でも、それなら少しは安心だね? 軍人さんだと、お仕事行くたびに不安になりそうだもん」
「そう、だね…」
話している内容は、全て本当のことなのに。
どこか、夢の中のように、フワフワと現実味がない。
「ねぇねぇ、図々しいお願いだとは思うんだけど。彼氏の写真、見せてもらっていーい?」
「えっ、」
あっけらかんと明るい級友の言葉に、またしても言葉を失う。
「あー、ごめん。悪気はないんだけどさ、アンの相手がどんな人だか、結構皆気になっててさー。卒業祝いで無礼講ってことで、許して?」
滅茶苦茶な理由ではあったが、突っぱねる気は最初からなかったし、それほど気にされているとも思っていなかったので、むしろそちらに驚きつつ、結局は吹き出してしまった。
「何、その理由。別に怒ったりしないのに」
そう、どちらかといえば、むしろ。
――彼を、見せびらかしたかったのかも、しれない。
「はい、どうぞ」
「おおーっ、ありがとー」
級友は「ふわー…」と妙な声を発してしげしげと写真に見入った後、「眼福でした」という謎の言葉とともに写真を返してくれた。
「やー、でもこれなら分かるわー」
「何が?」
「こんなイイ男と付き合ってたらさ、そりゃあ、同じ歳の男なんてガキっぽくて眼中になくなるよねー」
しみじみと実感のこもった台詞に、私は「そう?」と首を傾げる。
「彼だって、時々…というか大概、子供っぽいよ?」
そう、私と一緒に遊んでくれていた、という時点で、彼は実のところ、相当子供っぽいところのある人、でもあった。――勿論、それ以上に大人でも、あったのだけれど。
「…ノロケ?」
「何で?!」
単純な事実を伝えたつもりが、なぜか温い目つきで見られるに至り、思わず抗議の声を上げた私に対して。
「爆発しろ、リア充めー!」
「えっ、ちょ、」
級友は楽しそうに笑いながら立ち去って行った。
「彼氏さんによろしくー!」という言葉を残して。
「――よろしく、だってさ?」
手の中の写真に向かって、苦笑交じりで呟いても、返る声はない。
当然だ、分かり切っている。
それでも。
なにをだよ、と愉快そうに応える声が、私の胸の内を柔らかく擽った。
彼はいるのだ、今も、私と。




