再会編1『初めての客は、中学時代の相棒だった』
タイトルとは裏腹に絶望的なシーンから始まります。
不快に感じられる描写があるかもしれません。
ご容赦ください。
鏡に映る自分を見て、緑川希は深いため息をついた。
「……似合わない」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。
用意されていたのは、光沢のある白いスリップドレスだった。
細い肩紐が肩に食い込みそうで、胸元は心許ない。
裾は太ももの半ばまでしかなく、少し身じろぎするだけで、普段着慣れたTシャツやジャージとはまるで違う感触が肌を撫でた。
大人の女性が着れば、きっと艶やかに見えるのだろう。
けれど、今の自分にはどうにも似合わない。
衣装だけが一人歩きしているような、借り物の服を無理やり着せられた子供のような。そんな居心地の悪さが、鏡を見るたびに込み上げてくる。
そもそも、希の身体はこういう服を着こなすためにできてはいなかった。
中学から高校まで、陸上競技に打ち込んできた。
専門は短距離走。スタートダッシュで地面を蹴り、腕を振り、ゴールまで全力で駆け抜ける。少しでも速くなるために、何度も走り込み、筋力トレーニングを繰り返してきた。
その結果、肩や太ももにはしっかりと筋肉がついた。
細身ではあるが、華奢とは言い難い。しなやかというより、実用本位の、走るための身体だった。
胸だって、女性らしい豊かな膨らみとは縁がない。
髪も、ずっとショートカットのままだった。
競技の邪魔にならないように短くしたのが始まりだ。洗うのも乾かすのも楽だし、走っているときに髪が顔にかかることもない。何より、自分にはこの髪型が一番しっくりきていた。
去年の文化祭では、クラス演劇で王子様役を押しつけられた。
最初は嫌だった。どうして女子の自分が王子様なんだ、と抗議もした。
けれど、いざ舞台に立ってみれば、客席から黄色い歓声が上がった。
『希、格好いい!』
『本物の王子様みたい!』
あれはあれで、悪い気はしなかった。
むしろ、少し照れくさくて、悪戯っぽく笑ってみせたくらいだ。
格好いいと言われるのは嫌いじゃない。
走る姿を褒められるのも嬉しい。
けれど。
鏡の中の自分を、希は改めて見つめた。
今、求められているのは、そんなものではない。
速さでも、強さでも、格好よさでもない。
男の欲望を満たすための、女らしい色気。
そのために、普段なら絶対に選ばないような服を着せられている。
「……何やってるんだろ、私」
呟いた声は、思った以上に弱々しかった。
鏡の中の自分は、何も答えてくれなかった。
◇◇◇
今日、希は18歳になった。
本当なら、特別な祝福に包まれるはずの日だった。
母の作った料理が食卓に並び、少し不格好なケーキにろうそくが立つ。弟と妹が、照れくさそうにしながらも、元気いっぱいに誕生日を祝ってくれる。
そんな光景を、ほんの数年前までは当たり前のように思い描いていた。
弟は小学5年生。妹は小学3年生。
妹はきっと、今年も手作りのプレゼントを用意してくれただろう。折り紙を貼り合わせた、少し不格好なカードかもしれない。
弟は弟で、照れ隠しに「おめでとう」と一言だけ言って、すぐにゲームの話でも始めるに違いない。
それでも、希はそんな二人の姿を見るのが好きだった。
――なのに。
18歳の誕生日を迎えた今日、希には初めての客があてがわれた。
相手の名前も、顔も知らない。
ただ、その男から金が支払われる。
その金があれば、少なくとも当面の利息は払えるらしい。
家を追い出されることもない。弟と妹が、学校に通えなくなったり、住み慣れた家を離れたりすることもない。
ひとまず、そこまでは避けられる。
そう聞かされた。
それだけが、今の希に残された希望だった。
すべての発端は、父の会社の倒産だった。
小さな製造業を営んでいた父は、長年の取引先が倒産したことで、売掛金を回収できなくなった。銀行への返済が滞り、運転資金も尽きた。
母が会社の借入れの連帯保証人になっていたことが、さらに事態を悪化させた。
会社が潰れれば、借金も消える。そんな都合のいい話はなかった。
父は高金利の業者からも金を借りていたらしい。返済のために別のところから借り、足りなくなれば、また借りる。その繰り返しで、借金はいつしか家族の手に負えない額に膨れ上がっていた。
そして、父は家に帰ってこなくなった。
残された母のもとに、見たこともない男たちが押しかけるようになった。
先月、彼らは居間のテーブルに書類を並べ、母に返済を迫った。
『払えないなら、ほかの方法を考えてもらおうか』
男の視線が、母から希へと移った。
その意味を理解した瞬間、希は背筋が凍るのを感じた。
母は泣きながら首を振った。けれど、男たちは聞く耳を持たなかった。
家を失う。弟と妹が、今の暮らしを続けられなくなる。
その恐怖に耐えられず、希は口を開いていた。
『……私が、なんとかします』
それが何を意味するのか、本当はわかっていた。
それでも、ほかに方法が思いつかなかった。
18歳になれば、自分でも働ける。少しでも金を稼げば、家族を守れるかもしれない。
男たちは、そんな希の思いを見透かしたように笑った。
彼らが告げた金額も、返済の条件も、まともなものではなかった。
それでも希は、信じるしかなかった。
自分が耐えれば、弟と妹だけは守れるのだと。
母が顔を上げた。
泣き腫らした目が、信じられないものを見るように希を見つめていた。
希は母から目を逸らした。
逸らさなければ、きっと決心が鈍ってしまう。
妹は、希がアルバイト代を貯めて買ってやった安物のぬいぐるみを、今でも大切に抱いて寝ている。
弟は少し生意気になったけれど、学校から帰れば、今日あった出来事を嬉しそうに話してくれる。
そんな二人から、学校を奪いたくなかった。
給食費が払えなくなるようなことも、友達の前で恥ずかしい思いをさせることも、絶対に嫌だった。
自分が我慢すればいい。
自分が耐えれば、二人は今までどおり暮らせる。
少なくとも、そう信じたかった。
だから、頷いた。
家族を守るために。
◇◇◇
「……大丈夫」
希は、鏡の中の自分に言い聞かせるように呟いた。
「私が、なんとかするから」
声に出せば、少しは気持ちが落ち着く気がした。
けれど、胸の奥で渦巻く恐怖は消えなかった。
どんな人間が客として現れるのか。
何を要求されるのか。
自分に、それを耐えられるのか。
考えれば考えるほど、胃のあたりがきりきりと痛んだ。
陸上の試合なら、怖くてもスタートラインに立てた。
号砲が鳴れば、あとは前を向いて走るだけだ。
勝つために、練習してきた。
負けたくないから、苦しいトレーニングにも耐えてきた。
けれど、今度ばかりは違う。
何をすればいいのかもわからない。
どうすれば終わるのかもわからない。
ただ、時間が来るのを待つしかなかった。
希は胸元をそっと押さえた。
そのとき、ふと、ひとつの考えが浮かんだ。
(……いっそ、幻滅してくれないかな)
この姿を見て、男が期待外れだと感じてくれたら。
なんだ、思っていたほど女らしくないじゃないか。
胸も小さいし、色気もない。金を払う価値もない。
そう言って、何もせずに帰ってくれたら。
それなら、今日だけは何事もなく終わるかもしれない。
もちろん、そんな都合のいいことが起こるはずもない。
男は金を払うのだ。
金を払って、わざわざここまで来るのだ。
自分がどんな姿をしていようと、簡単に帰るはずがない。
そんなことくらい、希にもわかっていた。
それでも、期待せずにはいられなかった。
ほんの少しでも、可能性があるのなら。
希は冷えた両手で、自分の肩を抱いた。
身体が強張る。
呼吸が浅くなる。
逃げ出したい。
今すぐここから走り去ってしまいたい。
それでも、足は動かなかった。
自分が逃げたら、家族はどうなるのだろう。
その問いだけが、希をこの場所につなぎ止めていた。
――コン、コン。
不意に、ドアがノックされた。
希の肩がびくりと跳ねた。
来た。
ついに、そのときが来てしまった。
返事をしようとして、声が出なかった。
喉がからからに乾いている。
もう一度、ノックの音がした。
やがて、ドアが開く。
「緑川?」
聞き覚えのある声だった。
希は鏡から慌てて視線を剥がし、振り返った。
そして――息が止まった。
「……青島?」
そこに立っていたのは、青島望だった。
中学時代、同じ陸上部で汗を流した男。
練習が終われば、どちらが先に校門までたどり着くか競争した。
勝てば子供みたいに喜び、負ければ本気で悔しがる。
お互いに一歩も譲らず、何度も何度も走った。
男女それぞれのエースだった二人は、いつしか周囲から『希望コンビ』と呼ばれるようになった。
名前を並べただけの、安直なあだ名。
けれど、二人が並んで走る姿は、周囲の目にもよく映ったらしい。
あの頃は、毎日が楽しかった。
練習はきつかったし、記録が伸びずに落ち込む日もあった。
それでも、明日もまた走れると思えば頑張れた。
中学卒業後、望は少し遠い私立のスポーツ強豪校に進学した。
希は近くの公立校に進学し、以来会ってはいない。
いつか、また会えるだろうか。
そんなことを考えたこともあった。
けれど、まさかこんな場所で再会するなんて、夢にも思わなかった。
望は、驚いたように希を見つめていた。
昔より背が伸びている。
肩幅も広くなり、体つきもずいぶん逞しくなった。
中学時代にはまだ少年らしさの残っていた顔立ちも、今ではすっかり大人びている。
それでも、面影は変わらない。
あの頃と同じ、真っ直ぐな目。
間違えるはずがなかった。
どうして。
どうして、青島がここにいるの?
頭の中が真っ白になった。
希は無意識に胸元をかき合わせようとした。
こんな格好を見られたくなかった。
よりにもよって、望にだけは。
緑川希という名前から察する人もいるかと思いますが、今回のヒロインのイメージはときメモの清川望です。
我が心の人生初彼女、と位置付けている、私にとってベストヒロインの一人です。
ただ困ったことに、彼女はデレればデレるほど、その魅力が損なわれるという性質を持ちます。
エンディングでの「もっと女らしくなる。なんなら水泳も辞めるわ!」とのセリフ。
主人公の返事は「やめてくれ、そんなの俺の好きな清川さんじゃない!」に差し替えてください。
ということで今回は、清川さんが清川さんらしいままのラブストーリーというプロットをベースに執筆します。
お付き合いいただければ幸いです。




