13 置かれた道の先
「……お前、何でこんな所にいるんだ。勉強はどうした」
指を離しながら質問すると、イフィクレスも不審そうに、自由になった小さな手を引っ込めた。
「……あんなもんもう終わったよ」
そう言って、体ごと横に向けた。二冊の本と、一匹の茶色の子犬を胸に抱いている。
「じゃあ遊びにでも行ってろ。その……ブランカの子供と一緒に」
ブランカというのは敷地に入り込んできた元野良犬で、使用人たちが勝手に馬小屋で飼うことにしていた中くらいの白い犬だった。
オルランドは大人しいし病気でもないようだからと放置し、稀に見かけたら撫でるくらいはしていたが、大勢いる子犬たちの名前までは把握していなかった。
「ロロだよ。雪が降ってるじゃないか」
「だからこそだ。そのロロも連れて、艝でもしに行け」
この二人は、互いに絶対に目を合わせずに話す。
血縁があって見た目も似ているからこそ、彼らの間には海よりも深く、埋めることのできない断絶があった。
愚かしくもあの獣に信頼を寄せていた頃は、この子供は間違いなく弟だった。
だがこうなってしまっては、もう昔のようには思えない、ということだ。
イフィクレスが三番目の異母兄に保護者としての愛情を期待し、それとなく気を引こうとしていたことはオルランドも感じ取っていた。
しかし彼にも感情の限界というものは存在しており、今のところその期待に応えられてはいなかった。
優秀で諦めのいいイフィクレスは、兄には必要以上に関わらないようにしていたものの、それでも複雑な思いを抱いていないわけではない。
「今日は嫌だ。……あのさ。兄上に、言っておくことがあるんだけど」
「何だ。……おい、ここにそいつを放すなよ」
イフィクレスは床に座って本を置き、じゃれつくロロを自由にさせていた。だが彼はその勧告は無視し、話を続けた。
「僕さっき、姉上に会ってきたんだよね」
「……何?」
目を横にやると、口に手を当てて顔を支えた。
「……そうか。どうだった?」
「今日は起きてたよ。セレネイス語の本だから読めないって言ったら読んでくれた。二冊目も頼んだら、疲れたからまた明日にって断られたけど」
オルランドは手を当てたまま、溜め息をついた。
「そうか……うちにセレネイス語の本なんてあったんだな」
「……ロドルフ兄上のだよ。姉上も同じこと言ってた」
オルランドは返事をせず、イフィクレスも静かに子犬の折れた耳を掻いてやっていた。
十年前を知る者たちにとっては、ロドルフとイフィクレスの組み合わせは特別な意味を持っている。
フライナ家の四男はどの兄姉たちとも半分しか血の繋がりがないにもかかわらず、あまりにもロドルフに似過ぎていた。
実の弟である、テオドールやオルランドよりも。それも単純な容貌だけではなく、表情の作り方、声、歩き方全てが長男の少年期と同じだった。
ある程度成長したロドルフの姿しか覚えていないオルランドでも、どうしようもなく昔の傷が刺激される。
これがもし双子のように似ていただけなら、むしろ好ましく感じられたかもしれない。
だが大人たちを見上げるその瞳だけは、唯一母親の形質を受け継いでいた。
そこ以外は全く似ていないディーナと同じ、深い青緑色だった。
あの唾棄すべき仇と、病弱だが嫡子に相応しい気骨と冷静さを持ち、皆の尊敬を集めていた兄。その両方を想起させる不幸な子供は、十分に世話されてはいた。
妙に倹約家なところはあるが何不自由ない生活を送り、毎日勉学に励み、人形や木馬、望遠鏡や新しい昆虫標本、自由時間も与えられていた。
ベリンダや年若い使用人たち、ディーナからの慈愛はしっかりとある。いじめや暴力を受けているわけでもない。
しかし本人の特殊な生まれと性質、緊張感漂う家庭環境が、彼を大人しく内向的な少年に変えていた。
「……それでさ。僕はロロを連れて行って姉上はかわいいって言って、少し遊んでからちょっと寝始めたからこの本を読んでもらった。で、最初から話そうとは思ってたんだけどなんか姉上が嫌だったらどうしようとは思ってたんだけど、今日は大丈夫そうだったから話したら迷ってたけど兄上がいいならって……」
「ちょっと待て」
オルランドは怪訝に思って、一度話を遮った。
この弟は子供ながらにいつもその知性が伝わる口調だったのだが、今回は様子がおかしかった。早口で幼稚なことをまくし立てるのは、彼らしからぬ喋り方である。
「全く伝わってこないから、一度整理してから話せ。お前の姉さんが何だって?」
イフィクレスは口を引き結び、大きく肋骨を膨らませた。
訴えかけるような目線で持ってきた本をしばらく凝視し、ようやく覚悟を決めて、その間から一枚の紙片を引き抜いた。
そして兄ではなく家具を見つめて、勢いよくそれを差し出した。折りたたまれている、黄色がかった白の便箋だった。
受け取って開いてみると、その文は美しい筆跡の挨拶から始まっている。そして最後まで目を通したオルランドは、子犬の白い前足を握っている弟を見つめた。
「つまり、こういうことか? 要約すると、お前の姉さんと一緒にガラテアの家に行きたいんだな?」
ガラテアというのは、ロドルフの生前の婚約者だった女性である。
かつては結婚準備として家族ぐるみで親しく付き合っていたのだが、今となっては別の男性と家庭を持っている。
「……うん」
オルランドは腕を組むと、しばし視線を彷徨わせた。
「……手紙を出すのが好きな奴だな、お前は。いつからやり取りしていたんだ?」
「……七歳の時から」
「へえ。……で、ガラテアは全部知ってるのか? もしかすると」
「全部は書いてない……でも、大体は書いたんだ。それで姉上にも手紙を出してあげて欲しいって頼んだら、手紙じゃなくて泊まりに来ていいって……。そこにも書いてあるけど、何か渡したいものもあるらしいから」
「何だ、それ?」
「そこまでは知らないよ……」
脳裏に涙ながらに再会した時の彼女や、夜会に訪れて、ディーナと話していた時の笑顔が浮かぶ。幼い頃も彼女には親戚として好感を持ってはいたものの、そこまで面倒見がいいとは知らなかった。
しかしディーナ本人も、友人が全員いなくなってもガラテアだけは手を差し伸べてくれた、とは言っていた覚えがある。
婚約者を奪われてもなお真実を見抜く目と、まずい立場に置かれた者たちに対する同情を失わなかったとは、驚嘆に値する人物であることだ。
彼女とは異なり直接確認できなかったとは言え、自分はディーナを信じきれなかった。
「ディーナは行きたいと言ったんだったか?」
「うん……迷ってたけど、兄上がいいって言ったら行きたいって言ってた。えっとさ……伯爵夫人に説得してもらうってのは、どうかな……。姉上も、友達の言うことなら聞くと思うんだ」
彼は絨毯に目を落として、しばらくの間どうしようかと考えを巡らせていた。
正直なところ、今の状態の彼女をガラテアの元に行かせると言うのは、そこまでの妙案だとは思えなかった。
あまり長旅にはならないとは言え体調が心配される上、弟を道連れにしてでも目的を達成しようなどと考えている可能性もある。
だがこれ以上ただ部屋に留め置いていたとしても、事態が好転する未来などあるはずがない。内心がどうであれ、当人が意欲を示したと言うのならば。
例え根本的な解決には至らなかったとしても、少しは彼女に取り憑いている死の気配を遠ざけられるかもしれない。
子供を人の家に行かせるのはやや気が引けるが、ガラテアの方から言い出したことならば問題ないか。
「いいだろう、二人で挨拶してきてくれ。ベリンダも連れて行くといい。……行儀よくしろよ」
イフィクレスは素早く兄の顔を見上げてから、遠慮がちに視線を外した。
「……兄上は来ないの?」
「残念ながら、首都に向かう用事がある」
「ふーん……もしかして、王女様のこと?」
相変わらず鋭い子供だな、と考えつつお前には関係ないと言おうとした。
だがその秘密主義がこのような事態を招いたのではないかとも思えてきて、正確には違うと答えた。
「エマニュエラ殿下はシルキアンに輿入れされると正式に決まったから、西部貴族の娘との話だな。ちょうどもうすぐ、全エウシェリア統一記念があるだろう。式典に出るついでに、断ってくる」
「そうなんだ、エマニュエラ様じゃなくて西の方の……全然知らなかった。よかったね。姉上も喜ぶだろうね」
「どうだかな……」
確かに少し前のディーナなら、喜ぶかもっと早くそうするべきだったと軽く詰るか、何かはしただろう。
だがより優先順位が高い事柄ができてしまった今となっては、どうでもいいと感じるだけなのではと思った。
二人がそれぞれ物思いに耽っていると、扉を叩く音がする。
ハッとしたイフィクレスはじゃあもう、と本とロロを抱え上げ、走り出ていった。
その向こうには郵便物を抱えたポロニウスがいて、お坊ちゃま、何故こちらに? と駆けて行った方向に声を掛けている。
オルランドは手招きすると、ガラテアからの手紙を見せて説明し始めた。




