05 脱出
『目を覚ますんだ、遼。ここにいてはいけない』
誰かに呼ばれたような気がして、遼は薄目を開いた。
白衣の男たちが手術道具を片付け、部屋から出て行くところだった。遼がまだ眠っているものと思っているようで、こちらへは一瞥もくれない。
首を動かさないように、横目で辺りの様子を窺う。宇野の姿が視界に入り、遼は慌てて目を閉じた。彼は茶色がかった長い前髪をかき上げ、クリップボードに挟んだ書類を眺めている。手術の結果か何かが記してあるのだろうか。
意識が覚醒していると悟られてはまずい。相手を油断させ、隙を見てここから逃げ出さねばならない。
それにしても、さっきの声は誰だったのか。
『このまま手術を受け、悪の手先になってはいけない。逃げるんだ、遼』
心へ直接響いてくるような不思議な声が、もう一度遼の元へ届いた。その途端、遥か昔の記憶が雪崩のように押し寄せ、鮮明に甦った。
もしかしたら、全ては自分の見ている幻覚なのかもしれない。極度の緊張と怪しげな手術のせいで、精神状態が普通ではなくなっているのかもしれない。
それでも、遼には何故だか信じられた。
(間違いない。あの声は、父さんの声だ)
「手術は無事に終わりました。あとは記憶を改変するだけです」
間もなくして、宇野の声が聞こえた。
「宮本君を呼んできますから、君たちはここで待機していなさい」
「はっ」
かしこまって答える声が三つ。部屋に残っていた白衣の男たちだろう。
それから一組の足音が遠ざかり、ドアが静かに開けられ、また閉じる。宮本という人物を呼びに、宇野が退出したらしかった。
逃げ出すチャンスは今しかない。そう思い、遼はほんの少しだけ瞼を開けた。この部屋に残っているのは、宇野の部下三名のみ。先刻までと比べれば、格段に警備が緩くなっている。
壁沿いに並んで立ち、彼らは何事かを小声で話し合っていた。手術台に横たわる青年には目もくれない。
意を決し、遼は上体をがぱりと起こした。手首の拘束具が抵抗を示すが、構わずに力いっぱい腕を振り抜く。常人離れした筋力が発揮され、きつく締めつけていたバンドはあっけなく砕けた。
同様にして両足首の拘束をも解き、遼は手術台からリノリウムの床へと降り立った。
バーンアウトの施術によって、自分の体は以前と違ってしまったらしい。だが、今はそれでも構わない。脱出するために使えるものは、何だって使う。
拘束具から逃れた遼を見て、白衣の男たちは少なからず動揺していた。
「馬鹿な。まだ麻酔が切れる時間ではないはずだ」
「……貴様、何故動ける⁉」
彼らの問いかけには答えず、遼は手術台の脇に置かれていたかごからワイシャツを拾い上げ、さっと羽織った。
「悪いけど、服は返してもらうぜ」
ダン、と強く床を蹴り飛ばす。一跳びで部屋の出入り口の前まで跳び、遼はバーンアウトの拠点から逃げ出そうとした。
「待てっ」
しかし、それを見逃すほど敵も甘くはない。三人の男たちが遼を取り囲み、拳を振り上げる。咄嗟に体を沈め、遼はジャブの連打を躱した。お返しに、アッパーカットを繰り出し、次々に相手を無力化していく。
「世話になったな」
捨て台詞を吐き、遼は開け放たれた扉から脱兎のごとく走った。無我夢中で、後ろを振り返ることさえしなかった。
部屋の中が異様に静かなことに気づき、宇野は眉をひそめた。ドアを開けると、白衣を着た男三人が気を失って倒れている。
「おい、何があった」
肩を揺すって問うと、ようやく一人が目を覚ました。
「……拉致した青年が、急に暴れ出しまして。麻酔薬の量は適切だったはずなのですが」
弱々しい声を聞くやいなや、宇野は血相を変えた。携帯端末を取り出し、他の部下へと伝達を行う。
「……私だ。先ほど捕らえた実験体が逃げた。まだそう遠くへは行っていないだろう。周囲をくまなく探せ」
通話を終了し、背後に従えていた小柄な男性を振り返る。
「いやあ、申し訳ありませんね、宮本さん。ちょっとしたアクシデントです」
「はあ」
背が低い上に丸顔なので、悪い意味で子供っぽい印象を受ける。ハンカチで脂汗を拭いながら、宮本は曖昧な答えを返した。
「無事に捕まるといいのですが」
「心配は無用です」
営業用のスマイルで応じ、宇野はスーツのポケットへ携帯を押し込んだ。
「逃げられると思わないでいただきたい」