番外戦「手のとどく場所」
前話の最後から、少し時間を巻き戻しての話になります。
扉を後ろ手に閉めて、なに思うでもなく、足は書斎へ向かった。
書斎に入れば、簡素だが頑丈な、褐色の机と椅子が一脚ある。
両脇の本棚が道を作っているようだから、迷いなく椅子に座り、机に突っ伏した。
怒りで人を殴ったことは何度もあったが、哀しくて人を殴ったのは初めてだ。
しかもそれが我が子だ。
俺は父親失格だ。
アサツキはずっと、俺やアザミから離れて生きていた。
理由はどうしても分からないが、きっと俺達がなにかしてしまったに違いない。
言い訳はしたくないが、それでもやはり、アサツキとスクモが生まれた時には、色々ありすぎた。
どこかでなにかが狂ったのか。
その狂いが、悪い形で出てきた。
最悪の結果にはならずに済んだが……。
コンコン、と軽く木を叩く音がして、振り向いた。
「シュウ、いる?」
決して人を不快にさせない、柔らかくも芯の通った声が聞こえた。
「ああ、入っていいぞ」
現れたアザミは、申し訳なさそうに笑った。
「魔導師様は、お礼を受け取らずに帰ってしまいました」
「仕方ない。機会があれば、そのときにする」
アザミが歩み寄り、俺の膝の上に乗った。
俺が金色の巻き毛を指で梳くと、アザミは俺の輪郭をなぞるように、白く長い指を頬に添えた。
「それから、スクモの目から血が出ていたから――」
「なんだと」
咄嗟に立ち上がろうとして、アザミに肩を掴まれた。
「薬は差しておきました」
「呪いじゃないのか?」
「多分ね。念のため、あとで貴方が診てあげて」
「ああ」
アザミの、青空のような碧眼を見詰めていると、少し気分が晴れた。
「なあ、アサツキのこと、どう思う?」
「無鉄砲。誰かにそっくり」
「そっくり?」
「ええ、誰の助けも借りたくないって思ってるところなんかも、誰かにそっくり」
そんなもの当然と言わんばかりに、アザミは事も無げだ。
「……スクモの目を診てくる」
「いってらっしゃい」
天使のように微笑んで、アザミは俺の膝から下りた。
スクモは居間の椅子に座って、呆けたように脚をぶらつかせていた。
この子は考え事をしているとき、こうやって上の空になる。
邪魔をしてはならない、神聖な時間だと、勝手に思っていた。
隣の椅子に座るが、スクモに反応はない。
アサツキが俺に似ているとしたら、スクモは誰に似ているんだ。
やはりアザミか。
俺があまり目にしないだけで、アザミにもこういう面があるのかもしれない。
「父君、私になにか用か」
スクモの面白いところは、大人ぶりたがるところだ。
いつでもアサツキの後ろに付いて行き、その上でませた言動をしたがる。
きっと兄の気を惹きたいのだ。
どうあっても、アサツキはつれないらしいが。
「何度も言ったが、父君母君という呼び方は相応しくないぞ」
「こう呼びたいのだ、気にしないでくれ」
意固地なところは、俺似ということか。
いや、案外アザミもそういう部分があるから、一概には言えない。
「目を診せてみろ」
スクモは嫌そうな顔をした。あまりにも露骨だったので、苦笑した。
「薬は差さん、診るだけだ」
不承不承、スクモは体を俺に向けた。
じっと見上げる右目には、確かに血の流れた痕跡がある。
指を目の下に当て、結膜を見るが異変はない。
「上を向いてみろ」
眼そのものに、怪我は見当たらない。
だが、この血は明らかに眼から出ている。
眼の下から漏れ出したように見える。
「なにか……怪我に心当たりはあるか」
「擦ったら血が出ただけだ、大事にはならん」
「擦っただけで血が出るようなら大事だぞ」
憎々しげな目をスクモがしたので、手を離した。
「わかった、もういい」
訊かれたくないことの一つや二つ、子供にだってあるものだ。
撫ぜようと、頭に伸ばした手が弾かれた。
敵意に満ち溢れたスクモの表情に、内心で竦んだ。
「それは許さん」
吐き捨てて、スクモは居間を出て行った。
反抗期はまだ先のことだと思うのだがな。
溜め息一つ。親というのは難しい。
叱り付けるのは簡単だ。間違いを指摘するのも簡単だ。
褒めることは容易いし、おだてることも苦労はしない。
なのに、彼らを一個の人間として見たとき、なにが正しいのか分からなくなる。
自分の言っていることや、やっていることは真実、正しいと言えるのか。
アサツキやスクモには、アサツキやスクモなりの感じ方があり、考え方がある。
俺が正しいと思う人間に育てたところで、彼らにとって正しくなければ、恨まれるだけではないか。
アサツキはアサツキらしく、スクモにはスクモらしく成長してもらいたい……。
「考え過ぎだな」
気分転換に、店を開けることにした。
「アザミ、いるか?」
台所に入ると、アザミが昼食の用意をしていた。
「どうかした?」
「アサツキの容体が良くなったからな。昼食を済ませたら、店を開けるぞ」
「はい、わかりました」
アザミは莞爾として笑み、いそいそと食べ物を器に盛る。
「アサツキたちを呼んでくる」
子供部屋へ向かうと、廊下でシュラと出くわした。
物憂げに視線を落として、元気がない。
「ご飯だぞ、シュラ」
「はい」
とぼとぼ歩くシュラの様子に、いたたまれなく、声を掛けた。
「どうかしたのか」
くるりと振り向いたシュラの碧眼に、期待と不安の入り混じる、光が宿った。
己の行いに迷いはない、けれど縋るしかない、と言ったところか。
「ぼくに薬のことを教えてください」
いつか、そう言われる日がくるかもと思っていた。
或いは、一生、言われないかもと思っていた。
言われるとしたらアサツキだろうなと、そうも思っていた。
「何故だ?」
「もういやです」
「なにがだ」
「兄さんに置いて行かれたくない」
目を歪めて、今にも泣きそうなシュラは、俺の服の裾を、ひしと掴んだ。
どうして、薬のことを覚えれば、アサツキに置いて行かれないことになるのか。
そもそも、アサツキはシュラを置いていったなんて、考えもしていないだろう。
シュラにはシュラの感じ方があり、考え方がある。
俺に出来ることはなんだ。
もっとうまいやり方がある、とでも言うか?
心配しなくても、アサツキはお前を置いて行ったりはしないと、励ますか?
きっと、どちらも違う。
シュラの選択が最良でなかったとしても、それはシュラ自身で学ぶべきことだ。
横合いから俺があれこれ指図したって、本当の意味でシュラに成長はない。
なら俺は、シュラの選択が最善だと信じて、その背中を押してやるだけだ。
「いいだろう、薬のことを教える。お昼ごはんを食べたら、俺と店に出るぞ」
シュラはいつもの、煌めいた笑顔を取り戻し、「はい!」と元気良く頷いた。
食卓へ向かうシュラを見送って、歩き出す。
子供部屋の手前で、なんだかもどかしそうに、スクモが扉の隙間を覗いていた。
「なにをやってるんだ?」
びくりと肩を震わせて、スクモがこちらを見た。
なんでここにいるんだ、とでも言いたげな顔だ。
俺の家に俺がいるのは当たり前だが。
「な、なにか用か……」
警戒を顕わに、スクモは軽く身構えた。
その様子が可笑しくて、微苦笑する。
「昼ごはんだぞ」
「そうか」
澄ました顔で、スクモは俺の横を通り過ぎた。
心なしか、足取りがせかせかしている。
可愛げがあるんだかないんだか。
「さて」
正直、顔を合わせるのが辛い。
どんな顔をしていれば良いんだ。
何事もなかった風が良いのか、あくまでも厳かな態度を貫くのか。
できれば自然体が良い。その方が気楽だ。
「よし」
自然体、自然ってなんだ。
普段、どんな接し方をしていたかな。
アサツキは今、どんな気持ちだ。せめてそれくらい分かっておかないと、とんでもない失言や行動をしてしまうかもしれない。
いや、いくら悩み抜いたところで、人の気持ちなんてわかりはしない。
俺に出来ることは、一人の人間として、アサツキと向かい合うことだけだ。
扉を叩くと、アサツキは「どうぞ」と返事をした。
扉を開けると、ベッドから上体を起こして、こちらを見るアサツキがいた。
恬然とした態度に、些か不安にさせられる。
「昼食だが、食べに来れるか」
「行けます、もう動けます」
するりと、アサツキはベッドから降りて、俺の前に立った。
「行きましょう」
「ああ」
アサツキの頭を撫でた。
こうしないと、なんとなくだが、アサツキはすぐに何処かへ消えてしまう気がする。
迷惑がるでもなく、嬉しそうにするでもなく、淡々と、俺に頭を撫でさせるアサツキがなにを考えているのか、まるでわからない。
試しに、手を差し伸べてみた。
アサツキは俺の手を見て、躊躇うことなく手を繋いだ。
素朴な行動の一つ一つが、アサツキの心を知る手掛りだ。
表情に乏しく、論争を好むわけでもないアサツキは、ある意味で誰よりも純粋だ。
上辺を繕わないのだから。
繋いだ小さな手の感触に安心しながら、俺とアサツキは食卓に着いた。
スクモとシュラはいるが、アザミがいない。
「アザミはどうした」
「母さんはトイレに行きました」
「吐きそうな様子だったぞ」
そう聞くと放っておく気にもなれず、席を立ち、様子を窺いに行った。
トイレの扉が開け放しになっており、中に嘔吐するアザミがいた。
慌てて垂れる髪を持ち上げ、背中を擦る。
「おい、どうした」
「ご、ごめんなさい」
「病気か、症状は」
「ちがうの、そうじゃないの」
少し落ち着いたアザミに、口を濯がせた。
「ありがとう、落ち着いた」
「それで、どうしたんだ?」
「アサツキがいなくなったこともあって、いつ言おうか迷っていたのだけれど……」
そう言いながら、アザミはそっと、下腹部の辺りを撫でた。
はにかんだ様は、正しく慈母だった。




