六話
何気無い、何の変哲も無い、有り触れた日常。
それが如何に尊く、得難い物であるのか。
それを常とし、退屈だと感じる者には解らない。
そして、往々にして失い、二度と戻らない状況へと至って初めて、その大切さと儚さを知る。
けれど、零れ出た水が戻らぬ様に。
その日常もまた、決して戻る事は無い。
だからこそ、今有る日常が如何に尊く儚いものか。
それを常日頃から意識し、大事にしなくては。
空を見上げ、一つ小さな息を吐く黄忠。
今、こうして生きていられる事が幸せだと思う。
──と、背後の茂みが鳴った。
振り向くと、自身の背丈よりも高い深い茂みから、黄忠と同じ髪色の頭が姿を見せた。
「お母さん!、見て見て!、ほらっ!」
「あら、立派な山鳩ね、凄いわよ、璃々」
「えへへ~」
黄忠は娘である黄叙が手に持った丸々とした山鳩を見て誉めると、右手で頭を撫でる。
嬉しそうに無邪気な笑顔を見せる黄叙の姿を見て、黄忠は胸中で何度目になるか判らない痛みを覚え、けれども、同時に日溜まりの様な温かさを感じる。
夫を亡くしてから上辺の笑顔しか見る事が出来ず、色々と辛く寂しい思いをさせてしまっていた。
その事実を改めて目の当たりにしている様で。
心には苦味が広がってしまう。
けれど、今は有りの侭の姿を見せてくれている。
その姿が、その笑顔が、堪らなく愛しくて。
後悔は有れど、間違いだとは思わない。
自分も、娘も、それを糧にする事が出来る。
そうして、一緒に未来に向かい進んで行ける。
そう、はっきりと黄忠は感じられている。
「璃々、折角の獲物だ、処理をしないとな」
「うん!、お母さん教えて!」
「ふふっ、それじゃあ、先ずは──」
黄叙の後に続き、茂みから現れたのは朱荒。
興奮している黄叙を落ち着かせる様に右手を伸ばし頭を優しく撫でて、次の行程へと促す。
黄叙は素直に従い、黄忠に教えを求める。
何気無い、けれど、この母娘には欠けていた光景。
当たり前の様に有る、有り触れた日常の一場面。
しかし、それが特別である事を噛み締める。
黄忠に続き、側の小川で山鳩を処理を教わる黄叙。
その姿を見詰めながら朱荒は夜営の準備をする。
本来であれば町まで行って宿を取るべきだろう。
如何に黄叙が精神的には大人びていても子供。
その安全や健康を考えると夜営は避けるべきだ。
しかし、足取りが判り過ぎるのも後々に響く。
その為、こうして野営する事も仕方が無い。
生まれて初めての狩り。
それを経験し、自分で獲った獲物を料理もして。
黄叙は心地好い疲れの中、眠りへと沈んだ。
そんな黄叙から少し離れた小川の下流。
其処で黄忠は汗を流す為、着物を脱いでいた。
八歳の娘を持ち、来年には三十路となるとは思えぬ瑞々しい肢体は月明かりに照らされ、艶かしく。
匂い立つ色香を具象化したかの様に纏う湯気。
その姿は見る雄を誘う魔性と言える。
そんな黄忠の視線が捉え、鼓動と体温を更に上げる要因となるのは、同じ様に服を脱いだ朱荒の姿。
長身ではありながら、着痩せする朱荒。
しかし、その肉体は芸術的とも言える程で。
黄忠は自然と見入ってしまう。
──が、それは一瞬の事。
芸術的な感嘆よりも、肉欲の猛りが勝る。
朱荒の雄々しさを見て、黄忠の雌が疼く。
甘く薫る花の蜜に誘われる蝶の様に。
黄忠は朱荒の傍へ行き、肢体を重ね預ける。
黄叙の事も有る為、長い時間は離れられない。
そういう意味では宿の方が安心して出来るのだが。
此方等は此方等で、制限が有る分、燃え滾る。
そして、朱荒と二人きりの時だけは。
黄忠は母親ではなく、一人の女に戻る事が出来る。
母親として娘の黄叙を愛しているし、大切に思う。
けれど、それは黄忠自身の一面でしかしない。
今、黄叙が素直に母に甘えられている様に。
黄忠もまた、素直に朱荒に甘えている。
黄叙の手前、それは蜜月の逢瀬の様にだが。
それが逆に背徳的で刺激的だったりもする。
まあ、つまりは黄忠も黄叙も幸せだという事で。
そんな三人の姿を客観的に見たならば。
十中八九が「仲の良い親子だ」と思うだろう。
其処に真実の確認という無粋な真似は無用である。
「──桔梗お姉ちゃんっ!」
「おおっ、久し振りだな、璃々、元気だったか?」
「うん!、桔梗お姉ちゃん達は?」
「おう、私も焔耶の奴も元気過ぎる位よ!」
走り寄った黄叙を軽々と抱き上げる女性。
黄忠の友人であり、益州の巴郡の太守・厳顔。
だが、その気さくな対応からは官吏感は感じない。
それは初対面の朱荒には良い意味で印象的で。
それを敏感に感じ取った黄忠は見えない所で朱荒の左腕を軽く恒って抗議とした。
まあ、その程度の嫉妬なら可愛いものだろう。
「急に来てしまって御免なさいね、桔梗…」
「何、大して遣る事も無し、構いはせんよ
それより…其方の男は?」
「俺は朱荒、旅の身だ
縁有って、二人と此処まで一緒に来させて貰った」
「そうだったか…私は太守の厳文伯だ
友と、その娘を送って貰い感謝する」
事実なのだが、過去形の言葉に黄忠の表情が曇り、それを厳顔は見逃しはしなかった。
そして、それだけで何と無くだが察した。
──否、ある意味では無駄を省いた核心をだ。
その辺りは流石は女同士、という事だろう。
厳顔は朱荒に今後の予定を訊ね、黄叙を交渉材料に上手く使って、暫しの滞在を朱荒に決めさせた。
直ぐ視線で「これで良いな?」と黄忠に訊ねれば、彼女は「もうっ…お節介なんだから…」と照れつつ反論はせずに小さく首肯した。
そんな友人の初々しさを肴にした、その日の夕食の酒は久々に美味かった。
──とは言え、その前には黄忠と二人きりになって事の次第を聞いた時の憤怒は確かだった。
勿論、そういった政争は日常茶飯事。
自分達が身を置くのは綺麗な舞台ではなく。
幾多の思惑・謀略が絡み合う政治という戦場。
だから、他人事ではなく、珍しい事でもない。
ただ、其処に黄叙を巻き込んだ韓玄は赦せない。
現状では手出しは出来無いし、させないが。
機会が有れば、叩き潰すと厳顔は心に決めた。
「──はあぁああっ!!、とりゃあぁああぁあっ!!」
「その意気や良し──が、詰めが甘い」
「──なっ!?、きゃあぁあぁっ!?」
巨大で大重量の鈍器たる金棒を振り下ろし、それを受けられた瞬間に距離を詰めて蹴りに入った。
その右足を掬い上げる様に往なされて、まるで宙に浮かぶ様に自由を奪われる。
その不安感のまま、視界が大きく回転。
予期せぬ事態に思わず上がった声は可愛らしく。
普段の言動からは想像し難いと言えた。
そして、その声の主は愛器を手放し、地面の上へと座り込む格好で着地させられた。
混乱から呆然としていると顔に影が掛かる。
「何だ、もう終わりか、焔耶よ?」
「──っ!、ま、まだです!、まだ──あれ?」
厳顔に挑発され、立ち上がろうとする魏延。
しかし、自慢の怪力も見る影も無く、力無く地面に座り込んだまま動けずにいた。
所謂、“腰が抜けた”状態になっていた。
だが、疲れて立てない事は有っても、そんな経験は一度もした事が無かった為、不安から焦る。
──と、そんな魏延の身体が宙に浮かんだ。
急な事であり、魏延自身が立った訳ではない。
しかし、不思議と魏延から不安は消えていた。
魏延の双眸が映すのは自身を下した朱荒。
手合わせをする切っ掛けとなった不遜な態度は既に消え失せており、羞恥心から顔を伏せた。
しかし、力の入らない身体とは逆に、鼓動は煩い程激しく鳴っている状態だった。
「無理をするな、下手に動くと筋等を痛める
まだ遣る気は有るだろうが、今日は此処までだ」
「やれやれ、仕方が有るまい…
紫苑、済まんが焔耶の代わりを頼めるか?」
「ええ、構わないわよ
居候させて貰うのだから、その位は問題無いわ」
「…っ………紫苑様、申し訳有りません」
「大丈夫よ、焔耶ちゃん
それよりも大人しくしていないと駄目よ?」
「…士清よ、済まぬが焔耶を此奴の部屋まで連れて行ってやって貰えぬか?」
「ああ、構わない、序でに処置もしておこう」
「それは有難いな、焔耶、大人しくな?」
「…はい、判っております…」
「それじゃあ、璃々も一緒に行こうか」
「うん!」
朱荒に抱き抱えられたまま運ばれて行く焔耶。
その隣を焔耶を心配しながら歩く黄叙。
三人の様子を見送りながら厳顔と黄忠は破顔。
つい、あんまりな状態に笑ってしまった。
だが、二人は口にせずとも理解していた。
「惚れたな」「惚れたわね」と。
武張っていた少女が、恋に落ちる瞬間。
それを知っているが故に、色々と理解出来る。
だからこそ、楽しみにも感じるのだが。
当事者達は知る由も無かった。
部屋に着いた後、寝台に寝かされた魏延は朱荒から身体の筋を解す様に整体術を受ける。
遣る事の無い黄叙は一足先に東屋の方へ。
その為、部屋の中には魏延と朱荒の二人だけ。
女と男が二人きり、である。
「~~~っ、ぃぁっ、~~~~んんっ、くぁぅっ、ん゛ん゛っ、ぁあ゛あっ、ぃぃ゛いっ、ひぐっ!?」
「……これは凝りが酷いな
きちんと普段から気を付けているか?」
「しょっ、しょれはァアッ!、マッ、待ってェっ、そ、其処は無理ィイッ!?、ひぃァアぁっ!?」
「…まあ、この状態から見ても無頓着だろうな
いい機会だから、しっかりと教えておいてやる」
「ゥそォッ、ム、無理ですかラァア゛ァア゛ッ!?」
色気が有る様な無い様な声を上げる魏延。
だが、必死の抗議も虚しく、朱荒の施術は続く。
気持ち良さと痛みが交互に襲い掛かる中。
好きな男に触れられている。
男の匂いが、温もりが、息遣いが。
魏延は全身に染み込む様に感じられて。
色々と可笑しくなりそうだった。
その魏延にとっての幸いは、粗相をするよりも先に精神的に限界を迎えて気絶した事だろう。
その後、朱荒は魏延を寝かせてから東屋へ向かい、黄叙と御茶を楽しんだ後、体術の基礎を指導。
母親譲りの武才は、まだまだ未熟も輝く。
「…じゅるっ、ずちゅっ、ぢぢゅっ…んむぅっ…
…ぅぷはぁっ…紫苑の奴が夢中になる筈よな…
この様なものを味わえば、忘れられぬわ…んっ…
ぢゅぷっ…くぢゅっ、ぺちゅっ、ぷぢぢゅっ…」
「んっ…それは御互い様だと思うが…ぢぢゅっ…」
「…ん゛んっ!?、ぅあァアッ、そ、それハアッ!?」
日が落ち、多くの者が眠りに就く中。
日中以上に生命力に溢れた熱を帯びる者も居る。
厳顔の部屋に招かれ、簡単な酒宴から始まったのは必然と言える夜の営み。
当然だが、黄忠との関係を厳顔は知っている。
知っていて、朱荒を誘い、こうして一線を越える。
──が、別に黄忠から奪おうとは思ってはいない。
寧ろ、そういう部分では黄忠に譲っている位だ。
ただ、御裾分けして貰うだけ。
そのつもりだったのだが。
厳顔は黄忠に胸中で謝るしか無かった。
申し訳無いが、これは本気になってしまう。
色恋の欠片すら感じなかった魏延を落としただけは有るという事だ。
厳顔の方が、襲って喰らう筈だったのが。
気付けば貪り喰われているという現状。
しかし、そんな事は、どうでも良かった。
求め、求められ、蹂躙される様に愛されれば。
下らない思考は疾うに消え去っていて。
ただただ、その猛る熱を交え、熔け合う様に。
余計な事は綺麗さっぱり消えている。
仰向けになり、見詰め合い、唇を重ね合う。
触れるだけでは物足りず、互いの舌を絡め啜る。
漏れる吐息と、部屋の中に響く嬌声。
深まる夜に促される様に。
二人も深く、深く、深く、繋がりを深める。
乾いた砂が水を吸い込む様に。
厳顔の女としての本能が貪欲に喉を鳴らす。
静寂な筈の夜は艶やかな音に彩られて。
夜明けを迎えるよりは早くに、宴は終わる。
ただ飽く迄も、その日の宴が、である。




