第2話 「検討する」という返事
最初の1ヶ月は、何も起きなかった。
それが、いちばんの罠だった。
殿下の執務室の、机の左の引き出しには、薄い書類が入ったままでいる。開けられた形跡は、ない。
「殿下、本日の陳情です」
秘書官が、束を机に置いた。
これまでなら、束はセレスティーヌの手を通って、半分ほどの厚さになってから届いていた。残りは、却下と、代替の窓口の案内を添えた返書になっていたのだ。
けれど今日は、束がまるごと殿下の前にある。
「港の商人組合から、倉庫の増築許可の願い出です。費用の半額を、王家に負担してほしいと」
「……予算は?」
「ございません」
「それは、困ったな」
殿下は、顔をしかめた。
却下すれば、商人組合が怒る。許可すれば、国庫が尽きる。
どちらも、気持ちのいいものではなかった。
「検討する、と伝えてくれ」
「かしこまりました」
秘書官は、頭を下げて退出する。
検討する、という返事は、却下より、ずっと優しく聞こえる。
殿下は、そう思った。
それが、どれほど残酷な返事なのかを、彼はまだ知らない。
◇
港の商人ベルタン氏は、その返事を、希望として受け取った。
王宮が、検討してくれる。
それなら、増築の準備を進めよう。資材を押さえ、大工を雇い、先に基礎を打ってしまおう。許可が下りたとき、すぐに着工できるように。
2ヶ月後には、資材の支払いが、組合の蓄えを食い潰していた。
けれど、王宮からの返事は、まだ来ない。
3ヶ月目、ベルタン氏は王宮へ出向く。
「検討は、まだ、お済みではないのでしょうか」
「現在、殿下が慎重に」
「慎重に、とは」
「慎重に、です」
その日の夕方、市場で、古い知り合いに零した。
「黒手袋の令嬢のときはな、こうじゃなかった」
「そうなのか」
「却下なら却下で、その日のうちに返事が来る。冷たい文面でな、腹も立ったさ。だが、必ず1行、付け足してあった。この件なら、南の組合基金へ、とな」
彼は、空になった財布を、見つめた。
「あの1行に、俺は、7年間、助けられていたんだな」
◇
聖女の慈善院には、日ごとに人が溢れた。
ミレイユは、誰の願いも、断らない。
病気の子を連れた母親には、「必ず、薬を届けますね」と微笑む。
職を失った男には、「きっと、仕事が見つかります」と手を握る。
その微笑みと手の温かさは、本物だった。
けれど、薬を買う予算も、職を斡旋する窓口も、彼女の手元にはない。それらを調整していたのは、引き継ぎ書の1番から3番だったのだから。
約束だけが、増えていく。
果たされない約束が、慈善院の廊下に、積もっていく。
「聖女様は、優しいけれど」
最初にそう言ったのは、誰だったのだろう。
「優しいだけで、何もしてくれないね」
その囁きは、ゆっくりと、都じゅうに広がっていった。
◇
男爵家の話は、もっと露骨だった。
セレスティーヌが追徴と解雇を言い渡した14軒は、いずれも、領地の収入を使い込んでいた家だ。
彼女の仕事は、その使い込みを、静かに、確実に、取り戻すことだった。
追徴が止まったのは、彼女が去った翌週のこと。
3週目には、解雇された執事たちが、元の屋敷へ戻っていた。
誰も、止めなかった。止める者が、いなかったからだ。
月末の収入報告書を前に、財務卿は、初めて頭を抱える。
「……足りない」
「何が、でしょう」
「追徴分の入金が、すべて、途絶えている」
そこへ、殿下の離宮の増築費の請求書が届いた。
「却下する者が、いない以上」
財務卿は、静かに、判を押す。
「通るしかありません」
◇
男爵のひとり、オーベールは、夜会の席で、グラスを掲げていた。
「黒手袋の令嬢が消えて、ようやく、息ができる」
周りの貴族たちが、声を上げて笑う。
「あの令嬢は、細かかったからな」
「帳簿を、1行ずつ読むのだ。あれほど嫌な目をした女も、いない」
彼らは、知らなかった。
その細かさが、彼らの領地の使い込みを、ひとつ残らず見つけながら、1度だけ、見逃していたことを。
追徴は、事情を聞いたうえで、分割にしてあった。猶予を与えられていたことを、「情け」と呼ぶ者は、ひとりもいない。
彼女の去ったあと、財務卿は、書類の山の底から、その猶予の記録を見つけ出す。
記録の末尾には、彼女の字で、小さく、こう書かれていた。
『この家は、再起の余地あり。次回の追徴は、延期を提案』
財務卿は、長いあいだ、その1行を見つめていた。
◇
王宮は、新しい嫌われ役を、立てようとした。
名乗りを上げたのは、伯爵令嬢のジョゼフィーヌだった。
「わたくしがやりますわ。要は、怖い顔をして、断ればよろしいのでしょう?」
彼女は、確かに、怖い顔をしてみせる。
陳情者は、大声で追い返す。使用人は、理由も告げずに怒鳴りつける。
けれど、代替の窓口は、1行も添えなかった。
却下の理由を、説明することもない。
彼女は、嫌われることを、演じただけだった。
線を引くという仕事の中身は、どこにもなかったのだ。
「あれは、ただの癇癪持ちだ」
市場の乾物屋の女将が、鼻を鳴らした。
「黒手袋の令嬢は、冷たかったけど、筋は通ってたよ。あたしは、あの人に、1度、怒られたことがあってね。うちの店の帳簿の付け方でさ」
女将は、棚の干し魚を、指で弾く。
「でも、そのおかげで、翌年の税が、半分で済んだんだ」
誰も、その事実を、記録していない。
けれど、都じゅうの人間が、少しずつ、同じことを思い出しはじめていた。
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